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灰空に堕ちる

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白と灰が混ざるその視界の中を覆い飛ぶように、ピィーッと甲高い声を上げて鳴く一羽の鳶がふと首を下方に下げた。
眼下に広がるは断崖絶壁の壁。
ネズミの国で縛についた者たちが、ひとり。またひとりと四肢をもがれた後に待つ仄暗い谷底へと落とされて行くこの地の名は、通称『死者の谷』と呼ばれている。

湿気たような空気が男達を飲み込んでいく。風は少し強く、吹きあがる度に砂が舞った。
何も敷かぬその地に猿轡を噛まされた姿で寝かされている者がいる。
土と泥で汚れ灰色に染まった直裾袍を身に纏い、結っていた髪は僅かに乱れている。
暴行を受けたであろうその四肢に、縄をきつく結ばれたままの男が険しい表情を崩そうとしないまま、ふと空を仰いだ。

「・・・・・・・・・・・」
これから執行されるであろう刑を見届けるかのように、白と黒の装束に身を包んだ刑部に属する役人が男の周囲を囲むようにずらりと立っている。
巻物を眼前に構えた一人の役人が甲高い声で罪状を読み上げていく度に、二本の柱で固定された処刑具が少しずつ近づけられていった。
キリキリキリと軋むような音が土の底から響いてくる。
処刑人の表情はずっと一点に視線を向けたまま変わる事はない。
彼が紐を引くごとに、その上に固定された鉞(マサカリ/エツともいう/この国の当時の処刑具はギロチン状になっていて刃がマサカリである。現在はこの処刑法は廃止されている)が、カタカタと上に引き上げられていった。

「―――――・・・!!」
刑部の声が、一瞬途絶え、一番高い位置まで引き上げられたその綱が、ふっと処刑人の手から離れて行く。
「・・・ふっ・・ぐぅ―――――っ!!」
罪状がひとつ。またひとつと読み終える度に鉞が落とされ、落ちた刃の勢いで肉体の一部がどすん。どすんと空を舞い落ちて行った。
ひとつ。またひとつと落とされる度に最初は感じる事の無かった痛みがじわじわと広がり、男の額に脂汗がいくつも浮かんでは伝い落ちて行く。痛みを感じていたはずの肉体が麻痺し始めたのか、ガクガクと痙攣する身体をどうする事も出来ないまま、彼は最後の一撃が落とされるのを今か今かと待ち望んでいた。

―――はずだった。

「―――――する」
『ん・・?』

てっきりその鉞で首を切り落とされるものだとばかり思いこんでいた男の脳裏に疑問が浮かんだ。
自分の首に当てられるはずの鉞が見えないのだ。
それどころか、淡々と片付け始める音まで聞こえてくるではないか。
『おい。ちょっと・・ちょっと待ってくれ・・』
そう声に出そうにも唇は猿轡のせいで「ふうふう」と息を漏らすだけで効果はなく、既に喉は奥の奥まで乾ききっていて、上手く声を出せそうにもない。
咳をしようにも傷に響く為、頭を動かす事すらも今の彼には難しいものだった。

そんな彼に構うそぶりも見せないまま、刑部の役人が淡々と終了の言葉を述べて礼を重ねている。
処刑人よりも先に去って行こうとするその背中を見ようと、男は顔を顰めながら首を少し上に動かすと側にいたはずの役人を見た。
役人達は振り返る事も無く足早にその地を去っていく。その背中を追う様に見ていると、不意に処刑人が男の側に近付いた。

「んっ・・んんぅ・・・んむぅ!」
「お待ちください。今外します」
処刑人の男はまだ若く、黒々とした髪を器用に結い上げ帽子で隠している。
切れ長のその眼が印象的なその男が淡々とした口調で器用に猿轡を外すと、四肢をもがれた罪人を見た。
「・・・おい・・どういう・・ことだ?」
「何がですか?」
「何がっ・・じゃない・・くびっ・・切っ・・・ないのか?」
「・・切って欲しいのですか?」
「・・・・はぁっ・・?」
「あなたの罪状は窃盗。殺人ではないので、あなたの刑はこれで終わりです」
「はぁあぁっ?」

処刑人のその声に男の脳内は真っ白になった。今、何と言ったと?
「罪状を聞いていなかったのですか?」
そう話す処刑人の表情は変わらない。
「・・・聞いて・・ないかもしれない」

