高司専務の憂鬱 (完)

白亜凛

文字の大きさ
上 下
42 / 95
◆悪魔の嫌がらせ

逃げる羊、追いかける狼 2

しおりを挟む
 電話を切った颯天は、うんざりしたように舌を打つ。

 あとふたつ。
 相手が誰なのかは検討がついている。だが、そのどちらも一筋縄ではいきそうもない。

 ますます渋顔になった彼はコーヒーカップに手を伸ばした。

 喉を伝う冷めたコーヒーは微かな苦味を感じるだけだったが、それでもいくらか気分転換になったらしい。
 ホッとため息をつき、金曜の夕方を思い返す。

(杏香のやつ……)

 うたた寝から起きた杏香は、最初こそ寝てしまった自分に驚いているようだったが、目覚めるに従って表情の端に不満を浮かべ始めた。
 なにか言いたいが、なにから言ったらいいのかわからない。多分そんな感じだったのだろう。軽く口を開けたり閉じたりしていたが気づかないふりをした。

『とりあえず食べよう。話はそれからだ』

 テーブルに並んだのは、颯天が食べたいとリクエストしたビーフシチューのほかに、エビとブロッコリーのスープにサーモンの入ったサラダ。見た途端に食欲が湧いた。

 しばらく忘れていた感覚だった。

 いつの間にか、皿の上のなにを見てもどれを食べてもなにも感じず、ただ口を動かして飲み込んでいるだけの食事になっていたんだろう。

『美味いな』

 自然とそんな言葉が出て、杏香はちょっと照れたようにキュッと口を結び、頬を赤く染めていた。

 少しだけならいいだろう?と飲ませたワインは、杏香がこれなら飲めるとわかっていた甘いワイン。甘くないビターなチョコレートケーキを選んだのは、ワインに合わせた。

 酔ったら泊まればいい。

『明日は休みだろう? 別に襲ったりしないから安心しろよ』

 怒らせるつもりで言ったわけじゃないのに、杏香はぷりぷりと怒り出した。

『そんなのわかってます!』

 ちょっと怒ったときの杏香はやたらとかわいい。
 生意気にも眉をひそめてきりきりと睨んでくるが、こっちは笑いをこらえるのが大変だ。

 なだめながら、一緒にいた男が何者なのかを聞くと、杏香は男から渡されたという名刺をバッグから取り出して、俺の胸もとに突出した。

『ほらっ、変な人じゃないしー、ちゃんとした人だしー』

 加島誠一郎、某大学の助教授。

 男の情報を記憶して、あとはただ久しぶりに杏香を愛おしんだ。


 一年前、失恋して自暴自棄になった杏香は酔って絡んできた。

 彼女の名前までは知らなかったが顔は覚えていた。あのときから半年ほど前か、廊下で立ち話をしていたときに落とした書類を拾ってくれた女性。それが杏香だ。

『ああ、ありがとう』
『いえ』
 屈託のない笑顔でにっこり微笑んで、そのまま行ってしまった。
 彼女はたまたま通りかかり、目の前に書類が落ちてきて拾った。それだけだが、なんとなく心に残った。

 その後も、ときどき見かけた。大体いつも笑っていて、とても楽しそうだった。

 営業の男どもが彼女の噂をしているのを聞いたこともある。
『あの子かわいいよな。でも飲み会には絶対に来ないんだって』
『へえ、残念。男がいるのか』
 その中には志水もいた。

 杏香は知らないが、志水にはよからぬ噂がある。
 営業は派遣社員が数人いるが、志水は短期の派遣社員ばかり狙ったようにつまみ食いをしているというのだ。派遣先での揉め事は自分に不利になると、彼女たちは口を閉ざす。そこにつけ込んだのか。
 志水は営業マンとしての評判は悪くないが、仕事はできても女にだらしない男は信用できない。

 ことの真相はわからないが、杏香に迫っていたときのあの強引さは噂を裏付けるものだった。

 忌々しげに眉をひそめた颯天はコーヒーを口にして気を取り直し、再び出会う前の杏香を思い出す。

 総務での評判はよく、人事部長が杏香のデータを差し出し『あと一年ほど様子を見て、秘書課へ異動を考えている女性社員がいます』と言っていた。

 とはいえ俺たちに接点はない。日々の仕事に追われて記憶の片隅に追いやっていたが――。

 あの夜の帰りも遅く、通りがかった路地でレストランバーを見つけ、食事がてら少し飲もうと立ち寄った。そこに彼女がいたのだ。
 
しおりを挟む
感想 24

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

野獣御曹司から執着溺愛されちゃいました

鳴宮鶉子
恋愛
野獣御曹司から執着溺愛されちゃいました

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

一夜の過ちで懐妊したら、溺愛が始まりました。

青花美来
恋愛
あの日、バーで出会ったのは勤務先の会社の副社長だった。 その肩書きに恐れをなして逃げた朝。 もう関わらない。そう決めたのに。 それから一ヶ月後。 「鮎原さん、ですよね?」 「……鮎原さん。お腹の赤ちゃん、産んでくれませんか」 「僕と、結婚してくれませんか」 あの一夜から、溺愛が始まりました。

元彼にハメ婚させられちゃいました

鳴宮鶉子
恋愛
元彼にハメ婚させられちゃいました

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

溺愛社長の欲求からは逃れられない

鳴宮鶉子
恋愛
溺愛社長の欲求からは逃れられない

処理中です...