六王記番外編『バレンタインデーの日常』

四宮

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六王記・番外編

バレンタインデーの日常・後編

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『本当・・大変だったよなぁ・・・・あれはホント肝が冷えたぜ』

早朝、欠伸をかみ殺しながら官舎を歩いていた苞徳は、花穂が眠っている部屋にちらりと視線を向けた日があった。
外はまだ少し肌寒く、人の気配も感じられない。
そこで彼は、花穂に寄り添って眠るスイフォンの姿を目撃したのである。

『・・・・・っ!?!?』
よく見ると夜着が乱れて肌が露わになっている。だがそれ以上に苞徳を驚かせたのは、彼女のふくよかな胸に吸い付くように寄り添って眠る花穂の姿だったのだ。

『おいおいおいおい!待て待て待て待て!まずいよ~!ちょっ・・鵠焔!鵠焔!』
小声でキョロキョロを周囲を見渡しながら、同じように様子を見に来た鵠焔の姿を確認すると、必死になって手招きを繰り返した。その尋常じゃない様子に何かあったのかと鵠焔が駆け付けてみれば、あの姿・・・。

『・・・・・・・・・・・!?!?!?!?!?!?!?』
これには鵠焔の頭も真っ白になった。
『・・・えっ・・どっ・・ええっ・・え。あ。え。う・・』
『まずい!これはまずいよ。あんなのあいつが見ちゃったら・・』
『嗚呼ッ!』
『嗚呼ッ!』
顔を見合わせたまま、同時に二名は硬直した。

恐らく様子を見に来たのだろう。
普段は冷静。スイフォンが絡むと瞬間湯沸かし器もびっくりな存在の主が、ゆったりとした足取りでこちらに向かって来るではないか!嗚呼ッ!

とっさに、苞徳は急ぎ足で清涼の前に行くと「なー。今日さー。俺さー。外で食べたい気分なんだよね」と清涼の肩を半ば強引に、そして友好的に抱いた。
特に気にする風もなく、清涼は「そうなのか?」と言いつつも「でもまずは様子を・・」と部屋に近付こうとするのを笑顔で引き留めながら、
「まーまー。まだ寝てるだろうし?鵠焔がいるから、とりあえずは大丈夫だって。先に飯食いに行こうぜ!」
と、ニコニコ笑っている。
「・・・?」
苞徳がクルリと踵を返すように清涼の身体を反転させると、さあ行こうさあ行こうと繰り返した。
不意に後ろに視線を向けようと顔を動かせば、始終ニコニコにこにこスマイルゼロ円間違いなし!な笑顔で手を振る鵠焔の姿がそこにはあった。

『・・・ははっ・・・ほーんと、結局どうなったのか聞けずじまいだしなぁ・・見たのが俺でほーんと良かったよー。・・でも、あの時のあいつの寝顔。なーんか幸せそうだったんだよなぁ・・』

あの日。スイフォンに抱かれて、すうすうと眠る花穂の表情は、出会った初めの頃に比べると実に穏やかで、幸せそうな寝顔をしていた。スイフォンと共に寄り添って眠る雰囲気は、何処か他者を寄せ付けない、誰も近づいてはいけないような、そんな神聖ともいえる空間がそこには存在していたのだ。

『それからだったか・・花穂の気が前より穏やかになったのって・・。でもそうだなぁ・・本当は花穂を戦場に立たせる気は無かったんだよなぁ。でも、スイフォンが清涼達と戦に出かけて帰って来た日、丁度、あいつも城にいて。珍しく殺気立ったまま険しい表情を隠さない奏幻が気になって、確か共に下に降りたんだ。それで・・。アレを見た・・・』

今もはっきりと思い出せる。
けして珍しいものではない光景が、苞徳の双眸にありありと蘇ってくる。

ぽたり。また、ぽたりと伝い落ちる赤が、花穂の視界を一瞬で染め上げた。
ざわざわと騒ぐ全ての音が、声が、消えた瞬間だった。

あの日。清涼の腕に抱かれながら、全身を鋭い槍で貫かれたような傷を全身に浴びた彼女の姿が、そこにはあった。
花穂は初めて目にする光景に目を見開いたまま、ヒッと叫び出しそうになる声を抑えようと必死に両手で口を覆っている。
結ったスイフォンの桃色の髪は片方が解け、はらはらと揺れていた。