その声に処刑人は「ああ、そうですか」と言うだけで切り落としたばかりの手足をヒョイヒョイと拾い上げている。そうして拾い上げたそれを崖の側に持っていくと一礼しながらひとつ、またひとつと崖下へ落としていった。
「・・・何・・してるんだ?」
「これですか?一種の弔いです。崖の下には野犬がいるので丁度良いかと」
「・・・・・・」
ああ。そう。そうまで言いかけて、ふと処刑人を見た。
「・・・なあ。これってどうなるんだ?」
「・・といいますと?」
「いや。動こうにも手足が無いからうごけっ・・ないだろ?」
ふうふうぜいぜいと息を切らす男を見てか、処刑人は静かに彼の側に腰を降ろしながら近付くと「身体を起こしますよ」と呟き、ゆっくりと労わるような仕草で男の身体を動かし、自身の膝で男の腰を支えるように座り直すと、腰に下げていた竹筒の栓をポンッと抜いた。

「・・いい・・」
「飲んで下さい。喉が少し楽になります」
「・・・お前の衣が汚れる」
実際、斬り落とされた箇所からは止めどなく血が流れ続けている。けれど、処刑人は気にする様子を見せる事はなく男の唇に竹筒を近づけていった。よく見ると処刑人の白い衣の袖から下は男の血がべっとりと染みつき、赤黒く染められている。

「私はこれが仕事です。気にしたことはありません」
「・・そう・・・か。では少しだけ水を貰おう」
その日。口に含んだ水は澄んでいて、非常に冷たかった。
「・・・うまい・・」
「もっと飲まれますか?」
「・・いや。いい。助かった。感謝する」
「・・そうですか」
淡々と話す処刑人の声は変わらない。彼も同じ竹筒で水を飲み、またそれを腰に下げていた。

「・・・これから先は・・どうすればいいんだ?」
「・・・お身内の方はいますか?通常でしたら、刑部から通達が向かう手はずとなっているのですが・・」
「・・俺は僧だ。家族はいない」
「ではご出身は・・?」
「それもない。気が付いたら寺にいたんだ」
「・・・そうですか」
乾いたような風が静かに二名の頬を撫でて行く。
男は少しばかり何かを考えていたようだったが、ふと処刑人を見た。

「あんたに頼みがある。聞いてくれるか」
「・・なんでしょうか?」
「俺をここから落としてくれ。蹴るだけでいい」
そう話す男の瞳に迷いはなく、処刑人の眉間に皺が寄った。
「・・・・・?」
「少し、涅槃の境地を見てみたくなったのだ・・・」
馬鹿げていると思うか?と言い含んだような表情で男が処刑人を見ると、彼は先ほどとは違い、首を静かに左右に振りながら穏やかな表情で男を見た。

「いいえ。笑いはしません。・・・私には行くことの出来ない場所です」
「そんなことはない」
「・・そうでしょうか?」
処刑人のその声にふと影が差す。忍び寄る影を振り払うかのように男は俯いた処刑人の顔を見た。
きっと、処刑を淡々とこなすこの男は、自身の仕事がそうであるというだけで、冷酷でも非道でもないのだろう。

「弔いの気持ちを失うことなく行う自身を恥じる事はない。行き先を見失ったらその時は私を呼べ。いくらでも死の淵から這い上がってお前を見つけてやる」
「・・・・・貴方は不思議な人ですね」

事実、処刑人はそう思ったのだ。足を斬られ腕をもがれ、四肢の自由が利かなくなったら普通は取り乱し、絶望を感じるのが人の常と言うものだろう。事実、そういった罪人を数多く見て来た彼にとっては、この男の見せる余裕が一体何であるのか、皆目見当も付かなかった。
そもそも、僧が盗人となる理由がよく分からない。
托鉢を行う僧もいるにはいるし、修行僧とて日々の食い扶持には幾分かの余裕を持って行脚に向かうものだと思い込んでいたのだが・・。そうまで考えてふと処刑人は彼の顔をじっと見た。
耳が我々人のそれとは違い、尖った異形の形をしている。顔の半分を覆い隠すように伸びきった黒髪は、どう見ても剃り落とされた後、現在の長さまで伸びてしまったようには見えない。
しかも手入れをしていないせいか艶が無く、毛先が縮れて絡まりを見せていた。
瞳に至っては―‥・。

「―――――・・・・・」
「ん?」
男の瞳を見た処刑人は、眼を見開いたまま言葉を失ってしまった。
「・・・あ・・」
最初は漆黒の瞳だと思った。いや、思い込んでいたというのが正しいのかもしれない。
よく見るとその男の瞳は透き通るような紅の色をしていたのだ。

「・・・っ・・」
その瞬間、処刑人の男は射すくめられた雛のように身動きが取れなくなった。肉体の全てが重だるく、地についた先から痺れにも似た震えがじわじわと湧き上がって来るかのようだ。
「・・・っ・・」
ごくりと唾を飲み込むその音が、耳元で大きく響いた。
背筋を何か冷たいものが勢いよく滑り落ちて行ったのはきっと気のせいではないだろう。
「・・ああ・・いかん。いかんぞ。処刑人。あまり俺を見ない方が良い」
そう話す男の表情は実に楽しげで、それが返って処刑人には不気味に映ってならなかった。
仕方ないのう・・。男がそう呟き、二、三度瞬きをすると憑き物でも落ちたかのように処刑人の身体がふっと軽くなった。

「・・え?・・あれ・・」
「正気に戻ったか?」
「え・・は・・あ・・」
ポカンと口を開いたまま、処刑人が男を見ると、先ほどまでの赤い瞳ではなくまた漆黒の瞳に戻ってしまっている。何度も瞬きを繰り返しながら処刑人は男を見た。
「えっ・・と・・今のは・・」
「私のこの瞳はな、少々変わった体をしていてな。生まれつきどうにも色が違うみたいなのだ」
「・・・ご自身でそれを?」
「いや?夜伽の度に何故かよく言われる」
全く自覚は無いのだがなぁ・・なんてのんびりと話す男の台詞に何か引っかかったようで、処刑人は視線を空に向けながら首を傾げている。

『・・・確かこの方は僧と言ったな。ん?・・伽??』と、唸る疑問符をそのままに処刑人は「はぁ・・」とだけ返す事にした。
「さて、すこし長居をしすぎたな。・・頼む」
男のその声に、処刑人の瞼が僅かに下がる。
「本当に・・よろしいのですか?この先は、人間でも登ることが難しい崖の下です。ましてや、まだ意識が残っているあなたをそのまま落とすなど・・」
「構わんさ。やってくれ。それとも楽にしてから落としてくれるのか?」
「・・それは」
「そうだな。それを行えばそれは立派な殺人になる。私は敢えてそれをお前さんにさせたいとは思わんよ」
処刑人がゆっくりと立ち上がる。男の身体をしっかりと支えたまま一歩ずつ歩く彼の表情は先ほどよりも暗く、影が増しているようにも見えた。
色濃く残る灰色の空の奥からは、ゴロゴロと雷の襲来を告げる音が微かに聞こえてくる。
崖に近付くにつれて吹きあがる風の勢いが先ほどよりも強くなった。
よく見ると処刑人の顔からは血の気が失せ、青を通り越して白に染まってしまっている。
ぎゅっと抱えられた手のひらから伝わるその熱は驚くほどに冷たく、カタカタと震えているようにも思えた。

「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「そんな表情をするな」
「・・・・・・・最期に、」
「うん?」
「・・・あなたの名前を・・聞いてもいいですか?」
「・・・・・・樂塵煙。姓も名もない。それが俺の名だ・・・」

灰に染まったその空を、最期に見たのはいつだったろうか―・・・?


崖の下に落とされてから数日が経過した。
あの日。岩をゴロンゴロンと転がるように地に落ちていく様を感じながら、きっと自分の命もこれで終わりを迎える事が出来るだろう。最初はそう思っていたのだが、岩に一度ぶち当たっただけで後は急降下して地面へと叩きつけられてしまった。
しかし、悪運とは尽きないもので。まだ命が残っていたのだから、これは計算外としか言いようが無かった。

「・・・なんて・・こっ・・た」
地に着いた際に腹部を強打したせいで骨の何処かが砕けたのだろう。
呼吸を上手くすることが出来ないまま、彼はゴロゴロと唸る空を見た。
『雨が降るな・・』
自分の一族は人間のそれとは違い、意外と丈夫に出来ているようで、少しの衝撃ではびくりとも動かない。
人間よりも長寿だとは聞いてはいたが、何もこんな時にその長寿さを発揮しなくとも良いのではないだろうか。
心の底からそんなことを思いながら、樂塵煙はズキズキと痛みを増す肉体をどうする事も出来ないまま、ただじっとしている事しか出来なかった。

