上 下
9 / 44

9 コーヒーとパンと嘘つき

しおりを挟む
 次の朝、トイレに起きたところにアランが通った。

「恭弥くん、おはよ。今、猫ちゃんたちにごはんあげてるところ」

 確かにアランは、猫用の皿が三つ乗ったトレイを持っている。

「早いですね……」

 恭弥は結局、アランについて考えていたせいで、ほとんど眠れなかった。
 
「猫は夜行性だから、夜中に腹が減るらしいんだ。三匹そろってすっごい声で鳴くし、ボンなんか足の親指かじってくるし、朝はもう寝てらんないよ。しかも日に日に時間が早くなっていく」
「今何時っすか」
「五時前。餌の時間は六時って決めてたのに」

 アランは大あくびをしてみせた。

「手伝いますか」

 空気を読んで、恭弥は言った。

「ああ、じゃあこれ、ぼくの寝室に持って行ってくれる? キャットタワーの横に置いたら勝手に食うから。終わったら台所に持って帰ってきて」
「はい」
「ぼくはコーヒー淹れてくる。コーヒーにはちょっとうるさくてね。いい豆だぞ、君も飲むだろう」

 質問形だが、ノーとは言わさない雰囲気だ。
 
「えっと、はい、ありがとうございます……」
 
 流されて、恭弥は礼を言った。
 
(また返せねぇもんが増えるの、やだな)

 考えながら、恭弥は階段をのぼる。
 
(でも、いつかは対価を払ってもらうって言ってたし。何も返さないうちにここを出ていくのも卑怯な気がする)
 
 襖を開けると、猫二匹がいっせいに足元に寄ってきた。ルディとボンだ。
 ルディは前日のように、恭弥の脚に体当たりを食らわせている。
 
(なんだこれ、天国かよ)

 アランの指示に従うべく、キャットタワーの方を見た。すると、タワーの上にくっついている小屋の中が、何やら白い毛のかたまりで詰まっている。
 たぶん、さちこさんの尻だ。アランではなく知らない人がごはんを持ってきたのが怖くて、あわてて逃げ込んだのだろう。
 恭弥は思わずしまりのない笑顔になった。かわいすぎる。
 
「わかった。今あげるからちょっとどいて……」

 ルディとボンを踏まないように気を遣いながら、キャットタワーの足元にトレイを置いた。
 雄たちは飛びついて食べ始めた。
 
(たぶん俺がいたら、さちこさんは食えないだろうな)

 恭弥は部屋を出た。廊下に潜んで、中をうかがう。
 しばらく白猫は出てこなかった。警戒しているのだろう。
 が、雄猫たちがさちこさんのぶんの餌を勝手に食べはじめると、話は別のようだった。
 毛のかたまりはどすんと床に下りた。
 さちこさんは大きな猫だった。ルディやボンの丸い目とはちがう、気難しそうな鋭い吊り目をしている。
 彼女は悠然とトレイに向かうと、突然ボンの頭を右手で殴った。
 ルディとボンはびっくりして逃げた。さちこさんは雄たちをじっとにらむと、餌をかりかりと食べ始めた。
 
(女王だ)

 畏怖の感情とともに、恭弥は思った。 
 食事が終わったらしく、さちこさんが皿から離れ、顔を洗い始めた。恭弥はトレイを取りに戻ろうと、そうっと足を部屋に踏み入れた。
 次の瞬間、さちこさんは猛スピードでキャットタワーの小屋に詰まった。
 
(内弁慶タイプの、女王)

 恭弥は笑いをこらえるのに必死だった。ここで笑ったら、一生さちこさんに許してもらえない気がした。
 トレイを持って台所に来ると、コーヒーの香りでいっぱいだった。
 
「さちこさん、見た?」
 
 アランの手元には注ぎ口の細い、銅のケトルがある。こはく色の雫がフィルターからガラス製のサーバーへ、ぽたり、ぽたりと落ちている。
 
「はい。ってか、それでアランさん、俺に餌を持ってかせてくれたんですね。さちこさんが俺に慣れるように」
「早くコーヒーが飲みたかっただけだけど、まあ、そういうことにしとこっか? わあ、ぼく、優しい。恭弥くんの彼氏にぴったり」

 軽口を叩きながら、アランはフィルターを片付けている。朝のやわらかい光が、アランの整った横顔を繊細に描き出している。
 
(嘘つき)

