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黒羽織其の六 妖刀さがし
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この日は朝から雲行きが怪しかった。
来る八月二十日を前にして、岡田以蔵は木屋町にある武市半平太の寓居にいた。
彼の目の前には、多くの土佐藩士が腰を下ろしている。
以蔵をはじめとする他の藩士達とは違い、武市半平太は土佐藩の蔵屋敷にいることは殆ど無く寓居で過ごす為、話し合いは料亭を使う事が多かった。
寓居には武市が結成した土佐勤王党の同士が訪れる事が多く、この日も以蔵は寓居の一室にてジッと座っていたのだ。
緊迫した雰囲気というよりは、皆が思い思いに過ごしては会話をしている様が見て取れる。
以蔵は人の輪に自分から入るような事はせず、ただジッと刀に凭れたまま、障子戸の隙間から見える景色をぼんやりと眺めていた。
「・・・・・・・」
人の輪に入るのは正直言って好きではなかった。
皆の話は尊皇攘夷がどうだとか、諸外国の勢力がどうだとか、今こそ勤王の志士を持って行動すべき時だとか、難しい話ばかりでさっぱり話にはついていけず、時折ひそひそと「なして武市先生は、あんな無学者を側に置いておくがじゃ」「わからんのう」「七以と呼ばれるだけのことはある」と、ワハハハと笑われてしまうこともよくあった。
その度に以蔵は何か言おうとしたものの、ぎりりと腰に掛けた刀を握り締めては、その言葉の波に耐えている事が多かった。
言い返したいものの、もやもやとするだけで、どうにも言葉が出て来ない。
学が無いわけではない。父母は学問に通じていたし、また郷里にはいくつか塾も開かれている。以蔵も他の者達と同じように、幼い頃には剣や学問をそれぞれの師のもとで学んできた過去もあるにはあるのだ。
あるにはあるのだが、ジッと座って読み書きを習うことは、どこか退屈で仕様が無かった。師の話す言葉が難しかったわけではない。
本を読むこと。これはまだいい。次に文字を書く事。これがいけない。
筆を執り、横に置いた手本を見て同じ文字を書く。一見単純な動作に見えるのだが、いざ書いてみれば以蔵の文字は、どこもかしこもグネグネしていて、一体何を書いているのか。
よく分からない事が多かった。
そんな以蔵の父は、とても字が美しかった。
誰が見ても「ほぅ」と唸る字を書く父の隣で、その様を眺めていたこともある。けれど、父と同じような文字を書く事は、自分の中では苦痛でしかなかったのかもしれない。
座して習う学問よりも剣術の方が自分には合っていたのだろう。
学問に比べると、剣を習うことの方が楽しかったのは事実ではある。
だが、今の世は剣術だけではなく、学問もある程度は必要不可欠なものとなってくるのは当然のことで。世の中の、ありとあらゆる話を論ずる知性を持つ他の藩士達に比べると、剣術だけが先を行く以蔵は明らかに不利だったに違いない。
しかし、藩士の中にはそんな人間ばかりでもなく「気にせんでええ」「言いたい奴には言わせておけばええ」「武市先生が、おまんを選んだんじゃろう?じゃったら、堂々としててええんじゃ。のう岡田?」「分からんことがあったらわしらに聞けばええ。武市先生みたいにうまくは言えんがのう」と声をかけてくれる者もけして少なくは無く、その度に以蔵は黙って頭を下げていた。
もとより雑談を含め、自分から話をするのは得意ではなく、皆がああも自由に会話し先の世を論じる事に、疑問を感じる事はあったものの、島原や料亭、遊郭に向かう時には何故か自分も動向させられ、女と酒を前にしては頭が真っ白になることも少なくなかった。
島原もこの町を歩く女共もさして何も変わらないと以蔵は思う。
どれだけ白粉の匂いがきつくとも着物の下は皆同じ。喘ぐ声も、感触も何ら変わりはない。
最初に白粉の濃い女を見たのはいつだったか。
確か江戸だったのではないかと思う。
江戸の女は、国の女とは何かが違っていた。
上手くは言えないが、ざわざわと人通りの激しい街を進む武市半平太の後ろをついて歩く度に、やたらと江戸の女が目についた。
