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◆将を射んと欲せば
秘書のお仕事 7
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顔を上げた颯天はフッと微笑み、うなずいた。
薄い笑みだけれど表情は柔らかい。
『杏ちゃん以外の人にはニコリともしないじゃない』
菊乃が言っていた言葉を思い出し、首筋あたりがこそばゆくなる。
あまり彼を見ないようにしているから、菊乃の言葉が本当かどうかはわからない。
(きっとお世辞よ)
かわいそうだと思って慰めてくれたのだと、ひとり納得しコーヒーメーカーの前に立った。
杏香の席の並びにローボードがあり、坂元の執務室にあったコーヒーメーカーも引っ越しを済ませていた。引き出しを開けてみると、コーヒー豆とミネラルウォーター、そして使い捨てのカップも置いてある。
「自分の分も淹れたらいい。飲みたいときに勝手に使っていいぞ」
「はい。ありがとうございます」
これならば給湯室で青井光葉に合わないで済む。咄嗟にそう思いホッとした。
けれども、そもそもの話、颯天直属の秘書にならなければ彼女に目をつけられずに済んだのだ。それ以前に異動がなければ――。
(専務が反対しないからよ。もう)
ついさっきの同情も忘れ、杏香は咥内でブツブツと文句を言う。
青井光葉は秘書課の女王様だ。
気が向いた仕事しかせず、ほかの仕事は立場の弱い新人に押しつける。誰も反論しない理由は、目を付けられたら最後という彼女の異常性にあるらしい。
彼女が秘書課に入社して以来辞めていった数人の社員が、密かに残していった言葉が秘書課には受け継がれていた。
『青井光葉には絶対に絶対に逆らうな』
これまでは時折鋭く睨まれるだけだったが、これから先はわからない。今日の席の移動をきっかけに変わるに違いないだろう。
(ロックオンされただろうなぁ)
結局のところ一番安心なのはこの部屋だ。
菊乃に言われた通り秘書課女性用のロッカーも使わないようにして、なるべく部屋から出ないようにするしかないかもしれない。
ため息混じりにあれこれ考えるうち、コーヒーのいい香りがふわりと立ちのぼってきた。
トレイにカップを載せて颯天の席に向かう。
デスクの隅に静かにカップを置くと、「ありがとう」という言葉の後に立ち上がった颯天は、自分の席に戻ろうとする杏香に「ちょっと待って」と声をかけた。
なんだろうと訝しげな顔で緊張する杏香の前に立った彼は、花の形のブローチを見せる。
「今後の必需品」
マーガレットのような花とそこからちょっとだけ下に伸びている茎と葉細かい宝石が散りばめられている可愛らしいブローチだ。
「これは万が一の時にお前を守ってくれる大切な物だ。もし、危険な目にあったり俺に知らせたいことがあったらここ、この花びらを押すんだぞ」
そう言って少し屈みこみ、杏香のスーツの襟に花の形のブローチをつけた。
危険な目とは……。
まさか光葉の〝異常〟を想定しているわけではないだろうと思うが、緊張して聞いてみた。
「防犯ブザーなんですか?」
「似ているが、ちょっと違う。これ自体はブザーのような音もならないし、見た目にも変化はない。ただ、居場所と状況が俺のスマートフォンに通知されるようになっている。カメラもついていて下の茎のところを横にずらすと録画される」
「――録画?」
「そうだ。相手が女でも、油断はするなよ。青井には特に」
颯天の目は真剣だ。
(青井さ、ん?)
具体的に名前を出すとなると彼は知っているのか。
「大丈夫だ。あくまで万が一の場合の保険だ。心配しなくていい。必ず俺が守る。だが、家に帰るまで、必ずつけておくんだぞ」
「はい……」
「よく似合ってる。お前は柔らかい色がよく似合うな」
颯天がにっこりと微笑む。
カフェラテのような色のスーツにオフホワイトのブラウス。今日は早速、彼が送ってきた服を着ていた。
「あ、ありがとう、ございます」
自分の席に座る颯天を見つめながら杏香は唇を噛んだ。
『必ず俺が守る』
そう言われた一瞬で、心を持っていかれた気がした。
おまけに突然褒められて動揺を隠せない。赤らむ頬を隠すように頭をさげ、そそくさと席に戻る。
颯天が買ってくれた服を着て、心配してもらって、こんなに近くの席に座って。
そのすべてがうれしくて幸せだと感じてしまう。胸がじんわりと温かいが、これでいいとは思えず、気持ちは複雑に揺れる。
会うようになってから一年の間。彼と会うときはプライベートに限られていた。会社ではあくまでも専務取締役と総務の平社員で、どこかですれ違えばほかの社員と同じように挨拶をする。
それが今は逆だ。会社では一緒で、プライベートでは他人という関係である。
必ず辞めるつもりでいるが、そのときまで自分はこの状況に耐えられるのだろうかと、杏香はあらためて不安になった。
ふと、耐えられるってなににと、自分に問いかけようとして、慌ててストップをかけた。
