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たとえば彼が枕をするとして
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五十近いだろうか。五年前に突如活動を中止した日本を代表するポップ歌手は、衰えを見せない貫禄だった。
細い首にカモシカのような手足。華奢な肢体のどこからそんなオーラが出るのかと要は不思議に思う。ショートの黒髪から覗く大ぶりのピアスが照明の光を弾いていた。
竜胆は今回五年ぶりに新曲を発表することが決まったのだが、その新曲のミュージックビデオにぜひ泉に出演してほしいと本人から強い要望があり、依頼されたのだ。今日はその打ち合わせだった。
「初めまして竜胆さん、一泉です」
さっきまでの皮肉屋っぽい表情をどこへしまったのやら、泉は王子様のようにキラキラした表情で竜胆へ一礼した。
「待たせてごめんなさい。レコーディングが長引いて……ああ、なるほどね……」
蛇のような竜胆の目が、泉を検分するように見る。
月の光を溶かしたようなブロンドから、ずば抜けて整ったクールな顔立ち、そして長い手足を一通り眺めた竜胆は、パンッと一つ手を叩いた。
「気に入ったわ。噂通りの美男子ね。さ、ビジネスの話を始めましょ?」
竜胆の新曲はしっとりとしたバラードらしい。明け方の霧雨のように静かでかすかなもの悲しさが、泉の持つ影とイメージがピッタリなのだそうだ。
「一さんは、金髪碧眼という華やかなルックスなのにどこかダークな雰囲気も兼ねそろえていらっしゃいますから」
男性スタッフが泉の整った容姿に惚れ惚れしながら言った。
要は泉をチラリと盗み見る。泉の驚くべきところは、視野が広いせいか――――オンの時は、確実に今、というタイミングで取るべき行動をとることだった。
現に今も、慎ましやかに微笑を浮かべてスタッフに答えている。その時々で臨機応変に対応できるのが泉の強みでもある。
(本当は皮肉屋で、不遜な猫みたいな性格だけどね……)
それを知るのは、要と社長くらいだ。
打ち合わせはつつがなく進んだ。竜胆が泉を気に入ったことは一目瞭然で、スタッフが新曲のコンセプトを説明している間も彼女の視線はずっと泉に向けられていた。
泉の演技力は芝居の仕事中にだけ発揮されるものではなく取引先相手にも発揮されるので、彼が露骨に渋面を作ることはなかった。が、さすがに竜胆からの焼ききれそうなくらいの視線には辟易していそうだ。要は今夜の夕食も泉の好物を用意して労ってやろうと思った。
一時間ほど経ったころ、竜胆側のスタッフが離席する。こちらも大体の話がついたので打ち合わせは終了となった。
「ではまた……」
資料を片付けながら、要が言った。
この一時間要とスタッフがほとんど話をしていたのだが、竜胆は打ち合わせを終えてようやく泉から要へ視線を移した。
「坊や、少しいいかしら」
「え、あ……オレ……僕ですか?」
瓶底メガネをかけたクシャクシャ頭の要など、竜胆にはお子様に見えるのだろう。要が坊やと呼ばれた際に、一瞬泉から鋭い視線が飛んだ。が――――要は泉を目で制す。泉は一瞬にして剣呑な光を隠した。
「ええ、そうよ。坊やともう少しビジネスの話がしたいわ」
「そうでしたか。あ、じゃあもう少し打ち合わせの続きを……」
「そうじゃなくて! 別のビジネスの話をしましょ!」
小脇に抱えた書類をテーブルに広げ直そうとした要へ、竜胆は語気を強めて言った。
「二人でね」
「へ……」
動転したが、竜胆クラスの大物にそう言われては断れない。要は泉に向き直った。
「ごめん泉、先に車へ戻ってくれる?」
「……」
節の高い泉の手に、要は車のキーを預ける。泉は眉間にしわを寄せたが、
「……早く来いよ」
とだけ言って部屋を後にした。
扉が閉まり、泉の足音が遠のいていく。完全に聞こえなくなると、要は椅子に置いていたビジネスバッグにとりあえず書類をしまう。それからオロオロと竜胆へ切りだした。
