93 / 95
◆恋と雪と
甘い雪に包まれて 1
しおりを挟む
三時過ぎコーヒーを淹れていると、颯天からメッセージが届いた。
『雪が降りそうだ。仕事が終わらなくてもかまわないから早く帰れよ』
了解ですと、味も素っ気もない返信を送り、杏香は顔をしかめる。
「雪くらいでおおげさな」
確かに雪雲かもしれないが、積もったところでせいぜい数センチがいいところだろう。都会の人はちょっとやそっとの雪で騒ぎ過ぎだと思う。
杏香が育った山間の温泉地は、この時期になると毎日のように雪が降る。積雪数十センチが普通のようなところで育っている。靴だって雨雪兼用のブーツを履いているのだから、なんの心配もない。
都築課長にも早く帰るように言われたが、杏香は受け流した。
「課長、私は雪に慣れてますから大丈夫ですよ。歩いても帰れる距離ですし」
「そうか。まああまり無理はしないように」
いつものように定時であがり、オフィスビルを出たときは子どものように心がウキウキした。
「きれい~」
見ないようにしていたもの、隠したいもの。あらゆる汚れを純白の雪が包み込んでいる。溶けはじめるまでのこの瞬間が一番美しい。一面の銀世界だ。
さらさらと傘に落ちる雪音が耳に心地よかった。
一応駅まで向かってみたが案の定、地下鉄のダイヤは乱れているようで人々がごった返している。なので歩いて帰ると決めた。
過信は禁物だと身に沁みて思ったのは、それから十分ほど歩いた頃だろうか。
「えっと?」
いくら方向音痴とはいえ、会社から家までの道のりは頭に入っているはずだった。
自宅マンションから歩く範囲を少しずつ広げて、会社までの道のりは完全にマスターしたはず。
(――嘘じゃないもん! わかってるはずなんだもん)
誰に向けての言いわけなのか、心の叫びが虚しく響く。ほんの少し降った雪のせいで狂ったのは交通機関だけじゃない。杏香の感覚もそうだったらしい。
もとから心もとない方向感覚が、もはや全く機能しなくなった。
上司の忠告も聞かず、OL都会の雪でまさかの遭難。そんな不吉なニュース速報を想像し、ブルブルと体を震わせた。
スマートフォンを開きナビを表示して、よくよく考える。どうやら方向は合っているらしいとホッとして、また歩きはじめた。
タクシーはもちろんあてにできない。駅前の乗り場は行列だったし、歩いていれば体は温まるが、この寒さの中ただじっと立っているのは辛い。たとえ疲れても歩いている方が楽だ。
途中、コンビニに立ち寄って暖を取り、また歩く。
ふと時計を見れば十九時半。徒歩三十分強で家に着くはずが、すでに一時間ほど多く歩いている。
でもまだ遅い時間じゃないもの大丈夫よと、自分を励ました。
「馬鹿だよなぁ、私」
専務に早く帰るように言われたのに資料作りに没頭してしまった。あの資料が出来上がらなければ、彼が自分で作らなきゃいけない。明日使う資料なのだから。
颯天には雪も嵐も関係ない。それで打ち合わせがなくなるわけじゃないし、仕事が減るわけじゃない。
こうしている今もまだ打ち合わせ中なのか。
もしかしたらマリアさんとどこかで食事中かもしれないな。そう思うと切なかった。
(――ねぇ専務。もうすぐクリスマスなんですよ。ターキーのグリルとか一緒に食べませんか? 私でも美味しく焼けるケーキ覚えたんですよ。パブロバって言ってね、ワインビネガーとかコーンスターチを入れたメレンゲを焼いてベリーで飾るの。でも、そういうの嫌なんでしょ。恋人だなんて贅沢は言わないです。私はただ……。
専務。ねぇ専務。私はただ、専務のことが……)
心の中で、彼に話しかけながら、涙がポロポロと溢れた。
悲しくて、切なくて、会いたくて。ただ会いたくて――。立ち止まって上を見上げた。
「……好きなんです」
涙も言葉もなにもかも、舞い降りる淡く白い雪と一緒にとけていく。
うっ、うっ、と込み上げる泣き声を飲みこみながら、このままいっそ雪の中に消えてしまいたいと思った。
消えてなくなればいい。そして生まれ変われたら……。
『雪が降りそうだ。仕事が終わらなくてもかまわないから早く帰れよ』
了解ですと、味も素っ気もない返信を送り、杏香は顔をしかめる。
「雪くらいでおおげさな」
確かに雪雲かもしれないが、積もったところでせいぜい数センチがいいところだろう。都会の人はちょっとやそっとの雪で騒ぎ過ぎだと思う。
杏香が育った山間の温泉地は、この時期になると毎日のように雪が降る。積雪数十センチが普通のようなところで育っている。靴だって雨雪兼用のブーツを履いているのだから、なんの心配もない。
都築課長にも早く帰るように言われたが、杏香は受け流した。
「課長、私は雪に慣れてますから大丈夫ですよ。歩いても帰れる距離ですし」
「そうか。まああまり無理はしないように」
いつものように定時であがり、オフィスビルを出たときは子どものように心がウキウキした。
「きれい~」
見ないようにしていたもの、隠したいもの。あらゆる汚れを純白の雪が包み込んでいる。溶けはじめるまでのこの瞬間が一番美しい。一面の銀世界だ。
さらさらと傘に落ちる雪音が耳に心地よかった。
一応駅まで向かってみたが案の定、地下鉄のダイヤは乱れているようで人々がごった返している。なので歩いて帰ると決めた。
過信は禁物だと身に沁みて思ったのは、それから十分ほど歩いた頃だろうか。
「えっと?」
いくら方向音痴とはいえ、会社から家までの道のりは頭に入っているはずだった。
自宅マンションから歩く範囲を少しずつ広げて、会社までの道のりは完全にマスターしたはず。
(――嘘じゃないもん! わかってるはずなんだもん)
誰に向けての言いわけなのか、心の叫びが虚しく響く。ほんの少し降った雪のせいで狂ったのは交通機関だけじゃない。杏香の感覚もそうだったらしい。
もとから心もとない方向感覚が、もはや全く機能しなくなった。
上司の忠告も聞かず、OL都会の雪でまさかの遭難。そんな不吉なニュース速報を想像し、ブルブルと体を震わせた。
スマートフォンを開きナビを表示して、よくよく考える。どうやら方向は合っているらしいとホッとして、また歩きはじめた。
タクシーはもちろんあてにできない。駅前の乗り場は行列だったし、歩いていれば体は温まるが、この寒さの中ただじっと立っているのは辛い。たとえ疲れても歩いている方が楽だ。
途中、コンビニに立ち寄って暖を取り、また歩く。
ふと時計を見れば十九時半。徒歩三十分強で家に着くはずが、すでに一時間ほど多く歩いている。
でもまだ遅い時間じゃないもの大丈夫よと、自分を励ました。
「馬鹿だよなぁ、私」
専務に早く帰るように言われたのに資料作りに没頭してしまった。あの資料が出来上がらなければ、彼が自分で作らなきゃいけない。明日使う資料なのだから。
颯天には雪も嵐も関係ない。それで打ち合わせがなくなるわけじゃないし、仕事が減るわけじゃない。
こうしている今もまだ打ち合わせ中なのか。
もしかしたらマリアさんとどこかで食事中かもしれないな。そう思うと切なかった。
(――ねぇ専務。もうすぐクリスマスなんですよ。ターキーのグリルとか一緒に食べませんか? 私でも美味しく焼けるケーキ覚えたんですよ。パブロバって言ってね、ワインビネガーとかコーンスターチを入れたメレンゲを焼いてベリーで飾るの。でも、そういうの嫌なんでしょ。恋人だなんて贅沢は言わないです。私はただ……。
専務。ねぇ専務。私はただ、専務のことが……)
心の中で、彼に話しかけながら、涙がポロポロと溢れた。
悲しくて、切なくて、会いたくて。ただ会いたくて――。立ち止まって上を見上げた。
「……好きなんです」
涙も言葉もなにもかも、舞い降りる淡く白い雪と一緒にとけていく。
うっ、うっ、と込み上げる泣き声を飲みこみながら、このままいっそ雪の中に消えてしまいたいと思った。
消えてなくなればいい。そして生まれ変われたら……。
58
お気に入りに追加
615
あなたにおすすめの小説
隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛
冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!
魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
一晩だけの禁断の恋のはずが憧れの御曹司に溺愛されてます
冬野まゆ
恋愛
建築設計事務所でデザイナーとして働く二十七歳の莉子。仕事中は女を捨て、機能性重視の服装と無難なメイクで完全武装をしているけれど、普段の好みはその真逆。それを偶然、憧れの建築家・加賀弘樹に知られてしまう。しかし彼は、女を捨てるのは勿体ないと魅力的な男の顔で彼女を口説いてきて? 強烈に女を意識させる甘い誘惑に、莉子は愛妻家という噂を承知で「一晩だけ」彼と過ごす。けれど翌日、罪悪感から逃げ出した莉子を、弘樹はあの手この手で甘やかし、まさかの猛アプローチ!? 「俺の好きにしていいと言ったのは、君だ」ワケアリ御曹司に甘く攻め落とされる、極上ラブストーリー!
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
一夜限りのお相手は
栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
【R18】深層のご令嬢は、婚約破棄して愛しのお兄様に花弁を散らされる
奏音 美都
恋愛
バトワール財閥の令嬢であるクリスティーナは血の繋がらない兄、ウィンストンを密かに慕っていた。だが、貴族院議員であり、ノルウェールズ侯爵家の三男であるコンラッドとの婚姻話が持ち上がり、バトワール財閥、ひいては会社の経営に携わる兄のために、お見合いを受ける覚悟をする。
だが、今目の前では兄のウィンストンに迫られていた。
「ノルウェールズ侯爵の御曹司とのお見合いが決まったって聞いたんだが、本当なのか?」」
どう尋ねる兄の真意は……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる