43 / 95
◆悪魔の嫌がらせ
逃げる羊、追いかける狼 3
しおりを挟む
いつも明るく笑っている彼女になにがあったのかと、颯天にしては珍しく興味を抱いた。
『片想いだった相手の恋の応援をするつらさがわかりますか?』
『さっぱりわからない』
『もうー、専務には恋心がないんですか?! 鬼っ』
適当に流していたが、キャンキャン仔犬のように騒ぐ様子も一生懸命訴えて絡む仕草も、少しも不快じゃなくて、なんとなく突き放せなかった。
いつの間にか、するりと心に入り込んできた彼女……。
(なぁ、杏香。なんで別れようなんて思ったんだ?)
ひと月の空白まど忘れるたように、素直に甘えてくる杏香を抱きながら、湧いてきたのは疑問と確信。お前が俺を忘れるなんて、できやしないのに。
『そんなに俺が嫌いか?』
今にも泣き出しそうに潤んだ瞳で、『キライです』と恨めしそうに言いながら、しがみついてくる杏香を見下ろした。
薄く微笑んで顎をすくい、何度も唇を重ねた。
杏香の好きな触れるだけの軽いキス。じれったいくらいにゆっくりと繰り返しながら、潜んでいたあいつの熱が甘い吐息となった頃を見計らって、しばらく消えないよう強く吸い上げた痕を胸に残した。
「会社を休んで、なにをしているんだ?」
モニターに映る樋口杏香という文字を見つめながらひとりごち、いったいなにを?と重ねて考えたとき、扉がノックされた。
「はい」
「失礼します」
入ってきたのは秘書の青井光葉。扉の開閉で動いた空気が、光葉が放つ甘い香りを部屋の最奥まで運ぶ。ピクリと眉を潜めた颯天は、ため息をつきながら軽く目を閉じた。
コツコツと尖ったヒールの音が、一歩一歩と近づいてくる。
「専務、明日三時からのお約束だった澤井さまですが、突然体調を崩されて入院なさったとの連絡がありました。いかがいたしましょう」
「現時点でわかっていることは?」
入院先や病名など報告する光葉は、薄っすらと笑みを浮かべて颯天を見つめている。
ここTKT工業で一番の美人だと噂される彼女は、秘書課の社員であり、大手銀行の次期頭取と噂されている人物の娘だ。物心ついたときからお姫さまのようにもてはやされていたのだろう。靴音や仕草、表情ひとつまで、溢れるほどの自信を漲らせている。
だが心の貧しさはどうしようもないなと颯天は思う。
報告している内容が内容なのに、相手に対する憂いや気遣いのようなものは心に浮かばないらしい。彼女から感じるのは『どうですか? 私、綺麗でしょう?』という自己顕示欲だけだ。
呆れ過ぎてうっかり笑いそうになる。
仕立てのいいグレーのスーツはいいとして、見てくれといわんばかりにシャツの襟を深く開けて、胸もとを大きく見せるのはなんなのか。それほど自慢ならヌードモデルにでもなればいいのだ。ついでに言えばまったく興味はないが。
光葉を前にする度に思う。お前が見ているのは、俺じゃなくて、俺の目に映る自分の姿だよな、と。
「私になにか、できることはありますでしょうか?」
「いや? ――なにもない」
心外だと言わんばかりのため息をつく光葉から視線を外し、受話器を取る。
光葉が出ていき扉が閉まるのと電話の相手、秘書課長が『はい』と出るのは同時だった。颯天は澤井氏の見舞いが可能か確認するよう頼み、電話を切ると椅子の背もたれに背中を預け、響き渡るような大きなため息をついた。
青井光葉の父親に恩を売っておけと父から言われている。
『向こうはお前との結婚を望んでいる』
銀行との付き合いが大切なのは重々承知しているが、我慢にも限度がある。
光葉の匂いも醸し出すお嬢様オーラもなにもかも、颯天は我慢ならなかった。たとえ嫌悪する相手でも仕事ができるなら評価したいと思うが、彼女は受けた仕事を別の秘書にやらせている。おまけに特技は後輩いびりとなれば、譲歩する理由もない。
光葉の悪い評判はすべて颯天の耳に入っていた。
光葉の放った匂いを一刻も早く消し去りたい衝動に駆られ、立ち上がりデスク脇にある空気清浄機を強にする。
香水の強い女はそれだけで苦手だった。颯天自身は香水を使わない。整髪剤や風呂上がりに使うローションも香りの弱いものにしている。
同じ女性でも、杏香の匂いは数少ない好きな香りだ。彼女から漂うのは、香水の強い香りでもない。
『ん?』
『今、なにか気にしてましたよね?』
『ああ――。いや、いい匂いがするなぁと思って』
彼女の首のあたりに顔を埋めると、なんとも表現しがたい蜜のような香りが鼻腔を蕩かすのである。
香水はつけていないと言いながら、くすぐったいと体をくねらせて、くすくすと笑う。そのかわいい声を包みこむように唇を重ねた。
『杏香……』
溜まらなく愛おしい想いが溢れてくる。
どうしようもないという諦めに似たため息が、音もなく漂い、また自分に降りかかってくる。
杏香の瞳に映るのは自分の姿ではなく俺だ。いや、俺のはずだった。と、口もとに苦笑を浮かべた颯天は「ははっ」っと乾いた笑い声あげた。
思い出させようとして、ひと月前に引き戻されたのは、自分の方だったのか。
ビル街を見下ろしたまましばらく考え込んだ颯天は、デスクに戻り内線ボタンを押した。
電話を切ってから数分後、扉がノックされ「失礼します」と入ってきたのは総務部部長である。
いずれにしても計画通りにことを進めるまでだ。
「急で申し訳ないが頼みがある。ひとり、秘書課に異動させたい」
『片想いだった相手の恋の応援をするつらさがわかりますか?』
『さっぱりわからない』
『もうー、専務には恋心がないんですか?! 鬼っ』
適当に流していたが、キャンキャン仔犬のように騒ぐ様子も一生懸命訴えて絡む仕草も、少しも不快じゃなくて、なんとなく突き放せなかった。
いつの間にか、するりと心に入り込んできた彼女……。
(なぁ、杏香。なんで別れようなんて思ったんだ?)