「えっと……」
シュボッとライターの着火音がする。長テーブルに気だるげに腰かけた竜胆が煙草を吸い、紫煙をくゆらせていた。蛇のような煙がゆらゆらと部屋に立ちこめる。
要が灰皿を探すより早く、竜胆は床に灰を落とした。
「……あ……」
「あの子、いいわね。いいビジネスの匂いがするわ。ニノマエイズミくん」
「……う、ちの泉を買っていただいて恐縮です……」
打ち合わせ時よりもずっと低い声で発された言葉に、要はぎこちなく答えた。竜胆は煙を吐きだし鼻で笑う。
「ああ、鈍い坊やね。この私が意味もなく若手俳優を褒めると思う? 私は彼をお気に召したって言ってるの」
「はあ……」
物わかりの悪い要に、竜胆は煙草を挟んだ指で眉間を掻きながらじれったそうな顔をした。
「分からない? 人払いしてマネージャーの坊やと二人っきりになったのは、一泉を私に一晩貸してほしいからよ」
「……へ?」
「枕営業させろって言ってるの。私のミュージックビデオに出ることは、彼にとってビッグチャンスよね。その見返りがほしいのよ」
「な……っ」
要するに竜胆は、泉に体を売れと言っているのだ。その許可をマネージャーである要に求めている。
要は拳を握りしめて言った。
「う、うちの事務所は、俳優に枕営業をさせることは一切ありません……! ですから……」
「私のビジネスを断る気?」
高圧的な物言いに、要のこめかみに冷や汗が伝った。表情を強張らせた要に、竜胆は煙を吹きかけた。
「――――今度のミュージックビデオ、実は一泉以外の俳優も候補に入れてるのよ。私の機嫌を損ねたら、この件は白紙になると思いなさい」
「な……っま、待ってください、そんな……そちらからオファーくださったお話じゃありませんか……! そんな横暴な」
「口を慎みなさい。何の才能もない凡人が」
竜胆は机で煙草をもみ消す。愕然とする要に、竜胆は猫なで声で言った。
「坊や、よく考えなさい。愚鈍な貴方にできることは一泉を私に一晩差しだすことよ。そうすれば皆幸せになれるの。そうしないと……」
毒々しいネイルの施された竜胆の指が、一つ、二つと折り曲げられた。
「〇〇テレビの重役、それから〇〇ゼネラルプロデューサー……どちらも私のお友達よ。私の機嫌を損ねたら、彼らに頼んで一泉を干すことも可能なの。大事な看板俳優をこんなことで干されたくないでしょう……?」
「……っ」
ガタッと椅子を引き倒して要が立ちあがった。怒りでゆらゆらと瞳が揺れ動く。竜胆の発言は明確な脅しだった。
「泉はこれからの芸能界を引っ張っていく存在です! 竜胆さんだって感じたでしょう? 泉の圧倒的なオーラを……! 彼を干そうだなんて……」
「ええ、そんなひどいことを私にさせないでちょうだい」
竜胆は歌うように言った。
竜胆は煙草の匂いが染みついた指で、要の細い顎を撫でる。
「猶予をあげる。二日後、夜の十一時にこちらが指定するホテルへ一泉を連れてきてちょうだい」
「待ってください、泉は」
「いいお返事を期待してるわ、マネージャーさん」
有無を言わさぬ声で竜胆が言った。
「私も泉とぜひ仕事がしたいもの。つまらない意識でビジネスのチャンスを潰すのは避けましょう? そう、これはビジネス。売り出し中の俳優が体を使うのは、立派なビジネスなのよ」
動けない要の肩を叩き、竜胆は部屋を去っていく。残された要は、竜胆の言葉を反芻した。
(落ち着け、落ち着け……これは脅し……)
なんかじゃないことは、要が一番よく分かっていた。竜胆は本気だ。打ち合わせ中の泉への執拗なまでの視線は、枕営業の算段を考えていたに違いない。
(もし断ればどうなってしまうか……)
いくら泉の知名度が高かろうが、人気があろうが、干されるのは一瞬だ。人気があるから、実力があるから芸能界で生き残れるわけではない。
権力を持った相手にいかに嫌われず、取り入り、懐柔できるか。それにかかっている。それができなければ……。