「・・・・・・・・・・」
何度も瞬きを繰り返す。そういえば、この地には野犬の群れがいると言っていたような気がする。
本来ならば既に野犬の餌になっていても良かったはずなのだが、生憎とこの天候で自分の周囲に近付こうとする野犬の姿を一匹も見る事は出来なかった。
「・・・・・・・・・・・・・・」
ぼんやりと空を見上げていた彼の頬にポツリと雨粒が落ちてくる。一粒だったそれは段々と増えて行き、ゆっくりと降り始めた雨粒はやがて大雨へと変化し始めたのはそれからすぐの事だった。

「・・・・・・・・・・眠い」
冷たさも痛みも増しているはずなのに、ふわふわとした浮遊感が彼の全身を包み込んで離そうとしない。
このまま浮く事が出来るのではないだろうかと思えるほどに、増す浮遊感は逆に心地の良いものでもあった。
ふと、懐かしい情景が甦る。
まるで命の灯を見ているかのように、今まで育ってきた自身の全てが走馬灯のように走り去っては消えて行こうとしている。ぼんやりとした意識でそれを眺めながら、塵煙は『ああ。自分の命はここで終わるのだ』と思った。
実際の所、最初から盗人になる目的で国に入ったわけではない。ふらりと立ち寄った店で他の客と同じように飯を食っている最中に、不意にある子どもの姿が目に留まった。それだけのことなのだ。

どうにかしようと考えた事こそが間違いだったのか?とも思うが、あの日。黙々と飯を口に運んでいた自分を見る子供の視線をどうしても忘れる事は出来なかった。
泥と砂が付着したままの衣を身に纏い、枝のように痩せ細った足と手が印象的だった。
瞳の奥を見てみればキラキラと揺らめくような光を宿しているようにも思える。
そんな不思議な子供の姿を毎日のように目にしているうちに、どうしてもその子供たちのことが気になってしまい、数日かけてその子たちが住まう地域まで足を運んだ日々が些か懐かしくも思える。
今でもふと思う時がある。

――飢えは、誰をも狂わせる狂気の始まりに過ぎないと。

子供たちが住まう地域は自身が立ち寄った繁華街の外れに位置する場所で、他の家々に比べると建物の造りが廃屋に近いものだった。皆、この地域を避けて通るように歩くせいか、人の姿は何処にも見当たらない。
店の店主や客に問えば「うーん。あの場所かい?」と返すだけで良い顔をした者は誰もいない。

一度、明るいうちにふらりと立ち寄ってみれば、人の気配は何処にも無く、家の中を覗き込んでみると屋根のあちこちが崩れ、空からの日差しが燦燦と降り注いでいる。太陽に反射するように土埃がキラキラと蛾の鱗粉の如く舞い上がる光景は一枚の絵のように彼の目には映った。

『・・・・・・・・・・・ああ。そうか。潜んでいるのか』
どこにも人が住んでいるとは思えない廃屋の隅をテクテクと歩きながら、塵煙はふと廃屋の床下に視線を向けた。足でトントンと揺らしてみれば、なるほどここだけ床板が緩んでしまっている。恐らくこの床板は扉のようになっていて潜むことが可能なのだろう。
『・・と、すれば、ここは急かずに引く方が得策か・・?』
「では、また来るとしよう!そうだな・・今度は燒餅(サオビン/ナンのようにもっちりとした生地が特徴の料理。そのまま食べても卵を挟んで食べても美味)か包子を持ってくるとしようか!」
床下にいるであろう者に届くような声量で話しながら床を歩くと、床下からゴトッガタッと何かが動いている音が微かに聞こえてくる。その様子に込み上げてくる笑いを飲み込みながら塵煙は颯爽とその場を後にしたのだった。