『・・・・はぁ・・べっぴんじゃぁ・・』
以蔵が初めに思ったのは、それである。
女が横を通り過ぎる度に、どこか甘ったるく花にも似た匂いがぷんとした。
はじめはそれにギョッとして、振り返って女を見た。
「・・・・・・・・・・」
結い上がった女の首筋から香るそれは、まるで余韻を残した残り香のように、以蔵の鼻をツンとつつくのである。
来る八月二十日を前にして、岡田以蔵は木屋町にある武市半平太の寓居にいた。
彼の目の前には、多くの土佐藩士が腰を下ろしている。
以蔵をはじめとする他の藩士達とは違い、武市半平太は土佐藩の蔵屋敷にいることは殆ど無く寓居で過ごす為、話し合いは料亭を使う事が多かった。
寓居には武市が結成した土佐勤王党の同士が訪れる事が多く、この日も以蔵は寓居の一室にてジッと座っていたのだ。
緊迫した雰囲気というよりは、皆が思い思いに過ごしては会話をしている様が見て取れる。
以蔵は人の輪に自分から入るような事はせず、ただジッと刀に凭れたまま、障子戸の隙間から見える景色をぼんやりと眺めていた。
「・・・・・・・」
人の輪に入るのは正直言って好きではなかった。
皆の話は尊皇攘夷がどうだとか、諸外国の勢力がどうだとか、今こそ勤王の志士を持って行動すべき時だとか、難しい話ばかりでさっぱり話にはついていけず、時折ひそひそと「なして武市先生は、あんな無学者を側に置いておくがじゃ」「わからんのう」「七以と呼ばれるだけのことはある」と、ワハハハと笑われてしまうこともよくあった。
その度に以蔵は何か言おうとしたものの、ぎりりと腰に掛けた刀を握り締めては、その言葉の波に耐えている事が多かった。
言い返したいものの、もやもやとするだけで、どうにも言葉が出て来ない。
学が無いわけではない。父母は学問に通じていたし、また郷里にはいくつか塾も開かれている。以蔵も他の者達と同じように、幼い頃には剣や学問をそれぞれの師のもとで学んできた過去もあるにはあるのだ。
あるにはあるのだが、ジッと座って読み書きを習うことは、どこか退屈で仕様が無かった。師の話す言葉が難しかったわけではない。
本を読むこと。これはまだいい。次に文字を書く事。これがいけない。
筆を執り、横に置いた手本を見て同じ文字を書く。一見単純な動作に見えるのだが、いざ書いてみれば以蔵の文字は、どこもかしこもグネグネしていて、一体何を書いているのか。
よく分からない事が多かった。
そんな以蔵の父は、とても字が美しかった。
誰が見ても「ほぅ」と唸る字を書く父の隣で、その様を眺めていたこともある。けれど、父と同じような文字を書く事は、自分の中では苦痛でしかなかったのかもしれない。
座して習う学問よりも剣術の方が自分には合っていたのだろう。
学問に比べると、剣を習うことの方が楽しかったのは事実ではある。
だが、今の世は剣術だけではなく、学問もある程度は必要不可欠なものとなってくるのは当然のことで。世の中の、ありとあらゆる話を論ずる知性を持つ他の藩士達に比べると、剣術だけが先を行く以蔵は明らかに不利だったに違いない。
しかし、藩士の中にはそんな人間ばかりでもなく「気にせんでええ」「言いたい奴には言わせておけばええ」「武市先生が、おまんを選んだんじゃろう?じゃったら、堂々としててええんじゃ。のう岡田?」「分からんことがあったらわしらに聞けばええ。武市先生みたいにうまくは言えんがのう」と声をかけてくれる者もけして少なくは無く、その度に以蔵は黙って頭を下げていた。
もとより雑談を含め、自分から話をするのは得意ではなく、皆がああも自由に会話し先の世を論じる事に、疑問を感じる事はあったものの、島原や料亭、遊郭に向かう時には何故か自分も動向させられ、女と酒を前にしては頭が真っ白になることも少なくなかった。
島原もこの町を歩く女共もさして何も変わらないと以蔵は思う。
どれだけ白粉の匂いがきつくとも着物の下は皆同じ。喘ぐ声も、感触も何ら変わりはない。
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