 恭弥は胸がきゅっと苦しくなる。

(ほんとは俺に興味なんてねぇくせに)

「さちこさん、今日はまだ全然でした。俺がいると食べてくれなくて」

 内心を隠して、恭弥は雑談をつづけた。

「でも姿は見たよね? じゃあだいぶまし。俺の友だちなんて、さちこさんがうちに来てもう五年も経つのに、まだ一度も見たことないんだぜ」
「へえ」

 コーヒーカップを受け取りながら、恭弥はあいまいに相槌をうった。仲のいい友だちなんだろうか。
 その友だちにも、セックスをにおわせるような悪い冗談を言うのだろうか。
 恭弥の胸に、コーヒー色のもやがかかる。

「おかげでさちこさんは想像上の存在なんじゃないかって、今でも疑われててさ。ひどくない?」
「それはアランさんが日頃から軽口ばっか叩いてるせいじゃないですかね」
「恭弥くんまで。お兄さん傷つくな」

 恭弥はコーヒーに口をつけた。香り高く、苦くて酸っぱい。きっとおいしいコーヒーというものはこういう味なんだろう。

「朝ごはんにしようか。バゲットが残ってたと思うから、缶詰のスープに浸して食べよう。……まだ食べられるとは思うけど」

 アランは小声で付け加えた。

「いつのパンですか」
「うーん」

 アランは考え込んでいる。
 
「うーんじゃないですよ」

 差し出されたパンには一応、カビは生えていなかった。ただ、おそろしく干からびていた。
 
「ぼく、ふだんは朝ごはん、食べないから。で、お昼と夜はお酒呑んじゃうでしょ? あんまりパンを食べる機会がないっていうか」
「昼はふつう、酒、呑みません」

 恭弥は呆れた。この人、早死にしそうだ。
 
「外国じゃ、ふつうだよ?」
「外国暮らしが長かったんですか」
「ずっと国内」

 結局パンはオニオンスープに三十分ほどつけて、徹底的にふやかして食べた。
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ヤンデレ執着系イケメンのターゲットな訳ですが

街の頑張り屋さん
BL
執着系イケメンのターゲットな僕がなんとか逃げようとするも逃げられない そんなお話です

転生したら魔王の息子だった。しかも出来損ないの方の…

月乃
BL
あぁ、やっとあの地獄から抜け出せた… 転生したと気づいてそう思った。 今世は周りの人も優しく友達もできた。 それもこれも弟があの日動いてくれたからだ。 前世と違ってとても優しく、俺のことを大切にしてくれる弟。 前世と違って…?いいや、前世はひとりぼっちだった。仲良くなれたと思ったらいつの間にかいなくなってしまった。俺に近づいたら消える、そんな噂がたって近づいてくる人は誰もいなかった。 しかも、両親は高校生の頃に亡くなっていた。 俺はこの幸せをなくならせたくない。 そう思っていた…

美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜

飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。 でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。 しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。 秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。 美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。 秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。

心配性の恋人

よしゆき
BL
心配性の受けと豹変する攻めのアホエロ。

煽られて、衝動。

楽川楽
BL
体の弱い生田を支える幼馴染、室屋に片思いしている梛原。だけどそんな想い人は、いつだって生田のことで頭がいっぱいだ。 少しでも近くにいられればそれでいいと、そう思っていたのに…気持ちはどんどん貪欲になってしまい、友人である生田のことさえ傷つけてしまいそうになって…。 ※ 超正統派イケメン×ウルトラ平凡

どうせ全部、知ってるくせに。

楽川楽
BL
【腹黒美形×単純平凡】 親友と、飲み会の悪ふざけでキスをした。単なる罰ゲームだったのに、どうしてもあのキスが忘れられない…。 飲み会のノリでしたキスで、親友を意識し始めてしまった単純な受けが、まんまと腹黒攻めに捕まるお話。 ※fujossyさんの属性コンテスト『ノンケ受け』部門にて優秀賞をいただいた作品です。

オメガに転化したアルファ騎士は王の寵愛に戸惑う

hina
BL
国王を護るαの護衛騎士ルカは最近続く体調不良に悩まされていた。 それはビッチングによるものだった。 幼い頃から共に育ってきたαの国王イゼフといつからか身体の関係を持っていたが、それが原因とは思ってもみなかった。 国王から寵愛され戸惑うルカの行方は。 ※不定期更新になります。

大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!

みづき
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。 そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。 初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが…… 架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。

処理中です...