『・・・・・・・・・・懐かしい、な・・・』
沈み込んでいた意識がぼんやりと浮上を始めようと動き出していく。彼は閉じていた瞳をゆっくりと持ち上げた。もう随分と長い間、雨に打たれていたのだろう。どこか熱っぽい身体をどうする事も出来ないまま、塵煙は空を仰いだ。
ジンジンと痛みを増していたはずの肉体の殆どは麻痺してしまっているのか、痛みをほぼ感じなくなっており、彼は何度も瞬きを繰り返しながらウトウトと眠りはじめた。
その際、自身の肉体に何者かが近付いて来るような、そんな妙な気配がしたのは確かだが、自分はもとよりこのような身体なので、特に気にしても仕方が無いとそのまま夢の世界へと向かおうとしていた、その時である。

『・・・ん?』
不意に、彼は薄く瞼を持ち上げたまま、日差しを見た。
湿気を含んだ暖かい風がゆっくりと頬を撫でて行く。風が撫でそよぐ度に塵煙の前髪が微かに揺れた。
先日見た空とは違い、真白い雲が水色の空の下を悠々と浮かんでは風に流されて行く。

その光景をジッと眺めながら『・・・空は何と雄大なのだろうなぁ・・この空に比べれば我ら生きている民は何と狭く小さな世界の下で暮らしておるのだろう。飢餓を産むのは天災だが、争いを産むのは生きた民だ。戦うのも民であるなら、それにただ巻き込まれるのも、また民なのだ。あの子供達も無事であればいいが・・』
ふとそんなことを考える。

寺で習ったわが師も説法を懇懇と説く日もあるにはあったが、経はあくまでも経であり、その意味を知らずして何十万と経のみを読んだとしても本来の意味に気付かなくては何の役にも立つまいよというだけで、殆どの事は何も教えてはくれなかった。

気付く事、それこそが大義と言わんばかりの説法は日常生活の殆どを占めていて、働かない頭を何度も左右に振りながら云々と唸った日々が懐かしい。
しかも師は普通の僧とは異なり、いくつかの妖術を多用して数珠と棍でバッタバッタと夜盗を吹き飛ばす怪力の持ち主でもあった。かくゆう自身も師に習う修行の最中、無遠慮と無茶の渦の中で何度も『こんにゃろうクソ師匠が!』と頭の中で叫んだか知れない。ハハハ。

『・・・今でも・・その意味の殆どは・・分からないままだ・・』
きっと恐らく、その意味を本当に知る日は来ないのかもしれない。
けれど、だがそれも悪くない。
『きっと、こんな生涯も悪くはなかったと・・そう思える日が来るはずだ・・』
そう思いながらまたウトウトとし始めた彼の視界を不意に黒点が通り過ぎて行く。

『・・ん?』
青い空に似つかわしくない黒点がまた動き始めた。
最初は渡り鳥の群れだとばかり思い込んでいたが、渡り鳥にしてはいささか大きすぎるような気もする。
『・・・・・と・・・り・・か?』
そうまで考えて、その黒点をよく見ようと先ほどよりも大きく瞼を持ち上げた彼の視界に映ったもの。それは鳥よりも大きく長い蝙蝠によく似た翼の群れだった。
「・・・・?」
降下と共に黒点が段々と大きくはっきりと映り始める。
日差しを受けながら降下するせいでその生き物の顔は影に隠れて見えないままだった。

「・・・・・・?」
「この国の処刑ってのは生きたまま罪人を捨て置くのかぁーっ!?」
ビュオオオオオオッと空を切りながら急降下するその声が、一瞬、塵煙の脳内に大きく響いた。
その声を耳にした瞬間、彼の毛肌がぞわりと鳥肌が立ったように痺れ始め、ウトウトしていた意識から急に現実へと引き戻されてしまった。

「・・・!」
太陽の影に隠れて、はっきりと見る事が出来ない声の主の大きく黒い蝙蝠の羽が、塵煙の視界を奪ったのは、それからすぐの事だった。
「・・・蝙蝠・・?いや違う・・人・・だ・・」
蝙蝠の羽を大きく広げた翼族の群れが塵煙へと向かって急降下しようとしている。
その現実に頭が追い付いて行かないまま、彼は何度も瞬きを繰り返した。
太陽の日差しできらりと光るそれは翼族が手にしている長剣の鞘であると分かったのは、自身へ向けて剣が振り下ろされてすぐの事だった。

「ぎゃん!」
『・・・・・ん?』
自身へ向けて振り下ろされたのだとばかり思っていたせいか、急な展開に頭がついて行かない塵煙とは対照的に、鞘を手にした者が野犬の群れを一匹、一匹と蹴散らしている。

