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◆悪魔の嫌がらせ
逃げる羊、追いかける狼 2
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電話を切った颯天は、うんざりしたように舌を打つ。
あとふたつ。
相手が誰なのかは検討がついている。だが、そのどちらも一筋縄ではいきそうもない。
ますます渋顔になった彼はコーヒーカップに手を伸ばした。
喉を伝う冷めたコーヒーは微かな苦味を感じるだけだったが、それでもいくらか気分転換になったらしい。
ホッとため息をつき、金曜の夕方を思い返す。
(杏香のやつ……)
うたた寝から起きた杏香は、最初こそ寝てしまった自分に驚いているようだったが、目覚めるに従って表情の端に不満を浮かべ始めた。
なにか言いたいが、なにから言ったらいいのかわからない。多分そんな感じだったのだろう。軽く口を開けたり閉じたりしていたが気づかないふりをした。
『とりあえず食べよう。話はそれからだ』
テーブルに並んだのは、颯天が食べたいとリクエストしたビーフシチューのほかに、エビとブロッコリーのスープにサーモンの入ったサラダ。見た途端に食欲が湧いた。
しばらく忘れていた感覚だった。
いつの間にか、皿の上のなにを見てもどれを食べてもなにも感じず、ただ口を動かして飲み込んでいるだけの食事になっていたんだろう。
『美味いな』
自然とそんな言葉が出て、杏香はちょっと照れたようにキュッと口を結び、頬を赤く染めていた。
少しだけならいいだろう?と飲ませたワインは、杏香がこれなら飲めるとわかっていた甘いワイン。甘くないビターなチョコレートケーキを選んだのは、ワインに合わせた。
酔ったら泊まればいい。
『明日は休みだろう? 別に襲ったりしないから安心しろよ』
怒らせるつもりで言ったわけじゃないのに、杏香はぷりぷりと怒り出した。
『そんなのわかってます!』
ちょっと怒ったときの杏香はやたらとかわいい。
生意気にも眉をひそめてきりきりと睨んでくるが、こっちは笑いをこらえるのが大変だ。
なだめながら、一緒にいた男が何者なのかを聞くと、杏香は男から渡されたという名刺をバッグから取り出して、俺の胸もとに突出した。
『ほらっ、変な人じゃないしー、ちゃんとした人だしー』
加島誠一郎、某大学の助教授。
男の情報を記憶して、あとはただ久しぶりに杏香を愛おしんだ。
一年前、失恋して自暴自棄になった杏香は酔って絡んできた。
彼女の名前までは知らなかったが顔は覚えていた。あのときから半年ほど前か、廊下で立ち話をしていたときに落とした書類を拾ってくれた女性。それが杏香だ。
『ああ、ありがとう』
『いえ』
屈託のない笑顔でにっこり微笑んで、そのまま行ってしまった。
彼女はたまたま通りかかり、目の前に書類が落ちてきて拾った。それだけだが、なんとなく心に残った。
その後も、ときどき見かけた。大体いつも笑っていて、とても楽しそうだった。
営業の男どもが彼女の噂をしているのを聞いたこともある。
『あの子かわいいよな。でも飲み会には絶対に来ないんだって』
『へえ、残念。男がいるのか』
その中には志水もいた。
杏香は知らないが、志水にはよからぬ噂がある。
営業は派遣社員が数人いるが、志水は短期の派遣社員ばかり狙ったようにつまみ食いをしているというのだ。派遣先での揉め事は自分に不利になると、彼女たちは口を閉ざす。そこにつけ込んだのか。
志水は営業マンとしての評判は悪くないが、仕事はできても女にだらしない男は信用できない。
ことの真相はわからないが、杏香に迫っていたときのあの強引さは噂を裏付けるものだった。
忌々しげに眉をひそめた颯天はコーヒーを口にして気を取り直し、再び出会う前の杏香を思い出す。
総務での評判はよく、人事部長が杏香のデータを差し出し『あと一年ほど様子を見て、秘書課へ異動を考えている女性社員がいます』と言っていた。
とはいえ俺たちに接点はない。日々の仕事に追われて記憶の片隅に追いやっていたが――。