ひと月の空白まど忘れるたように、素直に甘えてくる杏香を抱きながら、湧いてきたのは疑問と確信。お前が俺を忘れるなんて、できやしないのに。
『そんなに俺が嫌いか?』
今にも泣き出しそうに潤んだ瞳で、『キライです』と恨めしそうに言いながら、しがみついてくる杏香を見下ろした。
薄く微笑んで顎をすくい、何度も唇を重ねた。
杏香の好きな触れるだけの軽いキス。じれったいくらいにゆっくりと繰り返しながら、潜んでいたあいつの熱が甘い吐息となった頃を見計らって、しばらく消えないよう強く吸い上げた痕を胸に残した。
「会社を休んで、なにをしているんだ?」
モニターに映る樋口杏香という文字を見つめながらひとりごち、いったいなにを?と重ねて考えたとき、扉がノックされた。
「はい」
「失礼します」
入ってきたのは秘書の青井光葉。扉の開閉で動いた空気が、光葉が放つ甘い香りを部屋の最奥まで運ぶ。ピクリと眉を潜めた颯天は、ため息をつきながら軽く目を閉じた。
コツコツと尖ったヒールの音が、一歩一歩と近づいてくる。
「専務、明日三時からのお約束だった澤井さまですが、突然体調を崩されて入院なさったとの連絡がありました。いかがいたしましょう」
「現時点でわかっていることは?」
入院先や病名など報告する光葉は、薄っすらと笑みを浮かべて颯天を見つめている。
ここTKT工業で一番の美人だと噂される彼女は、秘書課の社員であり、大手銀行の次期頭取と噂されている人物の娘だ。物心ついたときからお姫さまのようにもてはやされていたのだろう。靴音や仕草、表情ひとつまで、溢れるほどの自信を漲らせている。
だが心の貧しさはどうしようもないなと颯天は思う。
報告している内容が内容なのに、相手に対する憂いや気遣いのようなものは心に浮かばないらしい。彼女から感じるのは『どうですか? 私、綺麗でしょう?』という自己顕示欲だけだ。
呆れ過ぎてうっかり笑いそうになる。
仕立てのいいグレーのスーツはいいとして、見てくれといわんばかりにシャツの襟を深く開けて、胸もとを大きく見せるのはなんなのか。それほど自慢ならヌードモデルにでもなればいいのだ。ついでに言えばまったく興味はないが。
光葉を前にする度に思う。お前が見ているのは、俺じゃなくて、俺の目に映る自分の姿だよな、と。
「私になにか、できることはありますでしょうか?」
「いや? ――なにもない」
心外だと言わんばかりのため息をつく光葉から視線を外し、受話器を取る。
光葉が出ていき扉が閉まるのと電話の相手、秘書課長が『はい』と出るのは同時だった。颯天は澤井氏の見舞いが可能か確認するよう頼み、電話を切ると椅子の背もたれに背中を預け、響き渡るような大きなため息をついた。
青井光葉の父親に恩を売っておけと父から言われている。
『向こうはお前との結婚を望んでいる』
銀行との付き合いが大切なのは重々承知しているが、我慢にも限度がある。
光葉の匂いも醸し出すお嬢様オーラもなにもかも、颯天は我慢ならなかった。たとえ嫌悪する相手でも仕事ができるなら評価したいと思うが、彼女は受けた仕事を別の秘書にやらせている。おまけに特技は後輩いびりとなれば、譲歩する理由もない。
光葉の悪い評判はすべて颯天の耳に入っていた。
光葉の放った匂いを一刻も早く消し去りたい衝動に駆られ、立ち上がりデスク脇にある空気清浄機を強にする。
香水の強い女はそれだけで苦手だった。颯天自身は香水を使わない。整髪剤や風呂上がりに使うローションも香りの弱いものにしている。
同じ女性でも、杏香の匂いは数少ない好きな香りだ。彼女から漂うのは、香水の強い香りでもない。
『ん?』
『今、なにか気にしてましたよね?』
『ああ――。いや、いい匂いがするなぁと思って』
彼女の首のあたりに顔を埋めると、なんとも表現しがたい蜜のような香りが鼻腔を蕩かすのである。
香水はつけていないと言いながら、くすぐったいと体をくねらせて、くすくすと笑う。そのかわいい声を包みこむように唇を重ねた。
『杏香……』