「ごふっ・・」と溜まった血を何度も吐き出しながら、ガクガクと震える全身を支えるように抱く清涼の表情も同じように苦悶に満ちている。彼は駆けつけて来た奏幻と顔を見合わせ、二、三、言葉を交わすと、そのまま青羽が乗る輸送機に乗って空上に建つ城へと向かって行ってしまった。

「なっ・・・なん・・で・・・」
「花穂・・」
「なん・・で・・あん・・な・・。だって・・・皆、無傷で・・」
目を見開いたまま、ぶるぶると両肩を震わせる花穂の瞳から、ぶわりと大量の涙が零れて落ちて行く。
その身体を支えるように抱きながら、苞徳は何も話すことなく、ただ手で顔を覆い首を左右に振る彼の背中を摩り続けていた。

「・・・・・なんだっ・・て・・あん・・な・・あんな・・・」
「・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・っ・・・」
すっかり傷が癒えた花穂が、自ら戦う事を望み、鍛錬をつけてくれと寵姫に心願したのは、それから少し経過しての事だった。

『ほんと。懐かしいなぁ・・・』
「先輩?先輩?」
「ん?」
不意に呼びかける花穂の声で我に返った苞徳が花穂を見る。
気が付くと店主の顔が良く見える位置にまで列は進んでいた。チョコレート独自の甘い香りが店先にまで広がっている。

「三個入りですって」
「ああ。そうだなぁ」
「さっき、何考えてたんです?」
「うん?」
「ずーっと何か考えていたでしょう?」
「うーん。そうだなぁ」
「誰にあげるかですか?」
「うん」
「俺の分も妹さん達にあげるんでしょう?毎年そうしてますよ?」
「うん」
「数が足りないのなら、俺の分も足せばいいんじゃないか?」
「えっ!?」
苞徳と花穂の声が同時に重なる。
そして「いえいえいえ!それはまずいよ!」と言わんばかりに双方同時に両手を振った。

「なんだ急に?」
「いえいえ!清涼さんのそれはさぁ。あげる人がいるじゃないの。その人にお渡ししなさいよ」
「そうですよ。せっかく買うんですから!」
「そっ・・そうか・・」
「そうそうそうそうそう」
花穂と苞徳がほぼ同時にぶんぶんと首を上下に振っている。
その光景を見る清涼の表情はポカンとしていて、何とも言えない空気が広がりそうになっていた。

「・・・・これが媚薬になるなんて・・何だか信じられないわ・・」
「おや?そうですか。私も試した事は無いのですが・・効く方が稀にいらっしゃるようですよ?」
ふーんと唇を尖らせながらスイフォンが小さな欠片をジッと眺めている。それは少し前に城に立ち寄った絽玖が持参したチョコレートの欠片だった。
天気が良いから外でお茶にしましょうとスイフォンが言い、絽玖がそれに応じたのだ。

官舎の庭は色とりどりの花と木々が心地良さそうに揺れている。
スイフォンはお茶のお供にと切ったばかりの桃と、絽玖が持参したチョコレートを皿に添えた。

彼の表情はいつもと変わらず穏やかなものだったが、目の奥は微笑んではおらず、黙ってスイフォンの指を触り続けている。
「指が少し痛んで、ささくれが出来ていますよ。手入れはちゃんとしていますか?」
「分かっているんだけど、なかなかうまく出来なくて・・」
そう話すスイフォンの声はとても穏やかで・・。
その声を聞く絽玖の表情も自然と和らいでいく。
ピリリとした雰囲気は消せないものの、優美な笑みを浮かべながらスイフォンの爪を見た。

「爪も、少し痛んでいますね。あと、乾燥が酷い」
「・・・・・う・・・」
そう話す絽玖の声は、どこまでも優しく穏やかではあったものの、どこか厳しさを含んでいる。
絽玖の目線はスイフォンの指から首筋、顎へと移った。
血色がよくない。絽玖が最初に彼女を見た印象はそれだった。
化粧で誤魔化そうとしてはいるが誤魔化しきれていないのか、目の下には深いクマの痕がくっきりと残されている。
よく見ると頬が痩せ、少しこけているようにも思えた。

「ちゃんと食べていますか?最近は討伐に行く機会も減ったでしょう?」
「ああ。うん。大丈夫。食べてるわ。でも最近、少し戻すことが増えてしまって・・」
髪に手を伸ばしながら、遠慮がちに話すスイフォンの腕を見る絽玖の瞳が少し険しくなる。
「・・・奏幻には診てもらいましたか?」
「最近、行ってないわ。行かなくちゃと思うんだけど」
「毎日食すものは何です?脂が多い物を?」
「ううん。私、脂の多いお肉は苦手なの。昔は平気だったのだけど」