(泉もオレみたいに……)
過去の苦い記憶が蘇る。要はガンガンと痛む頭を引きずりながら、重い足で駐車場を目指した。
細い首にカモシカのような手足。華奢な肢体のどこからそんなオーラが出るのかと要は不思議に思う。ショートの黒髪から覗く大ぶりのピアスが照明の光を弾いていた。
竜胆は今回五年ぶりに新曲を発表することが決まったのだが、その新曲のミュージックビデオにぜひ泉に出演してほしいと本人から強い要望があり、依頼されたのだ。今日はその打ち合わせだった。
「初めまして竜胆さん、一泉です」
さっきまでの皮肉屋っぽい表情をどこへしまったのやら、泉は王子様のようにキラキラした表情で竜胆へ一礼した。
「待たせてごめんなさい。レコーディングが長引いて……ああ、なるほどね……」
蛇のような竜胆の目が、泉を検分するように見る。
月の光を溶かしたようなブロンドから、ずば抜けて整ったクールな顔立ち、そして長い手足を一通り眺めた竜胆は、パンッと一つ手を叩いた。
「気に入ったわ。噂通りの美男子ね。さ、ビジネスの話を始めましょ?」
竜胆の新曲はしっとりとしたバラードらしい。明け方の霧雨のように静かでかすかなもの悲しさが、泉の持つ影とイメージがピッタリなのだそうだ。
「一さんは、金髪碧眼という華やかなルックスなのにどこかダークな雰囲気も兼ねそろえていらっしゃいますから」
男性スタッフが泉の整った容姿に惚れ惚れしながら言った。
要は泉をチラリと盗み見る。泉の驚くべきところは、視野が広いせいか――――オンの時は、確実に今、というタイミングで取るべき行動をとることだった。
現に今も、慎ましやかに微笑を浮かべてスタッフに答えている。その時々で臨機応変に対応できるのが泉の強みでもある。
(本当は皮肉屋で、不遜な猫みたいな性格だけどね……)
それを知るのは、要と社長くらいだ。
打ち合わせはつつがなく進んだ。竜胆が泉を気に入ったことは一目瞭然で、スタッフが新曲のコンセプトを説明している間も彼女の視線はずっと泉に向けられていた。
泉の演技力は芝居の仕事中にだけ発揮されるものではなく取引先相手にも発揮されるので、彼が露骨に渋面を作ることはなかった。が、さすがに竜胆からの焼ききれそうなくらいの視線には辟易していそうだ。要は今夜の夕食も泉の好物を用意して労ってやろうと思った。
一時間ほど経ったころ、竜胆側のスタッフが離席する。こちらも大体の話がついたので打ち合わせは終了となった。
「ではまた……」
資料を片付けながら、要が言った。
この一時間要とスタッフがほとんど話をしていたのだが、竜胆は打ち合わせを終えてようやく泉から要へ視線を移した。
「坊や、少しいいかしら」
「え、あ……オレ……僕ですか?」
瓶底メガネをかけたクシャクシャ頭の要など、竜胆にはお子様に見えるのだろう。要が坊やと呼ばれた際に、一瞬泉から鋭い視線が飛んだ。が――――要は泉を目で制す。泉は一瞬にして剣呑な光を隠した。
「ええ、そうよ。坊やともう少しビジネスの話がしたいわ」
「そうでしたか。あ、じゃあもう少し打ち合わせの続きを……」
「そうじゃなくて! 別のビジネスの話をしましょ!」
小脇に抱えた書類をテーブルに広げ直そうとした要へ、竜胆は語気を強めて言った。
「二人でね」
「へ……」
動転したが、竜胆クラスの大物にそう言われては断れない。要は泉に向き直った。
「ごめん泉、先に車へ戻ってくれる?」
「……」
節の高い泉の手に、要は車のキーを預ける。泉は眉間にしわを寄せたが、
「……早く来いよ」
とだけ言って部屋を後にした。
扉が閉まり、泉の足音が遠のいていく。完全に聞こえなくなると、要は椅子に置いていたビジネスバッグにとりあえず書類をしまう。それからオロオロと竜胆へ切りだした。
「えっと……」
シュボッとライターの着火音がする。長テーブルに気だるげに腰かけた竜胆が煙草を吸い、紫煙をくゆらせていた。蛇のような煙がゆらゆらと部屋に立ちこめる。
