高司専務の憂鬱 (完)

白亜凛

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◆将を射んと欲せば

秘書のお仕事 11

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 ***
 
「はぁ」
 マフラーの上から杏香が吐いた息が白く漂い消えていく。

 今日になって、菊乃から実は高司家から派遣されていたのだと知らされた。
 社内には彼女以外にも高司家と直接繋がりのある人が、どうやら数人いるらしい。皆、社内に潜む悪を炙り出しているという。

 あらためて高司家の凄さを思い知ったと同時に、感動もした。いかにもおとなしそうな菊乃が合気道の黒帯とは、人は見かけによらないものである。
 一瞬ではあったが、杏香の前に立ちはだかったときの機敏な動きはいつもとは別人で、まるでアクションスターのようだった。

(私も合気道とか習おうかな)

 颯天と菊乃に守ってばかりで情けない。心身共にもっと強くなりたいと、つらつらと考えながら歩いていた帰り道、ふと大きなクリスマスツリーが目にとまり、杏香は立ち止まった。

 慌ただしい日々を送るうち、いつの間にか迎えていた年末の師走。クリスマスももうすぐだ。

 ツリーを見つめても、それほど心は苦しくはない。一年前クリスマスを前に彼の態度に傷ついた痛みも、すっかり和らいでいる。

 それもこれも今回の事件のせいだ。

 謎の男たちから助けてくれたとき、颯天は必死な形相で心配していた。

『こうなることは予想できたのに、ごめんな、怖かったな』
 車の中で彼にしっかりと抱きしめられて、心からホッとしたしうれしかった。いわゆる吊り橋効果かもしれないが、思い出してただけで激しく心が震える。

 彼は本当に頼もしくて素敵だった。まさにヒーロー。あの瞬間の彼は光り輝く王子さまだった。

『頼むから俺のマンションにいてくれ』

 目がハートになっていたときに、そんなふうに優しく言われたら当然断れないし、一週間彼のマンションで暮らしたのも仕方がないと思っている。

 青井光葉は男たちが現れた日以来ずっと会社を休んでいるが、このまま退職するらしい。
 表向きは家庭の事情となっている。

 颯天から昨日見せられたのは、杏香宛の謝罪文と、二度と近づかないという念書。
 あの男たちと彼女がどんなふうに係わっていたのか、彼は細かく説明せず、ただ『もう大丈夫だ。あの女は日本にいない。安心していい』と微笑んだ。

 菊乃に聞いた話では、青井光葉は母親と一緒にカナダに行き、すでに日本にはいないそうだ。彼女の父親はすべてを知ったショックから、近々銀行を辞めるという。

 そして杏香は予定通り、彼のマンションを出た。
 ずっといたらいいじゃないかという彼の誘いを、残っていた理性を総動員して振り切ったのである。

『専務と秘書なんですからだめです』
『そうか?』

『そうですよ。公私混同していたら、社員の信用を失いますよ?』

 言わなくたってわかるだろうに、どういうつもりなのか。彼は肩をすくめて笑うだけ。

 どうして私の存在を隠そうとしないのかと、杏香の胸は疼いて仕方がない。

 男たちに襲われそうになった件は、何人かの社員も見ているが、夜だったこともあり襲われたのが杏香だとは気づかれていない。ただ高司専務が駆け寄って女性を庇ったという話だけが駆け回り、すっかり彼はヒーローになっている。

 それはまあいいとして、『杏香!』と叫んだ声まで聞かれていたら、庇った女性が秘書の樋口杏香だとバレていただろう。

 まるでふたりの関係を公認にしてもかまわないかのような彼の行動はなんなのか。イチカ食品の令嬢にも青井光葉にも、俺には彼女がいると宣言されたような気がしてしまうのだ。

 そんなはずはない。頭のいい彼にはなにか考えがあってそうしているに違いなく、自分は単なる当て馬に過ぎないとわかっているのに、彼のマンションを出るには勇気がいった。

 最後の最後に濃密な夜を過ごしてしまった。
 ぐちゃぐちゃに絡み合った、おそらくは今まで最高に濃い夜。

 一週間も抱き合って寝たのにキスしかしないという我慢に、彼に元気になってほしくて、なにをされても受け入れる我慢。
 きっと耐え過ぎたのだ。おかげで爆発してしまったに違いない。とめどなく溢れる愛情のまま彼を求め続けてしまった。

 いっそ毎晩でもヤッておけば一週間のうちに飽きたかも? などと不埒な考えが過ぎる。今更だけれど。

 理性だけでは振り切れなかったと思う。
 自分の部屋に帰れたのは、彼は今日、一泊で名古屋に出かけたからだ。

 そうじゃなければ、ずっと彼の部屋に居続けた。
 出張がなければ、きっと……。

 彼を忘れる自信がない。
 勘違いしちゃいけないとわかっている。助けてもらったのをいいことに、いつまでも引きずってはいけないのに。

 まずい。これはもう本当によくない状況だと重いため息を吐いたとき、ふいに風が吹き抜けた。

 冷たい風が心の中まで入り込んでくるような気がして、杏香はマフラーを巻きなおす。

 さあ自分の部屋に帰ろう。

 どんなに素敵でも、夢は所詮ただの夢なのだ。そう思いながら。
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