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まして許しあえる僕らなら

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 今日は寝てろと泉からメールを受けたにもかかわらず、一日中動き回っている。要は水を含んだように重い体を押し、車をテレビ局へ走らせた。

 どうしても泉に今すぐ会いたかったのだ。

 テレビ局のスタジオへは夜の七時についた。泉の出演するドラマの撮影現場の一つである。要が到着した時、丁度とあるシーンの撮影が行われていた。泉と、ヒロイン役の女優によるシーンだ。

 ドラマは泉演じる天才ピアニストが大病を隠し、ピアニストを目指すヒロインを導き――――泉を失ったヒロインがその後ピアニストとして大成する話だ。ヒロインと結ばれるのは別の俳優で、泉はヒロインの今後の人生に大きな影を落とす存在となる役どころだった。

 グランドピアノを弾いていたヒロインを後ろから抱きこむようにして、泉の手が回る。鍵盤を叩くヒロインの指にそっと自身の指を重ねながら、泉は言った。

「君の音は淀みがなく穏やかで優しい。……僕はその音を、愛してるんだ」

「……音、だけ……?」

「……ああ」

「私は……っ。音色だけじゃないわ。貴方のことをすべて愛し……」

「それ以上は言わないで」

 鍵盤の上でヒロインの指を握りながら、祈るように泉が言った。節の高い指がわずかに震えている。

「じゃないと僕は、もう何も弾けなくなる。君を愛しく思う気持ちに気づいてしまったら、僕はもう、ピアノを奏でられないんだ」

「蓮さん……」

「……カットー! オッケー!」

 切ない空気を切り裂くように、監督からオーケーが出た。

 その声でハッと、要も現実を思いだす。泉の演技を見ていると、深い海に潜りこんでいく感覚に似ていると要は思った。周りの音が一切聞こえなくなり、目の前には泉を中心とした世界だけが広がるのだ。

 だから、カットがかかった瞬間に海面から顔を出したような気分になる。今要は確実に現実を忘れ、一泉の世界へとダイブしていた。

 一体今の演技を見て誰が、泉が女性恐怖症だと信じるだろうか。

(ああ、この才能だ。オレを虜にした、オレの希望だ)

 全世界に、一泉はここにいると叫んでまわりたいくらいの衝動を要は覚えた。やがて全世界が、彼の虜になるだろうとさえ確信させてくれる泉を、要は誇らしく思う。

 まだ役柄をほんのりと引きずる泉の肩を叩き、中年の監督は陽気に言った。

「泉、よくあそこまで切ない表情を出せたな」

「今日の泉くん、いつにもまして入りこんでません? 完全に役の『天才ピアニスト蓮』が乗り移ってましたよ」

「思わず世界観に浸っちゃったよなぁ。ピアノも短期間で弾きこなすし、どこまで器用なんだか」

 スタッフたちが余韻にひたっている中、監督と次のシーンについて台本片手に話し合う泉を要は目で追う。

 圧倒的なオーラに惹きつけられて泉を芸能界へスカウトしたが、泉のすごさは演技にこそある。そして、面倒くさがりだが彼は勤勉だった。

 天性の演技力だけに頼らず、常に何かを吸収しようとする姿が要は好きだ。それは、泉が要に向けてくれる好きとは違うはずだが――――昨晩、泉に抱かれて反応した身体が、要にはよく分からなかった。

(そもそも、同性相手に恋してるかどうかを考えたことがなかった。それに……)

 この胸に宿る違和感は何だろう。施設長の話を聞いてからだ。泉が遠い昔、要がテレビ越しに放った言葉を拾いあげてくれていたと聞いてから、何かがおかしい。

「泉くん、次のシーンの確認していい?」

 ヒロイン役の女優が、泉へと駆け寄る。その女優が親密そうに泉の服の袖を引いたのを見て、要は胸がチリ、とささくれるような感覚に驚いた。

(え、何)

 針でも刺さったような感覚が不思議で胸をさする。困惑したままもう一度女優と泉を見つめていると、不意に視線に気付いたグリーンアイズと目が合った。

「要!?」

「あ……」

 女優に一言告げて、泉は要に向き直る。怒ったような表情に要が肩を跳ねさせると、泉は顔を歪めた。

「……寝てろって言ったろ。起きてきて大丈夫なのか?」

 一瞬迷いを見せた手が、そっと要の頬に触れる。ガラス細工を扱うような手の優しさに、昨晩とは違うのだと要は強張りを解いた。

「うん……」

「そうか……。監督、休憩もらえますか」

「ん? そうさなぁ、一息いれっか!」

 監督が言うと「では十五分休憩入りまーす」とスタッフの声がスタジオに響く。泉は要を休憩所へと連れていった。

「ココアでいいか」

「うん」

 自販機のアイスココアを選び、ボタンを泉が押す。出会って四年、すっかり泉は要の好みを把握している。カップに注がれたココアを渡した泉は、二人きりの休憩室でソファに離れてかけた。

「な、なに……?」

 ソファの端と端にかけるという微妙な距離感に、要は戸惑った声を上げる。いつもなら泉は猫のように要の隣にかけ、のしかかってくるというのに。そう言いかけて、要は口を噤んだ。

(そうだった、昨日、オレたち……)

 今まで、泉はそういう目で自分を見て触れてきていたのだろうか。泉が要にだけやたらとボディタッチが多いのは、懐かれている証拠だと思っていたが、実際は違ったのか。しかしそれがなくなると思うと、寂しいのを要は自覚した。

「……何で距離置いただけでそんな顔すんだよ」

「へ」

「しょげた面すんなよ。お前が俺を……怖がると思ったんだ」

 眩い金髪を掻きあげ、泉は弱ったように言った。

 いつもの泉だ。もう怒ってはいないことに、要はほっとした。

「それで? 俺と仕事するのはもう嫌だって言いに来たのか?」

「……っ? そんなこと考えてな……っつ」

 驚いて立ちあがり、要は腰の鈍痛に呻く。ソファの背もたれに咄嗟に手をついた要を、泉が血相を変えて支えた。

「座ってろ! 悪い……やっぱり、体調悪いんだな……」

 服が汚れるのを歯牙にもかけず、泉が床に膝をつく。屈みこんで白い頬を撫でてくる泉に、要は鼻孔が痛んだ。

「平気だよ――――ねえ、泉、オレは君とこれからも仕事がしたいんだ……!」

 泉の服がしわになるほど強く肩を掴み、決死の思いで言葉を紡ぐ。たった今、改めて泉の演技に引き込まれたところなのだ。彼が自分を拒むならともかく、自分から泉の手を離すことはしたくなかった。

「……俺はお前を、抱いたのに?」

 泉の声が固さを増す。肌を削がれるような硬質さに緊張を強いられながら、要は頷いた。

「施設長さんから少しだけ聞いたよ……君のこと。君がオレを希望だって言ってくれた意味、分かった気がする。オレも、君に対してそう思ったのは……」

「……俺も美佐男に聞いた。お前の過去のこと」

 遮るように言われ、要は過去を思い出して苦く笑った。

「……そう」

「悪かったな」

 その謝罪には、たくさんの意味が含まれているのだろう。要を無理やり抱いたことも、要の過去を社長に聞いたことも。でもそれは、お互い様だと要は思った。

 自分も施設長から泉の過去を聞いたし、泉の気持ちを知らずに傷つけてきたことがあるに違いない。

 そう、竜胆と寝ようとしたり。もし好きな相手が、自分の犠牲になって望まぬ相手と一夜をともにしようとしたら耐えられないと要は思った。

(だから、許そう)