要が灰皿を探すより早く、竜胆は床に灰を落とした。
「……あ……」
「あの子、いいわね。いいビジネスの匂いがするわ。ニノマエイズミくん」
「……う、ちの泉を買っていただいて恐縮です……」
打ち合わせ時よりもずっと低い声で発された言葉に、要はぎこちなく答えた。竜胆は煙を吐きだし鼻で笑う。
「ああ、鈍い坊やね。この私が意味もなく若手俳優を褒めると思う? 私は彼をお気に召したって言ってるの」
「はあ……」
物わかりの悪い要に、竜胆は煙草を挟んだ指で眉間を掻きながらじれったそうな顔をした。
「分からない? 人払いしてマネージャーの坊やと二人っきりになったのは、一泉を私に一晩貸してほしいからよ」
「……へ?」
「枕営業させろって言ってるの。私のミュージックビデオに出ることは、彼にとってビッグチャンスよね。その見返りがほしいのよ」
「な……っ」
要するに竜胆は、泉に体を売れと言っているのだ。その許可をマネージャーである要に求めている。
要は拳を握りしめて言った。
「う、うちの事務所は、俳優に枕営業をさせることは一切ありません……! ですから……」
「私のビジネスを断る気?」
高圧的な物言いに、要のこめかみに冷や汗が伝った。表情を強張らせた要に、竜胆は煙を吹きかけた。
「――――今度のミュージックビデオ、実は一泉以外の俳優も候補に入れてるのよ。私の機嫌を損ねたら、この件は白紙になると思いなさい」
「な……っま、待ってください、そんな……そちらからオファーくださったお話じゃありませんか……! そんな横暴な」
「口を慎みなさい。何の才能もない凡人が」
竜胆は机で煙草をもみ消す。愕然とする要に、竜胆は猫なで声で言った。
「坊や、よく考えなさい。愚鈍な貴方にできることは一泉を私に一晩差しだすことよ。そうすれば皆幸せになれるの。そうしないと……」
毒々しいネイルの施された竜胆の指が、一つ、二つと折り曲げられた。
「〇〇テレビの重役、それから〇〇ゼネラルプロデューサー……どちらも私のお友達よ。私の機嫌を損ねたら、彼らに頼んで一泉を干すことも可能なの。大事な看板俳優をこんなことで干されたくないでしょう……?」
「……っ」
ガタッと椅子を引き倒して要が立ちあがった。怒りでゆらゆらと瞳が揺れ動く。竜胆の発言は明確な脅しだった。
「泉はこれからの芸能界を引っ張っていく存在です! 竜胆さんだって感じたでしょう? 泉の圧倒的なオーラを……! 彼を干そうだなんて……」
「ええ、そんなひどいことを私にさせないでちょうだい」
竜胆は歌うように言った。
竜胆は煙草の匂いが染みついた指で、要の細い顎を撫でる。
「猶予をあげる。二日後、夜の十一時にこちらが指定するホテルへ一泉を連れてきてちょうだい」
「待ってください、泉は」
「いいお返事を期待してるわ、マネージャーさん」
有無を言わさぬ声で竜胆が言った。
「私も泉とぜひ仕事がしたいもの。つまらない意識でビジネスのチャンスを潰すのは避けましょう? そう、これはビジネス。売り出し中の俳優が体を使うのは、立派なビジネスなのよ」
動けない要の肩を叩き、竜胆は部屋を去っていく。残された要は、竜胆の言葉を反芻した。
(落ち着け、落ち着け……これは脅し……)
なんかじゃないことは、要が一番よく分かっていた。竜胆は本気だ。打ち合わせ中の泉への執拗なまでの視線は、枕営業の算段を考えていたに違いない。
(もし断ればどうなってしまうか……)
いくら泉の知名度が高かろうが、人気があろうが、干されるのは一瞬だ。人気があるから、実力があるから芸能界で生き残れるわけではない。
権力を持った相手にいかに嫌われず、取り入り、懐柔できるか。それにかかっている。それができなければ……。
(泉もオレみたいに……)
過去の苦い記憶が蘇る。要はガンガンと痛む頭を引きずりながら、重い足で駐車場を目指した。
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