あの夜の帰りも遅く、通りがかった路地でレストランバーを見つけ、食事がてら少し飲もうと立ち寄った。そこに彼女がいたのだ。
あとふたつ。
相手が誰なのかは検討がついている。だが、そのどちらも一筋縄ではいきそうもない。
ますます渋顔になった彼はコーヒーカップに手を伸ばした。
喉を伝う冷めたコーヒーは微かな苦味を感じるだけだったが、それでもいくらか気分転換になったらしい。
ホッとため息をつき、金曜の夕方を思い返す。
(杏香のやつ……)
うたた寝から起きた杏香は、最初こそ寝てしまった自分に驚いているようだったが、目覚めるに従って表情の端に不満を浮かべ始めた。
なにか言いたいが、なにから言ったらいいのかわからない。多分そんな感じだったのだろう。軽く口を開けたり閉じたりしていたが気づかないふりをした。
『とりあえず食べよう。話はそれからだ』
テーブルに並んだのは、颯天が食べたいとリクエストしたビーフシチューのほかに、エビとブロッコリーのスープにサーモンの入ったサラダ。見た途端に食欲が湧いた。
しばらく忘れていた感覚だった。
いつの間にか、皿の上のなにを見てもどれを食べてもなにも感じず、ただ口を動かして飲み込んでいるだけの食事になっていたんだろう。
『美味いな』
自然とそんな言葉が出て、杏香はちょっと照れたようにキュッと口を結び、頬を赤く染めていた。
少しだけならいいだろう?と飲ませたワインは、杏香がこれなら飲めるとわかっていた甘いワイン。甘くないビターなチョコレートケーキを選んだのは、ワインに合わせた。
酔ったら泊まればいい。
『明日は休みだろう? 別に襲ったりしないから安心しろよ』
怒らせるつもりで言ったわけじゃないのに、杏香はぷりぷりと怒り出した。
『そんなのわかってます!』
ちょっと怒ったときの杏香はやたらとかわいい。
生意気にも眉をひそめてきりきりと睨んでくるが、こっちは笑いをこらえるのが大変だ。
なだめながら、一緒にいた男が何者なのかを聞くと、杏香は男から渡されたという名刺をバッグから取り出して、俺の胸もとに突出した。
『ほらっ、変な人じゃないしー、ちゃんとした人だしー』
加島誠一郎、某大学の助教授。
男の情報を記憶して、あとはただ久しぶりに杏香を愛おしんだ。
一年前、失恋して自暴自棄になった杏香は酔って絡んできた。
彼女の名前までは知らなかったが顔は覚えていた。あのときから半年ほど前か、廊下で立ち話をしていたときに落とした書類を拾ってくれた女性。それが杏香だ。
『ああ、ありがとう』
『いえ』
屈託のない笑顔でにっこり微笑んで、そのまま行ってしまった。
彼女はたまたま通りかかり、目の前に書類が落ちてきて拾った。それだけだが、なんとなく心に残った。
その後も、ときどき見かけた。大体いつも笑っていて、とても楽しそうだった。
営業の男どもが彼女の噂をしているのを聞いたこともある。
『あの子かわいいよな。でも飲み会には絶対に来ないんだって』
『へえ、残念。男がいるのか』
その中には志水もいた。
杏香は知らないが、志水にはよからぬ噂がある。
営業は派遣社員が数人いるが、志水は短期の派遣社員ばかり狙ったようにつまみ食いをしているというのだ。派遣先での揉め事は自分に不利になると、彼女たちは口を閉ざす。そこにつけ込んだのか。
志水は営業マンとしての評判は悪くないが、仕事はできても女にだらしない男は信用できない。
ことの真相はわからないが、杏香に迫っていたときのあの強引さは噂を裏付けるものだった。
忌々しげに眉をひそめた颯天はコーヒーを口にして気を取り直し、再び出会う前の杏香を思い出す。
総務での評判はよく、人事部長が杏香のデータを差し出し『あと一年ほど様子を見て、秘書課へ異動を考えている女性社員がいます』と言っていた。
とはいえ俺たちに接点はない。日々の仕事に追われて記憶の片隅に追いやっていたが――。
あの夜の帰りも遅く、通りがかった路地でレストランバーを見つけ、食事がてら少し飲もうと立ち寄った。そこに彼女がいたのだ。
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