その背後を護るように、少し離れた所から弓矢がビュンビュンと正確な位置を狙う様に突き刺さっていく。
金色の髪がはらりと揺れ、黒く艶のある鞘はその勢いを失うことなく鮮やかな演武を魅せている。
太陽の日差しに反射し、艶を帯びたその光沢は塵煙の瞳を釘付けにして放そうとはしなかった。
『・・きれいだぁ・・・』
塵煙は無意識にそう呟いた。

金色の髪を揺らしながら群がる野犬に向かって峰打ちで叩いて行く謎の男も美しくはあったが、その男が自分の側で上体を屈めながら、頭上でぐるんぐるんと鞘を回転させながら、時には銃のように鞘のみを飛ばし、野犬の頭をトントンと打ち、群れを怯ませたかと思えば、刃をすらりと回転させながら、浮上した鞘が地へと落ちる寸前の動きを捉えるかのように器用に戻していく。
その俊敏な動きが何よりも美しく彼の瞳には映った。

速すぎるが故に、全てがスローモーションのように止まって見えたのもまた事実で・・。
野犬を横一列にトントントンと打ち、横倒しにさせたかと思えば、背後から飛びかかろうとする野犬に視線を向ける事無く、瞬時に膝を折り鞘を持ち上げたかと思うと、今度は柄を野犬の頭に向けて前後に振り降ろし、当てた勢いに任せてまた柄を鞘に納めている。
その彼を援護するように群れに向けて一斉に矢が放たれ、ピシピシと野犬の足元に刺さる光景は見事としか言いようが無かった。

「・・・・・・・・・・・・」
まるで棍をクルンクルンと回転させ打ち当てるかのようなその鮮やかな動きに、今まで幾度となく襲われていたはずの眠気も吹き飛んだ塵煙の唇からは感嘆の息が漏れた。
どれほどの時間、野犬との舞いを見ていたのだろうか。すっかりと獲物を捕る気を失った野犬は一匹、また一匹とその場を離れて行く。そうして野犬の気配を感じる事の無くなったその地には、湿気を含んだ暖かい風と静寂のみが訪れていた。

「・・・・・これで全てか・・ようやく静かになったな」
「・・・・・・」
「・・ん?」
開いていた蝙蝠の黒い翼がゆっくりと収められていく。
金色の髪と大きな瞳が印象的なその人物はようやく何かに気が付いたかのように、身動きの取れない塵煙に視線を向けた。
「・・・あ・・・・」
自身を見下ろすその者はふわふわとした髪が印象的だった。
毛先が緑色に染まっている金色の髪は手入れを怠っていないせいか、艶々と輝いている。
目力の強いその瞳はその者自身の意志の強さを表しているかのようにも見えた。

「・・・・・・・」
「・・・お前」
「・・・・?」
不意に声をかけられて驚いたという事もあるが、何よりも喉の奥がカラカラに乾ききってしまっていて、声を出す事が難しい。
それを構うそぶりも見せないまま、塵煙の側に立つその男が
「お前、生きたいか?」
と、問いかけて来た。

最初、言葉の意味をよく理解できなかった。
この状態で生きるも何も無いだろうと思っていた自分にとってその言葉は蚊帳の外の出来事のようにも思える。
「・・もう一度、聞く。生きたいか?」
男の顔を見る。その表情は笑っていない。塵煙は首を静かに振りながら、男を見た。

「・・・い・・・や・・も・・じゅ・・ぶ・・いき・・た・・いは・・な・・い」
『もう。じゅうぶんに生きた。このまま朽ち果てる生涯も悪くない』

十分に声が出ているわけではなく、かすれたような声だけが男へと向けられる。
その声を耳にして、男がうんうんと頷きを返したのを見届けると、塵煙は『ああ。これでやっと休むことが出来る』と思っていた。実際、そう思ったのだ。
だが彼の予想に反して、うんうんと頷きながら笑みを浮かべる男の口から告げられたのは予想外の言葉だった。

「面白い。じゃあ、もう少しだけ生きてみるがいい」
「・・・・・・・・・・・・・・」

今。何と言った?
今、この男は何とも無茶すぎる言葉を言わなかったか?私の聞き間違いか?
ここの所、雨にも打たれたせいで耳も頭も悪くなってしまっておるからなぁ。
そんな言葉が一瞬、脳内をするすると駆け抜けて行く。そんな彼を気にする風も無く、男は塵煙に背を向けると、何処かに向かって手をぶんぶんと振り始めたではないか。うむ?

「おおい!紅久」
「頭領!」
男の声に誘われる様に今度は何とも奇妙な容姿の者がスーッと舞い降りて来る。

蝙蝠の羽をマントで覆い隠すように降り立ったその男は、はたと見れば男なのか女なのか性別の見分けがつかない。それどころか眼の部分を細長い檻で囲うように覆い、正面に南京錠ががっしりと嵌められている。
一体何がどうしてそうなったのかと問いかけずにはいられない容姿の者が「頭領」と呼びながら、颯爽と男に近付くところを見ていると、恐らく金色の髪の者の方が位は上なのだろうと容易に推測できた。

紅久と呼ばれたその者は男に向かって一礼すると「どこに埋葬をするのですか?」と問いかけている。
その声に塵煙は『まぁそうだ。普通はそうだろう』と素直に思った。
しかし男の方はそうでも無いようで、紅久と呼んだ者に向かって「あれをそのまま持ち帰る」と話し始めたではないか。

その言葉に「うええっ!しょ・・正気ですか!?」と後ろに大きくのけ反りながら、紅久が男と塵煙を交互に眺めている。
無理はない。気持ちはよく分かる。塵煙は心の底からそう思わずにはいられなかった。

「ええ・・でっ・・でも・・とっ・・とぉりょぉ~・・・」
「なんだ?何か不満があるのか?」
「いやいや!あるも何もありまくりですって!!だってあの人・・ほぼ肉体無いじゃないですか!あぁもぅ喰われちまって、あぁ~あ~あぁーあぁー」
『うん?』

今、なんていった?聞き間違いかな?何て言ったのかな?
今、肉体が殆ど無いとかなんとか、この南京錠男は言わなかったか?
うん?

「そもそもこの方、ご存命なんですか?」
「生きてるだろ?動いてるじゃねえか」
「ええ~・・・」
段々と語尾が下がっていく紅久の声を耳にしながら、塵煙自身も何故生きていることが出来るのか不思議でならなかった。いや。もう普通ならば昇天していてもおかしくないのだ。

「ちょっと失礼しますよ。見知らぬ方」
そう言って紅久が膝を折りながら塵煙に近付いて行く。そうして、手で頬を優しく数回擦ると、パチパチと瞬きをする塵煙と視線が交わった。
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
暫しの沈黙。時間にすると短いのかもしれないが互いに永遠ともいえる長い時間を過ごしたような、そんな不思議な感覚が互いの中に生まれていく。
よく見ると、紅久の南京錠がカタカタと左右に動いているではないか。
しかもよくよく目を凝らしてみれば、その奥で眼球のようなものがぎょろぎょろと動いているようにも見える。

「うわぁ!動いた!動きましたよ!頭領!!」
『そりゃこっちの台詞だ!それ動くのかよ!』
「だから言ってるじゃねえか、生きてるって」
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「ええ。頼みます・・・あとは――――・・・」
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その言葉に納得したのか、紅久は自身が身に着けていた被風を外すと塵煙の側に敷き始めた。そうして男と顔を見合わせると両者で塵煙の肉体を持ちあげ、被風で包むように保護したのである。

「彼は私が持ちます。頭領は先にお行き下さい」
その声に男が先に飛び立ち、その後を追うように紅久がバサリと翼を広げて飛び上がった。

『・・・・・妙なことになってしまった』

そう思うももう遅い。塵煙の身体は紅久ががっしりと支えるように持ち上げ、そのままビュウウッと空へと急上昇していったのだ。
上昇する度に圧が肉体にビシビシと突き刺さり、その度に息苦しさも増していったが、この先の事を考えると、いやはや今さら言ってもどうにもなるまいとの想いの方が勝ってしまい、彼はまた開いていた瞳をゆっくりと閉じて行った。

『全く奇妙な事もあるものだ。否、だから面白いのかもしれないが・・』
目が覚めた先は果たして何処になるのか。何処へと向かうのか。それすらも分らないまま、彼はまた深淵の奥へと意識を深く沈めていくことにしたのだった。



後日譚へ続く・・・。
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サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

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