溜まらなく愛おしい想いが溢れてくる。
どうしようもないという諦めに似たため息が、音もなく漂い、また自分に降りかかってくる。
杏香の瞳に映るのは自分の姿ではなく俺だ。いや、俺のはずだった。と、口もとに苦笑を浮かべた颯天は「ははっ」っと乾いた笑い声あげた。
思い出させようとして、ひと月前に引き戻されたのは、自分の方だったのか。
ビル街を見下ろしたまましばらく考え込んだ颯天は、デスクに戻り内線ボタンを押した。
電話を切ってから数分後、扉がノックされ「失礼します」と入ってきたのは総務部部長である。
いずれにしても計画通りにことを進めるまでだ。
「急で申し訳ないが頼みがある。ひとり、秘書課に異動させたい」
38
お気に入りに追加
616
あなたにおすすめの小説
隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛
冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
軽はずみで切ない嘘の果て。【完結】
橘
恋愛
※注意※ 以前公開していた同名小説とは、設定、内容が変更されている点がございます。
私は、10年片思いをした人と結婚する。軽はずみで切ない嘘をついて――。
長い長い片思いのせいで、交際経験ゼロの29歳、柏原柚季。
地味で内気な性格から、もう新しい恋愛も結婚も諦めつつあった。
そんなとき、初めて知った彼の苦悩。
衝動のままに“結婚“を提案していた。
それは、本当の恋の苦しみを知る始まりだった。
*・゜゜・*:.。..。.:*・*:.。. .。.:*・゜゜・*
わたしの愉快な旦那さん
川上桃園
恋愛
あまりの辛さにブラックすぎるバイトをやめた。最後塩まかれたけど気にしない。
あ、そういえばこの店入ったことなかったな、入ってみよう。
「何かお探しですか」
その店はなんでも取り扱うという。噂によると彼氏も紹介してくれるらしい。でもそんなのいらない。彼氏だったらすぐに離れてしまうかもしれないのだから。
店員のお兄さんを前にてんぱった私は。
「旦那さんが欲しいです……」
と、斜め上の回答をしてしまった。でもお兄さんは優しい。
「どんな旦那さんをお望みですか」
「え、えっと……愉快な、旦那さん?」
そしてお兄さんは自分を指差した。
「僕が、お客様のお探しの『愉快な旦那さん』ですよ」
そこから始まる恋のお話です。大学生女子と社会人男子(御曹司)。ほのぼのとした日常恋愛もの
一晩だけの禁断の恋のはずが憧れの御曹司に溺愛されてます
冬野まゆ
恋愛
建築設計事務所でデザイナーとして働く二十七歳の莉子。仕事中は女を捨て、機能性重視の服装と無難なメイクで完全武装をしているけれど、普段の好みはその真逆。それを偶然、憧れの建築家・加賀弘樹に知られてしまう。しかし彼は、女を捨てるのは勿体ないと魅力的な男の顔で彼女を口説いてきて? 強烈に女を意識させる甘い誘惑に、莉子は愛妻家という噂を承知で「一晩だけ」彼と過ごす。けれど翌日、罪悪感から逃げ出した莉子を、弘樹はあの手この手で甘やかし、まさかの猛アプローチ!? 「俺の好きにしていいと言ったのは、君だ」ワケアリ御曹司に甘く攻め落とされる、極上ラブストーリー!
俺様系和服社長の家庭教師になりました。
蝶野ともえ
恋愛
一葉 翠(いつは すい)は、とある高級ブランドの店員。
ある日、常連である和服のイケメン社長に接客を指名されてしまう。
冷泉 色 (れいぜん しき) 高級和食店や呉服屋を国内に展開する大手企業の社長。普段は人当たりが良いが、オフや自分の会社に戻ると一気に俺様になる。
「君に一目惚れした。バックではなく、おまえ自身と取引をさせろ。」
それから気づくと色の家庭教師になることに!?
期間限定の生徒と先生の関係から、お互いに気持ちが変わっていって、、、
俺様社長に翻弄される日々がスタートした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる