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そして彼は僕を見つける

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 先に戻ってエンジンをかけていた泉が、運転席のドアを開けた要へからかうように言った。

「遅かったな。あのババアと有意義な仕事の話はできたのか?」

「ババアなんて失礼だろ、泉。……お待たせ」

「……どうかしたか?」

 暗い要の様子を見た瞬間に、泉から、からかいの色が失せる。彼は人の感情の機微にとても敏感だ。特に何故か、要の感情の起伏に対しては人一倍目敏かった。

「な、何でもないよ。ちょっと大御所に会ったから緊張で当てられちゃったかな……。ノミの心臓のオレには恐れ多くて……うう……」

「ふうん。ああ、そうだ要、お前のカバン貸せよ。俺の携帯間違えて入れちまってさ」

「え、いいよ、はい」

 要はビジネスバッグを差しだす。バッグを漁った泉はすぐにスマホを探し当てた。

「やっぱりここか」

「警戒心の強い君にしては随分迂闊だね……うわっ?」

 大きな手にグイと項を掴まれ、泉へと引き寄せられる。額がくっつくほど近い距離で、翡翠の瞳と目が合った。

「何だ、煙草くさいなお前」

「……あ……」

 そういえばさっき、竜胆に煙を吹きかけられたのだった。匂いを気にして離れようとしたが、泉は要を解放しなかった。

「泉、オレくさいでしょ。離れて……」

「……本当か?」

「え……」

「本当に、何もなかったのか?」

 詰問ではなく、質問の響きだった。ただ、要の喉仏の動きや、目線、息遣いから、要の異変を感じとろうと泉が神経を研ぎ澄ませているのが分かった。

(鋭いな……。でも不安にさせちゃいけない……。泉はオレの宝なんだ……)

 掃きだめのような路地裏で、すべてを諦めたような表情をしていた彼に、自分は希望を見出した。彼こそが、自分が探し求めていたスターの卵、逸材だと。

「何もないよ、泉」

 きめ細かい泉の頬に手を添え、安心させるように微笑む。一瞬碧の宝石が心配そうに揺らいだが

「……ならいい」

 と泉の顔は離れていった。

「あんなババアにビビるなんざ、まだまだガキだな。イオちゃん」

「な……っ、オレはこれでも君より六つも年上だよ……!」

「そうだったな、オニイチャン。マネージャーが大事な商品に心配なんてさせるなよ」

「商品って……」

 要は皮肉屋の泉へ困ったように眉を下げながら言った。

「でも、心配、してくれたの?」

「当然だろ?」

 頭の後ろで腕を組んだ泉が、薄い唇を引きあげて言った。

「お前は俺にとって特別な存在だからな」

「オレが君の……? 冗談だろう? オレなんて……」

 時々、思い出したように泉はそう言うことがある。要にとって泉は自分が見出した特別な存在だが、自分が泉にとって同等の価値があるとは、要にはとても思えなかった。





 時間は無常だ。竜胆との約束の日が来ても、要は決断できずにいた。

 前日に泉へ正直に打ち明けるべきか悩んだが、切りだすことができずに夜を迎え、さらには一匹オオカミの泉が珍しく役者仲間と飲みに行くと言いだしたものだから、笑顔で送りだしてしまい話せずじまいだった。

 それは当日になっても同じだから、もし昨晩泉が飲みに出かけなくても相談できなかったに違いないと要は思った。

 泉は猫のように気ままで皮肉屋だが、要に対しては優しいと、要も自覚している。そんな彼に竜胆から『枕営業をしろ』と脅迫されていると伝えれば、女嫌いでもきっと頷くに違いない。

 おそらく、己のためにではなく――――要のために。

 竜胆の誘いを断り泉が芸能界で干されてしまえば、要が落ちこむ。たったそれだけの理由で、何故か泉は嫌いな女とでも一夜を共にしてしまう気がした。

 もちろん泉が仕事をなくせば、事務所としても痛手だ。これまでのように泉が世話になった施設へお金の援助をすることも不可能になるだろう。

 聡い泉は電卓を叩くように、その結論をはじきだすはずだ。そして何の感慨もなく身を売るだろう。どんなに女を毛嫌いしていても。

 だから泉には相談できないと要は思った。

「でも、社長にまで相談しなかったのは……さすがに怒られるかな……。クビになったりして……」

 要の弱った声がざわめきにかき消される。要が今いる場所は、竜胆との約束のホテルだった。

 都内でも有数の高級ホテルは、天井が高く世界中の宝石をかき集めて作ったようなシャンデリアがロビーに吊り下げられている。乳白色の大理石がモンクストラップの革靴の足音を小気味よく響かせた。

 要が通りすぎると、ロビーで寛いでいた宿泊客たちが口をあんぐり開けた。お茶の香りを楽しんでいた女性客は、隣で英字新聞を読んでいたハイソな夫の肩を叩き、何事か伝える。

「ねえ……ちょっと……すごくない?」

「……これは……」

 驚く客たちの視線を歯牙にもかけず、要は金の手すりの螺旋階段近くにあるエレベーターへ乗りこむ。小部屋ほどのスペースがあるエレベーターを閉めようとすると、女性客が飛びこんできた。

「すみません、乗ります」

「何階ですか?」

「バーのある十五階で……」

 言いかけた若い女性の言葉が途切れる。小綺麗な格好をした女性客の視線は、要の顔で縫い留められたように止まった。十五階と、竜胆の泊まるスイートルームがある最上階のボタンを押した要は、流し目で尋ねた。

「……何か?」

「い、いえ!!」

 女性客の頬が真っ赤に染まる。気を落ち着けるように耳へ髪をかけ直した女性客は、エレベーターが十五階で止まるまで何度も要を盗み見た。

「し、失礼します」

「良い夜を」

 かけられた言葉に、要が微笑み返してエレベーターの扉を閉める。エレベーターが再び動きだしても、女性は放心してしばらく動けない様子だった。

「私、まだ酔ってないわよね……? あんな美形……この世に存在するの……?」

 何度も目をゴシゴシと擦りながら、女性は憑かれたような足取りでバーへ向かった。





 要が最上階でエレベーターを降りると、フロアの窓には宝石箱をひっくり返したような夜景が輝いていた。いつもなら今の時間、新宿のマンションから泉と一緒に眺める景色だ。

 寝室のカーテンを開け放ち、二人で酒をチビチビ飲みながら、星のように瞬く夜景の海を見下ろす。その中でひときわ輝く光を指して、『自分には泉があんな風に輝いて見える、だから見つけられた』と要は熱弁する。

 するとソファに行儀悪く片膝を立てて座る泉は、要を馬鹿にしながら、でもどうしようもなく優しい目をして話を聞いてくれるのだ。

「早く帰りたいな……」

 いつもの日常へ。

 要は鬱屈とした気分で竜胆の指定した部屋のベルを鳴らす。ほどなく、扉の向こうから布ずれの音がし、扉が開かれた。

 バスローブ姿の竜胆が、半身を扉から出す。しわの刻まれた目元が、驚きに見開かれた。

「……誰よ、あんた。泉は?」

「オレ一人です」

「……その声……」

 男性にしては高く優しげな声を聞いた瞬間、竜胆は探るように聞いた。

「泉のマネージャー……? 驚いたわね、二日前のオドオドした坊やは一体どこにいったのかしら……それに……」

 竜胆の落ちくぼんだ目が、要を上から下まで眺める。

 いつものクシャクシャした、赤みがかった黒髪メガネにベスト姿の要は、どこにも見当たらない。竜胆の目の前にいるのは、上流階級の客が泊まるホテルに相応しい身なりをした、洗練された紳士だった。

 ツバメの巣のような髪はどこへやら、さらりとした指通りの髪は片側を耳にかけ落ちついた雰囲気を醸しだしている。いつも荷物が多いせいで猫背気味だった背筋はしゃんと伸び、品のあるグレーのストライプスーツの良さが際立つ。織であしらわれたストライプが高級感を醸しだすが、合わせられたネクタイの柄が二十代のフレッシュさも同時に視覚へ訴えかけていた。

 磨きあげられた革靴も、ほどよい筋肉のついた手首に留められた腕時計も、シンプルなカフスボタンさえ、文句をつけようがないほど服装に合っている。

 しかし一番感嘆すべきは、その服装を完璧に着こなしている要の素材のよさにあった。

 怯えてうつむきがちだった要はどこにもいない。自信の表れか、悪魔のように妖しく微笑む要を前に竜胆は瞼をピクリと引きつらせた。

「なぁに? その顔……。坊やも実はモデルか何かなの……?」

「オレはただの泉のマネージャーです。今日は、泉の枕営業の件を断りにやってきました。だから泉は連れてきていません」

 要はよどみなく言う。竜胆は声を荒げた。

「……っ坊や、言ったでしょう。泉を連れてこないなら、仕事の件はなかったことにするって! それに泉を干すことも」

「もちろん、ただで断るわけではありません」

「は……?」

「オレでは、泉の代わりになりませんか?」

 そう、要が思いついた策は、泉の代わりに自分を売ることだった。

 自身の胸に手を置いた要が、竜胆の顔を覗きこむ。悲しげに伏せられた黒目がちの瞳は大きく、目尻が少し下がっていて甘ったるい。年上の母性をくすぐるには十分な破壊力だ。

 加えて形のよい鼻と、小さな唇は中性的な雰囲気を際立たせている。泉のように屈服したくなるような、暴力的な美貌ではない。それでも、誰もが一度は手にしたいと願うような魅力が今の要にはあった。

 征服欲を駆りたてるような魅力が。

「ダメ、ですか?」

 要の手が竜胆の手を掬いあげ、血管の浮きでた彼女の手の甲を親指で撫でる。悪魔のような要の色香にあてられた竜胆は、背筋をゾクリとさせ明確な興奮を味わったようだった。

「坊やが、一晩私の相手をしてくれるのかしら……?」

「ええ。貴方の言うビジネスを。――――入れてくれませんか?」

「――――いいわ」

 興奮からじわりと湧きでる唾液を飲みこみ、竜胆が言った。

「いらっしゃいな」

 竜胆の腕が要の首へスルリと回る。体中に走った嫌悪感を隠し、要は上手く笑った。

「本当に驚いたわ。坊やにこんな魅力があったなんてね……。今までにもこんな経験があるのかしら。泉の代わりに枕を?」

「いいえ、これが初めてです」

 竜胆のスイートルームへ飛びこみ、要は後ろ手で扉を閉じようとする。しかし――――……。

「そしてこれが最後だ」

 背後からかかった低い声に、要は固まった。

 閉じられようとしていた扉に、節の高い指がかかっている。その手は勢いよく扉を跳ね開けた。そこから姿を現したのは――――――……。

「泉……」

 氷のように冷たい表情をした泉だった。
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