高司専務の憂鬱 (完)

白亜凛

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◆将を射んと欲せば

天使か悪魔か 3

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 杏香の中でなにかがプチっと切れた。

 こうなってしまっている理由が逃げるから? 太古の昔からの習性だ?

 嘘でもいい『愛してるんだ』とか、『やっぱり別れたくない。ずっと一緒にいよう』とか言えないんだろうか。

 愛人じゃイヤか? でもまだわかる。
 ずっと一緒にいようという言葉を期待しているわけじゃない。ずっととか絶対とか、どんなに真剣に言われても却って悲しくなっただろう。哀しいかな、自分はもう現実を見据える大人になってしまったのだ。

(私たちに未来はない。――それはわかっているの)

 たとえそうでも。今の一瞬を永遠という串で貫くのが、愛しているということではないのか。
 忘れていた夢を、これだよと掴んで見せてくれるのが、愛ではないのか。

 違う? と心で問いかけた。

 嘘でもいいから愛を語ってくれたなら、未来を捨ててもいいという踏ん切りがついたかもしれないのに。――もう、いいわと、心で呟いた。

「わかりました」
 杏香はすっくと立ち上がった。

 受け入れたわけじゃない。ただ、颯天がどういうつもりかが、わかりすぎるくらいわかった。

 じゃあねとも言わずに、傍らのバッグを手にして部屋から出る。

 リビングの扉を閉めても、玄関のドアを開けても、彼は追いかけても来ないし声も聞こえない。
 なにがわかったんだとも、どこにいくんだとも聞かないのは、お前がどうしようがどう思っていようが関係ない、という答えなのだろう。

 彼にとって重要なのは、自分の気持ちだけなのだから。


 エレベーターに乗った杏香は太くて長いため息をついた。

 この箱が落ちていく先は地獄と天国との境目なのかもしれないと、唇を噛みながら思う。

 彼がいる地獄は、苦しいけれども蜜のような地獄だ。

 言葉は横暴だけれど、大切にしてくれる。暴漢からは守ってくれるし、道に迷えば助けに来てくれる。優しい悪魔。

 朝ベッドで目覚めると、抱きしめていてくれる。付き合っていく上でなんの不満もなくて、これから先、よそ見をせずに彼のそばにいる限り結構幸せでいられるとも思う。

 たとえ愛はなくて、ただの執着だとしても。
 贅沢過ぎる幸せといえるのかもしれない。と、杏香は思う。

 たとえば彼が自分に飽きたときがきたとして、それがたとえば十年後とか三十年後とかで、もう新しい恋が難しいっていう年頃だったとしても、万が一子どもができたとしても、彼は光源氏のように、関係を持った女性の面倒は見てくれると思う。そういうところは責任感がある人だから。

 結婚はできないというだけで彼は彼なりに必要としてくれる。それだけでも十分なんじゃない? なにが不満なの?

 ぽつぽつと歩きながら、杏香はそう自分に問いかけた。

 でも、彼はいずれ他の人と結婚するんだよ?

 そう考えた途端に辛くなる。巨大な漬物石でも抱えたように、動けなくなるほど心が重たくなった。まるで悪霊でも背負っているかのように、冷え込んで、禍々しくどす黒い気持ちが、お腹の奥のほうから湧いてくる。

 やっぱり嫌だ。誰かと分け合わなきゃいけない愛なら、最初からない方がましではないか。

 別れようと決意した理由もそこにあった。

 なかなか切れない縁に心は揺らぐが、どんなに悩んだところで辿り着く先は変わらないのだ。何度も何度も考えて、いつもここで躓く。

 嫌なものは嫌だ。――専務。私そんなの嫌なの絶対! 嫉妬せずにはいられないの。

 だから――。よし。本気でいこう。向こうがその気なら、こっちだって打つ手がないわけじゃない。

 颯天の不敵な笑みを思い浮かべ、杏香もまた負けない気持ち燃えたぎらせてフフフと笑った。
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