考えてはいけない熱いものが、マグマのように胸の奥に隠れているような気がして落ち着かず、杏香は瞳を揺らす。
薄い笑みだけれど表情は柔らかい。
『杏ちゃん以外の人にはニコリともしないじゃない』
菊乃が言っていた言葉を思い出し、首筋あたりがこそばゆくなる。
あまり彼を見ないようにしているから、菊乃の言葉が本当かどうかはわからない。
(きっとお世辞よ)
かわいそうだと思って慰めてくれたのだと、ひとり納得しコーヒーメーカーの前に立った。
杏香の席の並びにローボードがあり、坂元の執務室にあったコーヒーメーカーも引っ越しを済ませていた。引き出しを開けてみると、コーヒー豆とミネラルウォーター、そして使い捨てのカップも置いてある。
「自分の分も淹れたらいい。飲みたいときに勝手に使っていいぞ」
「はい。ありがとうございます」
これならば給湯室で青井光葉に合わないで済む。咄嗟にそう思いホッとした。
けれども、そもそもの話、颯天直属の秘書にならなければ彼女に目をつけられずに済んだのだ。それ以前に異動がなければ――。
(専務が反対しないからよ。もう)
ついさっきの同情も忘れ、杏香は咥内でブツブツと文句を言う。
青井光葉は秘書課の女王様だ。
気が向いた仕事しかせず、ほかの仕事は立場の弱い新人に押しつける。誰も反論しない理由は、目を付けられたら最後という彼女の異常性にあるらしい。
彼女が秘書課に入社して以来辞めていった数人の社員が、密かに残していった言葉が秘書課には受け継がれていた。
『青井光葉には絶対に絶対に逆らうな』
これまでは時折鋭く睨まれるだけだったが、これから先はわからない。今日の席の移動をきっかけに変わるに違いないだろう。
(ロックオンされただろうなぁ)
結局のところ一番安心なのはこの部屋だ。
菊乃に言われた通り秘書課女性用のロッカーも使わないようにして、なるべく部屋から出ないようにするしかないかもしれない。
ため息混じりにあれこれ考えるうち、コーヒーのいい香りがふわりと立ちのぼってきた。
トレイにカップを載せて颯天の席に向かう。
デスクの隅に静かにカップを置くと、「ありがとう」という言葉の後に立ち上がった颯天は、自分の席に戻ろうとする杏香に「ちょっと待って」と声をかけた。
なんだろうと訝しげな顔で緊張する杏香の前に立った彼は、花の形のブローチを見せる。
「今後の必需品」
マーガレットのような花とそこからちょっとだけ下に伸びている茎と葉細かい宝石が散りばめられている可愛らしいブローチだ。
「これは万が一の時にお前を守ってくれる大切な物だ。もし、危険な目にあったり俺に知らせたいことがあったらここ、この花びらを押すんだぞ」
そう言って少し屈みこみ、杏香のスーツの襟に花の形のブローチをつけた。
危険な目とは……。
まさか光葉の〝異常〟を想定しているわけではないだろうと思うが、緊張して聞いてみた。
「防犯ブザーなんですか?」
「似ているが、ちょっと違う。これ自体はブザーのような音もならないし、見た目にも変化はない。ただ、居場所と状況が俺のスマートフォンに通知されるようになっている。カメラもついていて下の茎のところを横にずらすと録画される」
「――録画?」
「そうだ。相手が女でも、油断はするなよ。青井には特に」
颯天の目は真剣だ。
(青井さ、ん?)
具体的に名前を出すとなると彼は知っているのか。
「大丈夫だ。あくまで万が一の場合の保険だ。心配しなくていい。必ず俺が守る。だが、家に帰るまで、必ずつけておくんだぞ」
「はい……」
「よく似合ってる。お前は柔らかい色がよく似合うな」
颯天がにっこりと微笑む。
カフェラテのような色のスーツにオフホワイトのブラウス。今日は早速、彼が送ってきた服を着ていた。
「あ、ありがとう、ございます」
自分の席に座る颯天を見つめながら杏香は唇を噛んだ。
『必ず俺が守る』
そう言われた一瞬で、心を持っていかれた気がした。
おまけに突然褒められて動揺を隠せない。赤らむ頬を隠すように頭をさげ、そそくさと席に戻る。
颯天が買ってくれた服を着て、心配してもらって、こんなに近くの席に座って。
そのすべてがうれしくて幸せだと感じてしまう。胸がじんわりと温かいが、これでいいとは思えず、気持ちは複雑に揺れる。
会うようになってから一年の間。彼と会うときはプライベートに限られていた。会社ではあくまでも専務取締役と総務の平社員で、どこかですれ違えばほかの社員と同じように挨拶をする。
それが今は逆だ。会社では一緒で、プライベートでは他人という関係である。
必ず辞めるつもりでいるが、そのときまで自分はこの状況に耐えられるのだろうかと、杏香はあらためて不安になった。
ふと、耐えられるってなににと、自分に問いかけようとして、慌ててストップをかけた。
考えてはいけない熱いものが、マグマのように胸の奥に隠れているような気がして落ち着かず、杏香は瞳を揺らす。
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