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◆悪魔の嫌がらせ
思い出のレストランバー 4
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でも行ってみたら忘れ物なんてなかった。
『忘れ物は、俺へのお返し。今度は望みを聞く番だ。飯に付き合え』
ルームサービスの豪華なディナーが、テーブルいっぱいに並んだ。
確かメインは大きなロブスターが入っているブイヤベースだったと思う。それはそれは美味しそうな魚介とハーブの香りがして、うっとりとしているところに彼はワインボトルを差し出した。
『少しだけなら大丈夫だろ?』
もしベッドに誘われたらはっきり断るつもりでいたのに会話は普通で、颯天がどうしてホテル暮らしをしているかなんて話をしながら食べて、恐る恐る舐めるように少しずつワインを飲んだ。
今でこそグラスワイン一杯だけならそれほど酔わないが、あの頃の杏香は本当に弱かった。注意深く口にしていたはずが、いつの間にか滑らかになった舌で、言いたい放題の酔っ払いに仕上がっていた。
『可哀そうに。専務、食事に付き合ってくれる人もいないんですか?』
『どうしていつも眉間に皺寄せて怖い顔しているんですか?』
対して颯天は、杏香の失礼な発言をさほど気にする様子もなく、
『それっぽっちで、よくそんなに酔えるなぁ』
呆れるだけで、怒ったりはしなかった。
帰り際の、『じゃあな。たまに付き合えよ』とか、確かそんな感じの、ちょっとそこまでという気軽な調子のキス。
それはなんだかやたら気の利いた素敵な手土産みたいで、嫌だと思った記憶はどこを探してもない。
ホテルの前では彼が手配した黒塗りの車が待っていて、白い手袋をした運転手がマンションまで送ってくれた。
それからしばらくしてまた誘われて、また酔った。
『毎日こんな贅沢ばっかりしていたら、庶民感覚のわからない経営者になって、世の中から浮きまくっちゃいますよ?』
マンションで杏香が夕食を作るようになったきっかけも酔った勢い。
『食事なら私が作るのに。私が庶民の味を教えてあげますよ』
そう宣言したからだ。
誘われるのは金曜の夜が多くて、明日は休みだからとかそんな気の緩みから泊まるようにもなった。
結局キス以外なにもなかったのは、二回目に会ったときだけ。無理強いされたわけでもない。万が一に備えて替えの下着をバッグに忍ばせていたのだから、むしろどこかで期待すらしていたのだと思う。
あるとき口座に、彼の名前で結構な額のお金が振り込まれていた。
『食材と手間賃だ受け取っておけ』
愛人のお手当のようだと思わなくもなかったが、実際彼のために高級食材をふんだんに用意するためにも助かった。
会うたびに現金で渡されるより気持ちは楽で、今思うと、それも彼の気遣いではなかったか?
週に二度三度と彼に会うのが楽しくて、クリスマス前に突き放されたあの日まで、ふたりの未来は見ないようにしていた。
耳に心地よいバリトンボイスで『杏香』って名前を囁かれるのがとても好きだったし、心が雫を垂らしながら蕩けていくような、あの甘いキスが本当に好きだった。
未来なんてなくてもよかった。
薄いレース越しに見る夜明けのように、ぼんやりとしたままでよかったんだ。
手を伸ばしても届かない太陽の光とか、掬おうとしても指から零れる星の砂みたいに、掴めそうな実態なんてなくても、そういう夢みたいな二人の時間があるだけで十分幸せだったから……。
「おさげしてよろしいですか?」
「あ、はい。お願いします」
数々の想い出を引き取るようにマスターの手が伸びてきて、空になったシチューの皿をさげていく。
代わりに置かれたのは、こんがりと焼き色のついたリコッタチーズのケーキ。この小さなデザートでディナーは終わり。
杏香はしみじみと思う。
終わりにしなきゃ、自分も。
あの会社にいたら、彼を忘れられるはずがない……。彼の声を聞いたら、甘いくちづけをしてしまったら、今度こそもう二度と離れられない。
本気で別れたいならもっと離れないと。遠くへ。別の世界へ行かなければ。
そんなことを思いながら、神妙な面持ちで杏香はフォークを手に取った。
『忘れ物は、俺へのお返し。今度は望みを聞く番だ。飯に付き合え』
ルームサービスの豪華なディナーが、テーブルいっぱいに並んだ。
確かメインは大きなロブスターが入っているブイヤベースだったと思う。それはそれは美味しそうな魚介とハーブの香りがして、うっとりとしているところに彼はワインボトルを差し出した。
『少しだけなら大丈夫だろ?』
もしベッドに誘われたらはっきり断るつもりでいたのに会話は普通で、颯天がどうしてホテル暮らしをしているかなんて話をしながら食べて、恐る恐る舐めるように少しずつワインを飲んだ。
今でこそグラスワイン一杯だけならそれほど酔わないが、あの頃の杏香は本当に弱かった。注意深く口にしていたはずが、いつの間にか滑らかになった舌で、言いたい放題の酔っ払いに仕上がっていた。
『可哀そうに。専務、食事に付き合ってくれる人もいないんですか?』
『どうしていつも眉間に皺寄せて怖い顔しているんですか?』
対して颯天は、杏香の失礼な発言をさほど気にする様子もなく、
『それっぽっちで、よくそんなに酔えるなぁ』
呆れるだけで、怒ったりはしなかった。
帰り際の、『じゃあな。たまに付き合えよ』とか、確かそんな感じの、ちょっとそこまでという気軽な調子のキス。
それはなんだかやたら気の利いた素敵な手土産みたいで、嫌だと思った記憶はどこを探してもない。
ホテルの前では彼が手配した黒塗りの車が待っていて、白い手袋をした運転手がマンションまで送ってくれた。
それからしばらくしてまた誘われて、また酔った。
『毎日こんな贅沢ばっかりしていたら、庶民感覚のわからない経営者になって、世の中から浮きまくっちゃいますよ?』
マンションで杏香が夕食を作るようになったきっかけも酔った勢い。
『食事なら私が作るのに。私が庶民の味を教えてあげますよ』
そう宣言したからだ。
誘われるのは金曜の夜が多くて、明日は休みだからとかそんな気の緩みから泊まるようにもなった。
結局キス以外なにもなかったのは、二回目に会ったときだけ。無理強いされたわけでもない。万が一に備えて替えの下着をバッグに忍ばせていたのだから、むしろどこかで期待すらしていたのだと思う。
あるとき口座に、彼の名前で結構な額のお金が振り込まれていた。
『食材と手間賃だ受け取っておけ』
愛人のお手当のようだと思わなくもなかったが、実際彼のために高級食材をふんだんに用意するためにも助かった。
会うたびに現金で渡されるより気持ちは楽で、今思うと、それも彼の気遣いではなかったか?
週に二度三度と彼に会うのが楽しくて、クリスマス前に突き放されたあの日まで、ふたりの未来は見ないようにしていた。
耳に心地よいバリトンボイスで『杏香』って名前を囁かれるのがとても好きだったし、心が雫を垂らしながら蕩けていくような、あの甘いキスが本当に好きだった。
未来なんてなくてもよかった。
薄いレース越しに見る夜明けのように、ぼんやりとしたままでよかったんだ。
手を伸ばしても届かない太陽の光とか、掬おうとしても指から零れる星の砂みたいに、掴めそうな実態なんてなくても、そういう夢みたいな二人の時間があるだけで十分幸せだったから……。
「おさげしてよろしいですか?」
「あ、はい。お願いします」
数々の想い出を引き取るようにマスターの手が伸びてきて、空になったシチューの皿をさげていく。
代わりに置かれたのは、こんがりと焼き色のついたリコッタチーズのケーキ。この小さなデザートでディナーは終わり。
杏香はしみじみと思う。
終わりにしなきゃ、自分も。
あの会社にいたら、彼を忘れられるはずがない……。彼の声を聞いたら、甘いくちづけをしてしまったら、今度こそもう二度と離れられない。
本気で別れたいならもっと離れないと。遠くへ。別の世界へ行かなければ。
そんなことを思いながら、神妙な面持ちで杏香はフォークを手に取った。
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