そう言って微笑むスイフォンの表情を前にして、絽玖は険しい表情を崩さなかった。
彼女の持つ力は戦場でのみ、発揮される。

全ての亡骸を弔い、花へと還す。
彼女の温かく、それでいて力強く、高く伸びた声に誘われる様に、鱗粉のような光がゆっくりと地中から湧きあがり、亡骸を包み込んでいく。
包み込んだ光が弾けるように、一瞬にして花びらが舞う花畑へと変化するその光景は、美しくもあるが、同時に彼女の寿命をいともたやすく奪ってしまうのだ。

亡骸の数が多ければ多いほど、その対価は彼女を襲う。
力には、対価という名の代償が伴う。
それは彼女だけでなく、五行の力を用いて戦う全ての武将とて同じだった。
だが、スイフォンの場合は他の武将よりも奪われる対価の数が多すぎるのだ。
それを知る者は皆、彼女に戦場に立ってほしくないと散々伝えたはずだ。

けれど、彼女は恐らく立つだろう。ある者の為に。その者が願う世の先を見る為に。

「スープは出してもらっていますか?」
「うん。前に絽玖が教えてくれたあのスープ。毎日飲んでるの。皆にも意外と好評なのよ?」
「ならば良い。今度、上質な脂の香油をお届けします。身体にも塗れば良いでしょう」
「・・ありがとう。絽玖の指って何だか不思議。凄く安心するの」
「おや?嬉しいことを言って下さいますね」
「そう?私、あなたの事、結構好きなのよ?」
「それはそれは。お褒めに預かり光栄です」

ポカポカと心地よい陽射しが庭園を包んでいく。
絽玖の視線に気が付いたスイフォンが「うん?」と微笑みを返しながら彼を見た。
透き通るような桃色の瞳が僅かに揺れる。
「・・貴女の瞳は・・大きく、それでいて力強い。吸い込まれてしまいそうだ」
絽玖の声色が段々と深く、それでいて低くなる。漆黒の瞳がスイフォンを見つめている。

「・・・・絽玖・・・」
絽玖の姿をジッと見つめるスイフォンの無垢な瞳がきらきらと揺らめいた。
スイフォンの小さくぷっくりとした唇をジッと見つめながら、彼は自身の唇に人差し指を近づけると「しーっ」と声を潜めて微笑んだ。

漆黒の黒髪が、ふわふわと揺らぐ。
瞳の奥の何処かにギラギラとした熱を帯びた黒い瞳が妖しく揺れた。
その瞳に見つめられ続けると、息が詰まったように上手く呼吸が出来なくなる。
身体の中に沸騰する何かがあるのだろうかと思うほどに、スイフォンの中に湧き上がる何かがあったのだ。

惑う彼女の瞳を眺めながら、ふふっと鼻で笑うと絽玖は静かに席を立つと、上体を屈めながらスイフォンの頬にそっと唇を近づける。
「・・・っ・・・」
柔らかな感触にスイフォンの肩がびくりと強張った。
視線が震えるようにスイフォンの瞳が細く閉じられ、長いまつ毛がふるりと動いた。

「・・・な・・に・・?・・んっ・・・」
スイフォンは一瞬、何をされたのか理解が出来なかった。
椅子の背に手をかけたまま、空いた方の手がスイフォンの顎を優しく持ち上げ、彼はスイフォンの唇に優しく、甘い口付けを落したのだ。
ぎこちなく逃げようとする舌をじゅっと強く吸われ、その度にじんじんと甘く疼く何かがスイフォンの中に入ってこようとしている。

ちゃぷちゃぷと舌で舐められる度に、スイフォンの口から甘い吐息が幾重も零れた。
「・・・っ・・ふっ・・・」
舌を絡ませるたびに、絽玖の手がそっと優しく彼女の頭を撫でている。
撫でられる指と、唇の感触が心地よくなって、甘い吐息を何度も零しながら、スイフォンの頬がうっすらと紅色に染まっていく。
ふっとスイフォンの指が無意識に絽玖の襟に伸びた。