 いまだに熱を持つ身体も、腰の痛みも、拘束されたことによる手首の痣も、知らぬ間に泉を傷つけた代償だと要は受け止めることにした。

 目に痛いほど白いシャツから覗く要の手首の痣をさする泉へ、要は静かに言った。

「オレさ……好きだったんだ、芸能界。何者でもないオレが、何者にでもなれる。無限の可能性を秘めた世界で活躍できることが嬉しかった。でも、どんなに夢を描いても、他人の悪意で一瞬にして夢が奪われることを知ってしまったから、もう自分だけでは戦えないと思った。けど」

 要は泉の手を握り返した。泉の手の甲に浮いた血管が驚いたように跳ねるのを見下ろし、要は何でも掴めそうな大きな手を撫でた。

「やっぱりあの世界が好きで。凡人のオレでは無理だったけど、今度は、誰かの恣意で消されないほどの強い光を持った誰かが芸能界でてっぺんを獲るところが見たいと思った。自分が、一番近い場所でその相手を支えられたらって。だからマネージャーになった。そして――――見つけたんだ。泉、君を」

 泉と真っすぐに目を合わせる。クシャクシャした髪のおぼこい自分と同じ目線になるため跪いている美しい彼が、何よりも大切だと要は再確認した。

「圧倒的な光だった。世の中の誰も、消すことはできない光だと思ったよ。だから、それを自らの欲望を叶えるために消そうとした竜胆さんが許せなかった。泉を守るためなら、自分の貞操なんて惜しくないと思ったんだ」

 泉の眉間にしわが寄る。痛みを我慢するような泉の表情を見たくなくて、要は泉の薄い瞼を撫でた。

「要、何す……」

「でも、不思議だね。辛かった」

「は」

「泉に抱かれている間、辛かったんだ。泉を守りたかっただけなのに、結果的に泉を傷付けたんだと知って、苦しかった」

「要……」

「だから、痛み分けだ」

 コツン、と泉の額と自身の額を突き合わせて要が言った。

「オレに無体を働いた君と、君の気持ちに無頓着だったオレの過失は、フィフティフィフティってことにしよう」

「……お前は時々、男前だな」

「オレは羽虫だよ」

「んなわけあるか、俺が知る限り一番いい男だ」

 泉が嘆息する。次の瞬間、要は片手に持っていたココアが零れるほど強く抱きしめられた。

「泉……っ?」

「じゃあこれからもお前は、俺のそばにいてくれ」

「う、うん」

「でも忘れるなよ要。俺はお前が好きなんだ」

 改めて言われ、要はギクリと固まってしまう。動揺する要に向かって、泉は今までの殊勝な態度をゴミ箱に捨て去って不敵な笑みを浮かべた。

「お前が俺とこれからも一緒にいることを願ったんだ。絶対に落としてやるから、覚悟してろよ」

 そう言って笑う泉は、大輪のバラのように美しい。悪魔よりも蠱惑的な彼を前にし、要はやはり早まったかもしれないとめまいがした。

「あ、あのでも……本当にいいの?」

 要は気づかわしげに言った。泉は不思議そうに片方の眉を上げる。

「何がだ?」

「施設長さんに聞いてしまったんだ。泉が本当は、女性嫌いじゃなくて女性恐怖症だって」

 要が言うと、泉は渋い顔をして黙りこんだ。

「オレ、知らずにずっと泉につらい思いをさせてたんじゃないかって不安で……」

「はぁ? 逆だ、逆。お前が……」

 泉はポケットから色のはげたヒヨコのキーホルダーを取りだし、要の目の前にかざした。

「こうしてお守りをくれたから、俺はこれを持っている間だけでも女が平気になれたんだ。むしろ感謝してるくらいだぜ。もしお前に出会わず女性恐怖症のままなら、俺は社会に出ても働けなかった。男専門の風俗にでも身を沈めてただろうな。……だから……」

 赤みがかった黒髪で隠れた要の顔を持ちあげ、泉は優しく笑った。

「ありがとうな、要」

「……やっぱり男前なのは、君の方だよ」

 キーホルダーはきっかけになったかもしれないが、本人の相当な努力なくしては、トラウマは克服できない。それを制限はあれど成しえた泉は、本当にいい男に違いないと要は思った。
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