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8 不憫くんの夜這い未遂

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 音を立てないように、そうっと廊下に出る。
 常夜灯をたよりに階段をのぼろうとしたとき、ふと、いちばん上に何かが見えた。
 金色の光をふたつ上部に備えた、巨大な毛のかたまりだ。
 次の瞬間、毛のかたまりはものすごいスピードで逃げていった。
 
(さちこさん、かな)

 ペットショップから来た、最初の一匹だ。アランによると人見知りが激しいそうだ。しばらくは姿を見ることはないだろうと予言されていた。
 
(驚かせちゃった)
 
 嫌われてしまっただろうか。
 気を取り直して、恭弥は階段をのぼった。
 猫のための通り道なのだろう。襖は少し開いていた。真っ暗だと眠れないたちなのか、オレンジ色の明かりがぼうっと廊下を照らしていた。
 そうっと襖を開けて、アランの寝室に入った。
 アランはよく眠っていた。布団の上で、ルディとボンが脚のあるあたりにのしかかっている。ボンは恭弥が入ってきたとたん、警戒したように頭を上げ、さっとベッドの下にもぐった。
 ルディはさすがに肝が据わっていて、ちらりと恭弥を見ただけだった。ぐりんと伸びをして、腹を上に向けて寝なおしている。

(猫がいると、やりづれえな。まあいいけど)

 恭弥はばさばさと借り物のパジャマを脱いだ。
 自分がしていることが、母親や風俗嬢がしていたこととほとんど同じだということは、考えないようにした。
 下着姿になって、ルディを避けながらベッドに乗り上げる。
 
「何してるの?」

 気づけばアランは恭弥をじっと見上げていた。ボンが足元からいなくなって、目を覚ましたのかもしれない。
 
「見てわかりません? 夜這いですよ。あんたの言う通り、俺の自由意思で」
「そんな悲壮な顔して?」

 恭弥は無理に笑顔を作った。

「寿司、食っちゃったんで」
「気にしないでって言ったろ? なんでも貸し借りにするの、つまんないよ」
「四の五の言わずに、好きにすれば? やりたいんでしょ、あんた」

 声が震えそうなのを隠して、恭弥は虚勢を張った。

「そりゃ、ぼくだって男ですから? 据え膳食わぬはなんとやら、とも言うし」

 ね、と言いながら、アランは上体を起こした。長い指先が恭弥の顔に伸びた。
 いよいよ何かされる。
 恭弥は受け身をとりながら、ぎゅっと目を閉じた。

「でも君、半泣きじゃん」

 あたたかな手が恭弥の頬に触れた。恭弥は目を見開いた。
 
「ぼく、かわいそうなのは抜けないたちでね。悪いけど」

 アランは冗談めかして言った。
 そのくせ、声も眼差しも、頬を包む手のひらも、驚くほど優しかった。

「じゃあ俺はどうすりゃいいんですか。どうやって対価を払えっていうんです。あんたにはわかんねぇだろうけど、ただ施しを受けるのってみじめなんだよ」

 恭弥はほとんど涙声だった。優しくされると泣きたくなるのはなぜだろう。
 アランはため息をついた。
 
「対価、ね。いらないって言ったら、また君を傷つけるだけかな」

 アランは立ち上がって、恭弥が脱ぎ捨てたパジャマを拾った。

「わかった。いつかは払ってもらうさ」

 恭弥の方に服を投げて、アランは言った。
 
「ただし、ぼくがほしいのはこういうのじゃない。ぼくがほしいものがわかったら、またおいで」

 恭弥は俯いて、投げられたパジャマを着た。
 拒まれたことにはほっとした。同時に、自分ばかりが盛り上がってしまったようで、ひどく恥ずかしかった。
 アランに触れられた頬がまだなんとなく熱いのは、きっとそのせいだ。
 ふと横を見ると、人間ふたりの騒ぎをよそに、ルディはかすかないびきをかいている。
 
「せっかくだから、撫でてあげな」

 言われて、恭弥はおずおずとルディの丸い頭を撫でた。ふだんからいい餌をもらっているのか、しっとりと滑らかな毛並みだ。
 ルディは気持ちよさそうにぷすう、と鼻を鳴らして、目を腕で隠した。
 恭弥は微笑んだ。
 ふと顔をあげると、アランと目が合った。
 アランはまだ、あの優しい眼差しをしていた。
 どきり。恭弥の心臓が小さく跳ねた。
 
「お、お邪魔、しました」

 少しどもりながら、恭弥はベッドを降りて頭を下げた。

「君が入ってきてくれるのは、いつだって大歓迎さ」

 恭弥を廊下まで送り、アランはウインクした。
 
(嘘ばっか)

 階段を降りながら、恭弥は思った。
 
(あんた、ただ優しいだけなんだろ。あんたは最初から、俺に手を出す気なんてない)

 下心のある男が、あんな状況で我慢できるはずがない。
 恭弥は知っている男たちの顔を頭に浮かべた。母親の恋人たち、職場の先輩たち、成人向け漫画に出てくる男たち。あの状況なら、全員が全員、手を出していたはずだ。
 誘っていたのが恭弥ではなく、かわいい女の子だったら、の話だが。
 和室の襖をそっと閉め、布団に身を投げる。

(優しくするのに理由が要るから、俺に下心があるふりをしてるだけ)

 恭弥は枕をぎゅっと抱きしめた。
 
(それだけだ)
 
 ほっとしていていいはずなのに、寂しいと思うのはなぜだろう。
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