それを制するように、椅子に伸ばされていた彼の手が離れ、襟を掴もうと動く彼女の指に伸びていった。
全ての指を絡め取るように何度も手を重ね、食らいつくような激しい口付けと、優しい口付けを交互に交わしていく度に、スイフォンの肩がびくびくと震え、とろんとした瞳が静かに閉じられていく。

ぬるぬると絡み合う互いの舌を乞う様にスイフォンの指が絽玖のそれに重なると、彼は鼻でフッと笑い、先ほどまで重ねていた唇を僅かに離し、再度強く上唇を吸うと、音をわざと立てながらスッと離した。

「・・・あっ・・」
甘さを乞う様にスイフォンの唇から吐息が漏れる。よく見ると頬を紅色に染めたスイフォンがとろんとした瞳で唇をパクパクと動かしている。
その瞳が絽玖を捕らえると、何かを欲するように瞬きを数度繰り返した。
スイフォンのその表情を楽しむかのように、絽玖は彼女の襟の衣をくいっとずらすと、唇を近づけ、鎖骨を何度も強く吸い上げた。
「・・・・んっ・・・」
びくびくと動く肩と甘い声に満足したのか、彼女の襟を戻すとスイフォンの耳の奥に響くように一層低い声で囁いた。

「今は、まだ。全て頂きはしません。ですが、その瞳が誰かを映すその前に、必ず。必ず私が奪って差し上げます」
「・・・んっ・・」
「その唇が憂い、熱を欲しがる頃合いを見て・・必ず」
ふーっと息を吹きかけ、そう言い残すと、ふわりと身を翻し、竜巻にも似た風と共に消え去って行ってしまった。

「・・・・・・・・・・・・・・っ・・・」
金木犀の残り香が微かに匂うその庭で、スイフォンは頬を微かに上気させながら、ドクドクと波打つ心の臓を手で押えている。一瞬で熱が上がり、火傷にも似た熱さが全身を駆け巡っていったのだ。
それも体の一番奥に隠されたままの秘部を疼かせるかのように・・。

「・・・・っ・・いけない・・・これは・・・」
絽玖のとろけるような声色と、伏し目がちに見る視線の強さにあてられてしまったのかもしれない。
先ほどまでの彼の声と舌の感触を思い出すだけで腰が砕けた様に動く事ができないまま、頭から足の先まで芯を突かれたようにジンジンと痺れた身体をどうする事も出来ず、頬を上気させ、虚ろな瞳でその場に座り込むスイフォンを鵠焔が発見し、慌てて自室に連れて行ったまでは良かったが、それから少し経ち、購入したケーキの袋を手に清涼が官舎に来てしまったのが良くなかった。

「スイフォンはいるか?」
「はっはひっ!?」
「おいどうし・・・・ん?」
さわさわと木々が揺れる庭で、お茶を片付けようとした鵠焔の手を見ていた清涼の鼻がすんと動いた。
ある事をした時のみ、花の金木犀よりも一層強く香る。一度顔を会わせた者ならすぐに気づくであろうその芳香に清涼の形の良い眉がビキビキと動いている。

「鵠焔」
「えっと・・その・・」
「スイフォンは何処だ?部屋か?部屋なんだな?」
サーッと血の気が引くとはこういう事かと、鵠焔は思った。
ビリビリビリと緊迫した空気が庭を覆っていく。

・・怒っている。この方は、今ものすごく怒っている。

「えっ・・あっ・・いっいけません!清涼様。いっ今はお控えくださいっ!ダメですっ!」
「アイツに何をされた!スイフォン!!」
購入したばかりのケーキの袋を鵠焔に押し付けながら、大股でドスドスドスと廊下を歩く清涼の頭頂部からは湯気がもくもくと吹き出している。
開けたままになってしまっていたスイフォンの自室へと飛び込んだ清涼が見た眼前の光景。
それは、寝台の上で頬を赤く染めながら、火照り続ける身体をどうする事も出来ずに倒れ込んでいる彼女の姿だった・・・・・・。

「・・・絽玖・・お前。また何かしてきただろう?」
「おや?お分かりですか?陛下」
空上に建つ城の中で、絽玖は持参したチョコレートの欠片を口に含みながら、可笑しそうに微笑んでいる。
その表情を見ながら、寵姫は先ほどからずっと眉間に皺を寄せていた。
「分かるも何も・・お前のその芳香は発情そのものだ。今度は何をしてきたんだ?」
「唇の端に紅ついてるよー?」
間延びした声で黙々とチョコレートを食べながら奏幻が問う。
何故か彼の口の周りにはベタベタとチョコレートが付着したままだったが、それを咎める者は誰もいなかった。

