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◆将を射んと欲せば
秘書のお仕事 1
しおりを挟む秘書課に異動して一週間が経った。
廊下から総務課を覗いた杏香は、由美の背中を見つけ、にっこりと笑みを浮かべる。
「由美先輩、書類お届けに来ました」
「おお、秘書課の樋口さんじゃないのー」
あははとふたりで笑い合う。杏香の方は苦笑いだが。
「どう、秘書課は? 虐められたらすぐに報告するのよ」
「はい。ありがとうございます」
杏香が座っていたデスクには派遣社員の女性がいる。さらにもうひとり派遣社員が入ったので、業務は滞りなく進んでいるようだ。少し寂しいが、変わらずに自分を気にかけてくれる先輩の存在はうれしい。
「まぁでもよかったわ。秘書課に貴重な窓口ができたようなものだもの」
「いつでも呼びつけてくださいね。喜んで取りに行きますから」
「おおー、頼もしいー」
総務課を離れ、エレベーターに乗る杏香の頬に暗い影はない。
なにしろ休み明けに突然告げられた異動話だ。大好きな総務を離れる悲しさと、まだ見ぬ秘書課に対する不安。さらには、颯天がなにを考えているのかがわからないという心配もあって八方塞がりな気分だった。
だが、それらは杞憂に終わりそうだ。
秘書課に戻ると早速声をかけられた。
「杏香ちゃん。坂元取締役が、手が空いた時でいいから来てほしいって」
「はーい。ありがとう」
優しい笑顔で声をかけてくれたのは、杏香のように今年経理から秘書課に異動した菊乃だ。なにかと気にかけてくれる心強い存在である。
和やかな総務課と違って、秘書課はいつも張り詰めた緊張感に満ちている。ピリピリとした空気の中で慣れない仕事をするのは気苦労が絶えないが、テキパキと仕事をこなすうちやりがいも生まれてきた。
一番気がかりだったのは颯天だったが、仕事を指示されたら秘書室の自分の席に持ち帰って仕事をするという、他の秘書たちと変わらない勤務である。
そもそも高司専務専属というわけではなく、坂元取締役の仕事がメインだ。颯天の仕事をするときは彼の担当秘書でもある都築課長から指示を受ける手筈になっているので、日によっては一度も颯天と顔を合わせなかったりする。
考えてみれば、いつだって仕事には真剣な彼が、よこしまな理由で自分を秘書にするはずがないのだ。
自分の思い過ごしだったと、杏香は納得していた。
「失礼します」
杏香が書類を届けに来たとき、坂元はコーヒーメーカーの前にいて、マシーンが機械的なミルの音を響かせていた。
杏香が総務課にいた頃には無かったはずのコーヒーメーカーが、いつの間にか増えていて、『皆さんの手を煩わせずに、好きな時に好きなコーヒーを飲みたいのでね』という理由はいかにも気遣いの人、坂元らしかった。
「ちょうどいい。お忙しくなければどうですか? ご一緒に」
彼はそう言って、どうぞとソファーに向かって手を差し伸べる。
代わりに私が入れますと言いたいところだが、コーヒーメーカーの使い方がわからない。
「すみません」と深く頭をさげて、杏香はソファーに腰を沈めた。
「どうですか? 秘書課は慣れましたか?」
「はい。おかげさまで」
「どうぞ」
テーブルの上に坂元がコーヒーが入った紙カップを置く。
音を立てずに置くその鮮やかな仕草さに感嘆しながら、杏香はペコリと頭を下げた。
「ありがとうございます」
早速口にしたコーヒーは、いい香りがして美味しかった。
豆がいいのか、機械がいいのか。おそらくどのどちらも良いものなのだろうが、専門店で飲むように美味しい。
「とっても美味しいコーヒーですね」
「ああ、これは〝彼〟御用達のものですからね」
言いながら坂元は隣の部屋を軽く指さして、ほかの秘書さんには内緒ですよとクスッと笑った。
「ここで出してくれるコーヒーが、実はどうにも気に入らないらしくて」
「そうでしたか」
「ですから時々、ここに飲みに来ます。多分そろそろ……」
え? っと思ったちょうどそのとき、軽いノックと共に扉が開いた。
噂をすればなんとやら。顔を出したのは颯天だ。
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