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色気の正体
五十八話
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「これ、もう捨てようとしてたやつだからあげるよ。安心しろ、一回しか使ってない。それと、折り畳み傘やるから、ちゃんとさしていけよ」
兄は、またあのビニール袋から、傘を出した。今度は、柄のない、深緑の傘だ。兄は、出来るだけ縁をもって、私に差し出した。それが、私が作った溝だと思うと、後悔した。
もう、元には戻らない。一気に現実に戻ってきたようだ。私は、大人で、色気があって、雨の日にふらりと現れる気まぐれな人を演じていた。だけどほんとうは、子どもで、意地悪で、心底兄に依存している妹だった。
どうよ、時雨という女を演じていた気分は。誰かの声が聞こえていた。若い女の声。
ずいぶん、上手かったじゃないか、とても子どもには思えないよ。今度は、中年の低い声だ。
そうだね、あの人だまされてたね。まだ、舌足らずの幼い子どもの声が聞こえた。まだ、性別もわからない。
だけど、あなた、本当はまだ高校生でしょ。
今度ははっきりと分かる。性別も、年齢も。その声は、私の心底嫌いな先生の声をしていた。あの日、綺麗な夕暮れの色が窓から机に反射した日。私は、聞かなかったことにした言葉。先生は去り際、「だけど、あなた、本当はまだ高校生でしょ」と哀れみの声で語りかけた。私が嫌いな大人の顔をさせながら。
兄の前で偽っていた事実が、今、目の前に剥き出される。しっぺ返しをくらったようだった。私が嘘をついた数だけ、兄が悲しい顔をした。だったら、最初から嘘をつかなければよかった。最初の嘘で、全てが狂ってしまった。
でも、あの雨の日に、私は、あなたの妹だよ、と名乗り出ることができただろうか。いいや、何度あの日に戻ったって、私は時雨という女を演じ続けるだろう。私は、兄の理想の女になりたいのだから。
「じゃあな」
兄は短く告げ、玄関のほうにゆっくりと歩いていた。まるで、優雅な貴族のようだった。覚悟を決めた顔。凛々しかった。瞳が、いつも以上に辺りの光を吸い込んでいて、ムーンストーンのような独特な光り方をしていた。
すれ違い際、兄の、匂いがした。ほんのり甘くて、だけど清潔な、柔軟剤の匂い。傘の下の隣で、ぶわっ、と感情が押し流れていた。もう、兄に会えない。そう思うと、声を張らせていた。
「まって!」
兄が振り返る。
もう、嘘はつかない。真実だけを言う。だから、願わくば最後だけ嘘をひとつ、言わせてくれ。
兄は、またあのビニール袋から、傘を出した。今度は、柄のない、深緑の傘だ。兄は、出来るだけ縁をもって、私に差し出した。それが、私が作った溝だと思うと、後悔した。
もう、元には戻らない。一気に現実に戻ってきたようだ。私は、大人で、色気があって、雨の日にふらりと現れる気まぐれな人を演じていた。だけどほんとうは、子どもで、意地悪で、心底兄に依存している妹だった。
どうよ、時雨という女を演じていた気分は。誰かの声が聞こえていた。若い女の声。
ずいぶん、上手かったじゃないか、とても子どもには思えないよ。今度は、中年の低い声だ。
そうだね、あの人だまされてたね。まだ、舌足らずの幼い子どもの声が聞こえた。まだ、性別もわからない。
だけど、あなた、本当はまだ高校生でしょ。
今度ははっきりと分かる。性別も、年齢も。その声は、私の心底嫌いな先生の声をしていた。あの日、綺麗な夕暮れの色が窓から机に反射した日。私は、聞かなかったことにした言葉。先生は去り際、「だけど、あなた、本当はまだ高校生でしょ」と哀れみの声で語りかけた。私が嫌いな大人の顔をさせながら。
兄の前で偽っていた事実が、今、目の前に剥き出される。しっぺ返しをくらったようだった。私が嘘をついた数だけ、兄が悲しい顔をした。だったら、最初から嘘をつかなければよかった。最初の嘘で、全てが狂ってしまった。
でも、あの雨の日に、私は、あなたの妹だよ、と名乗り出ることができただろうか。いいや、何度あの日に戻ったって、私は時雨という女を演じ続けるだろう。私は、兄の理想の女になりたいのだから。
「じゃあな」
兄は短く告げ、玄関のほうにゆっくりと歩いていた。まるで、優雅な貴族のようだった。覚悟を決めた顔。凛々しかった。瞳が、いつも以上に辺りの光を吸い込んでいて、ムーンストーンのような独特な光り方をしていた。
すれ違い際、兄の、匂いがした。ほんのり甘くて、だけど清潔な、柔軟剤の匂い。傘の下の隣で、ぶわっ、と感情が押し流れていた。もう、兄に会えない。そう思うと、声を張らせていた。
「まって!」
兄が振り返る。
もう、嘘はつかない。真実だけを言う。だから、願わくば最後だけ嘘をひとつ、言わせてくれ。
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