「紅?お前・・・」
「いいえ。その逆ですよ?食べるどころか、私はきっかけを与えたにすぎませんからね。今頃は熱い抱擁でも交わしている頃でしょう」
その言葉に寵姫と奏幻が互いに顔を見合わせている。そうして、絽玖が先ほどまで何をしてきたのかを察してしまったのである。
「・・・・お前な」
「わーこわいものしらずなりょくさまだー(棒読み)」
「でもこれで、殿下も楽しい夜を過ごせるのでは?」
「・・・・無理じゃない?」
「おや?そうでしょうか?」
「恐らくだが、無理だろうな」

興味が無いといった様子で寵姫がチョコレートの欠片をひとつ、口に放り込んでいる。
少し苦みのあるそれは、数回噛んだだけで解け、果実の甘い芳香を残しながら舌の中でとろけていった。

「それはそれで情けない気もしますね。殿下はそれほどに気の弱い方ではないと思ったのですが・・」
紅を拭き取り、ふうむと唸りながら絽玖が蓋のついたままの茶器を静かに持ち上げている。
蓋を少しずらしながらお茶を楽しむ彼の仕草を黙って眺めながら、寵姫はやや伏し目がちに卓を見た。

「いや・・・逆だ」
「逆?」
茶器に唇を付けたまま、これは意外だと言わんばかりの瞳で絽玖が寵姫を見た。
寵姫は椅子に深く凭れ掛かると肩ひじを付いた。

「ああ。あいつは本当にスイフォンが好きなんだ。だから、彼女が彼女のままで、本当に欲しない限りは手を出さんだろう」
恐らくだがな、と呟いた。
「今頃大変だねー。あれってさ、効く人はすごく効くんだよね?なんだっけ?催淫剤?媚薬?抜かないとずっと続くんでしょ?あれってどうやって抜くの?」
「おや?興味がおありで?何なら試してみますか?」
ふふっと微笑む絽玖の表情が少しずつ妖艶なものへと変化していく様を横目で見ながら、寵姫は重く怠い息を吐いた。
「やめておけ。奏幻。どうせ碌な事にはならん」
「ふーん。でも、これって案外、いいきっかけになるかもしれないよ?」
「んん?」
「だって今頃。清涼は火照ったスイフォンの身体を抱きしめているんでしょ?もしかしたら・・?って事もあるかもしれないじゃない?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
寵姫の視線が天井に向かった。

あの清涼がねぇ・・・。
本人を前にして手を出す勇気が無く、かわりに国営の色街でスイフォンによく似た娘を探し出し、相手をしてもらったというあの清涼がねぇ・・。
その話を苞徳から最初に聞いた時は、衝撃で天と地がひっくり返ったのではないかと思うほどに驚いたものだが、そこまでして嫌われたくないのかと思うと、何だか不憫に思えてくる。

恐らく、これは想像だが、絽玖の残り香を嗅いだ清涼がスイフォンの自室へと走り込んだのだろう。
すぐに、からかおうとするのは絽玖の悪い癖だった。
ただ、今回ばかりは悪ふざけが過ぎたとしか思えない。他の者には少ししか効かない絽玖のそれが何故かスイフォンには効果がありすぎるのだ。
あれを抜こうと思えば抜けなくはない。身体を一度重ねれば自然と抜けて行く。
だがそれを絽玖が行わないのは、相手がそうやって自分を求めんが為に艶っぽく、より美しくなろうとする様を見るのが楽しいからであって、身体を重ねるのが本来の目的ではないからだ。

「相当、性格が悪い・・」
「心外ですね」
「スイフォンに効きすぎると知っててやっただろう?」
「ええ。存じてましたよ。彼女は愛らしいですね。疑う事を知らないのか、したくないのか。過去に何度も裏切りにあったでしょうに」
「そこがスイフォンの良い所なんだけどねー」
「ああ。そうだ。奏幻、今度スイフォンの往診を頼みます」
「うん?どうして?」
「あまり、調子が良くないようです。肌も血色が悪い。夜もあまり眠れていませんね」
「・・・分かった。あとで解熱剤と一緒に届けさせるよ」
「解熱剤?」
「そう。ずっと身体が火照ったままだと可哀そうでしょ?」
「ああ。そうですか」
特に興味も無いといった様子で絽玖がチョコレートを見た。

