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9 コーヒーとパンと嘘つき

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 次の朝、トイレに起きたところにアランが通った。

「恭弥くん、おはよ。今、猫ちゃんたちにごはんあげてるところ」

 確かにアランは、猫用の皿が三つ乗ったトレイを持っている。

「早いですね……」

 恭弥は結局、アランについて考えていたせいで、ほとんど眠れなかった。
 
「猫は夜行性だから、夜中に腹が減るらしいんだ。三匹そろってすっごい声で鳴くし、ボンなんか足の親指かじってくるし、朝はもう寝てらんないよ。しかも日に日に時間が早くなっていく」
「今何時っすか」
「五時前。餌の時間は六時って決めてたのに」

 アランは大あくびをしてみせた。

「手伝いますか」

 空気を読んで、恭弥は言った。

「ああ、じゃあこれ、ぼくの寝室に持って行ってくれる? キャットタワーの横に置いたら勝手に食うから。終わったら台所に持って帰ってきて」
「はい」
「ぼくはコーヒー淹れてくる。コーヒーにはちょっとうるさくてね。いい豆だぞ、君も飲むだろう」

 質問形だが、ノーとは言わさない雰囲気だ。
 
「えっと、はい、ありがとうございます……」
 
 流されて、恭弥は礼を言った。
 
(また返せねぇもんが増えるの、やだな)

 考えながら、恭弥は階段をのぼる。
 
(でも、いつかは対価を払ってもらうって言ってたし。何も返さないうちにここを出ていくのも卑怯な気がする)
 
 襖を開けると、猫二匹がいっせいに足元に寄ってきた。ルディとボンだ。
 ルディは前日のように、恭弥の脚に体当たりを食らわせている。
 
(なんだこれ、天国かよ)

 アランの指示に従うべく、キャットタワーの方を見た。すると、タワーの上にくっついている小屋の中が、何やら白い毛のかたまりで詰まっている。
 たぶん、さちこさんの尻だ。アランではなく知らない人がごはんを持ってきたのが怖くて、あわてて逃げ込んだのだろう。
 恭弥は思わずしまりのない笑顔になった。かわいすぎる。
 
「わかった。今あげるからちょっとどいて……」

 ルディとボンを踏まないように気を遣いながら、キャットタワーの足元にトレイを置いた。
 雄たちは飛びついて食べ始めた。
 
(たぶん俺がいたら、さちこさんは食えないだろうな)

 恭弥は部屋を出た。廊下に潜んで、中をうかがう。
 しばらく白猫は出てこなかった。警戒しているのだろう。
 が、雄猫たちがさちこさんのぶんの餌を勝手に食べはじめると、話は別のようだった。
 毛のかたまりはどすんと床に下りた。
 さちこさんは大きな猫だった。ルディやボンの丸い目とはちがう、気難しそうな鋭い吊り目をしている。
 彼女は悠然とトレイに向かうと、突然ボンの頭を右手で殴った。
 ルディとボンはびっくりして逃げた。さちこさんは雄たちをじっとにらむと、餌をかりかりと食べ始めた。
 
(女王だ)

 畏怖の感情とともに、恭弥は思った。 
 食事が終わったらしく、さちこさんが皿から離れ、顔を洗い始めた。恭弥はトレイを取りに戻ろうと、そうっと足を部屋に踏み入れた。
 次の瞬間、さちこさんは猛スピードでキャットタワーの小屋に詰まった。
 
(内弁慶タイプの、女王)

 恭弥は笑いをこらえるのに必死だった。ここで笑ったら、一生さちこさんに許してもらえない気がした。
 トレイを持って台所に来ると、コーヒーの香りでいっぱいだった。
 
「さちこさん、見た?」
 
 アランの手元には注ぎ口の細い、銅のケトルがある。こはく色の雫がフィルターからガラス製のサーバーへ、ぽたり、ぽたりと落ちている。
 
「はい。ってか、それでアランさん、俺に餌を持ってかせてくれたんですね。さちこさんが俺に慣れるように」
「早くコーヒーが飲みたかっただけだけど、まあ、そういうことにしとこっか? わあ、ぼく、優しい。恭弥くんの彼氏にぴったり」

 軽口を叩きながら、アランはフィルターを片付けている。朝のやわらかい光が、アランの整った横顔を繊細に描き出している。
 
(嘘つき)

 恭弥は胸がきゅっと苦しくなる。

(ほんとは俺に興味なんてねぇくせに)

「さちこさん、今日はまだ全然でした。俺がいると食べてくれなくて」

 内心を隠して、恭弥は雑談をつづけた。

「でも姿は見たよね? じゃあだいぶまし。俺の友だちなんて、さちこさんがうちに来てもう五年も経つのに、まだ一度も見たことないんだぜ」
「へえ」

 コーヒーカップを受け取りながら、恭弥はあいまいに相槌をうった。仲のいい友だちなんだろうか。
 その友だちにも、セックスをにおわせるような悪い冗談を言うのだろうか。
 恭弥の胸に、コーヒー色のもやがかかる。

「おかげでさちこさんは想像上の存在なんじゃないかって、今でも疑われててさ。ひどくない?」
「それはアランさんが日頃から軽口ばっか叩いてるせいじゃないですかね」
「恭弥くんまで。お兄さん傷つくな」

 恭弥はコーヒーに口をつけた。香り高く、苦くて酸っぱい。きっとおいしいコーヒーというものはこういう味なんだろう。

「朝ごはんにしようか。バゲットが残ってたと思うから、缶詰のスープに浸して食べよう。……まだ食べられるとは思うけど」

 アランは小声で付け加えた。

「いつのパンですか」
「うーん」

 アランは考え込んでいる。
 
「うーんじゃないですよ」

 差し出されたパンには一応、カビは生えていなかった。ただ、おそろしく干からびていた。
 
「ぼく、ふだんは朝ごはん、食べないから。で、お昼と夜はお酒呑んじゃうでしょ? あんまりパンを食べる機会がないっていうか」
「昼はふつう、酒、呑みません」

 恭弥は呆れた。この人、早死にしそうだ。
 
「外国じゃ、ふつうだよ?」
「外国暮らしが長かったんですか」
「ずっと国内」

 結局パンはオニオンスープに三十分ほどつけて、徹底的にふやかして食べた。
 
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