もしかすると、スイフォンにわざとあのような事をしたのは、その後に待つことを済ませ、まどろみの中で彼女が安心して眠れればいいとの想いから行ったのだろうか・・?
不意にそんな考えが寵姫の脳裏を過ったが、あれでは添い寝にはならないだろうとも思った。

「お前のそれはスイフォンに対しての毒というよりも、清涼に対しての毒だな」
「ああ。そうだよねえ。内心はグルグルしてても後の事を考えたら、やっぱりできないもんねぇ」
「殿下らしいと言えば、殿下らしいのですが・・・」
「・・・絶対、根に持たれるぞ。覚悟しておけよ」
「おや?でしたら逆に私は嬉しいですね」

頬杖を突きながら、優美に微笑む絽玖の表情は彫刻のように美しいものだったが、その微笑みの奥に隠されているものを想うと、寵姫は簡単に頷く事が出来なかった。

「・・・さて。では私はこれで・・」
「もう行くのか?」
「ええ。もう少し居たいのは、やまやまなのですが・・もうすぐ李果が帰って来るのですよ」
そう話しながら絽玖がゆっくりと立ち上がる。
ふわりと揺れる黒髪の隙間から覗く髪結の布が印象的だといつも思っていたのだが、今日に限って、あるものが無いことに気が付いた寵姫が絽玖を見た。

「そういえば、今日はアレを連れて来ていないのか?」
「ああ。連れて来ても良いのですが、うるさいですからね。私の頭上でぎゃあぎゃあ喚く姿は本当に品が無い。黙っている日もあるのですがね」
つまらなそうにフンと呟く絽玖の顔を見ながら、寵姫は「まぁ、確かに」と言わんばかりの表情を返している。
寵姫が指摘した『アレ』とは絽玖の頭にいつも引っ付いている鳥の事だ。

何故か髪結いの紐の片方だけが鳥の姿になっていて、誰かが止めなければずっと喋っている。
一体何がどうしてそのような布になってしまったのか、詳細は謎のままだが、この鳥に振り回される絽玖の姿を想像するだけで可笑しくなってしまう。
でも手放さない所を見ると、きっと悪い仲ではないのだ。そう思いながら寵姫は彼が持参したチョコレートの欠片をまたひとつ。口に放り込むことにしたのだった。

さてその頃、苞徳の家族に購入したケーキを届けた花穂が彼よりも先に官舎へと戻ると、スイフォンの自室の前で、おろおろしている棗鵺の背中が目に留まった。
「・・・・?」
その光景に何かあったのかと首を傾げながら花穂が棗鵺に近づいて行く。
それに気が付いた棗鵺が手を頬に当てたまま、なにやら困ったような表情で部屋と花穂を交互に見た。

「何してるの?」
「ああ。花穂・・それが・・」
「・・・・?」
なにどうしたの?と言わんばかりの表情でスイフォンの部屋を見た花穂の瞳が急に大きく丸くなった。
そうして何度も瞬きを繰り返すと棗鵺に視線を向けたまま首をぶんぶんと振っている。
そうして「見てはいけないものを見てしまった」と身震いする身体をそのままに早々にその場を立ち去る事にしたのだった。

「やっぱりあのケーキ。効果あるんだ・・・」
懐から紙に包んだままの四角いケーキを取り出し、花穂がマジマジとそれを見つめている。
そうして、本来渡したいと思っていた相手の顔を想い、ぶんぶんと首を振った。

「やめよう。万が一にでもああなったら・・うん。大変だ」
買ったケーキは自分で食べよう。それがきっと一番いい。
あれ?でも苞徳の家族も皆、同じケーキを食べていたような・・・?
何時間も一緒にいたけれど特に変わった様子は見られなかった。
効く人と効かない人がいるのだろうか?
そういえば、やたら苞徳の妹が自分を見ていたな。あれも何だったんだ?

色々な想いが彼の脳内を駆け巡っては、もやもやとしたものだけを残して消えて行く。
『でも、間違いがあってはいけない。代わりに別の物を届けよう。俺が望んでいるのはあの人の喜ぶ表情であって、乱れる姿じゃない』
一度瞼を閉じ、ふと彼女の黒髪を思い出す。
ゆっくりと閉じていた瞼を上げると、彼はまた来た道を引き返すようにゆっくりと歩き出した。

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