38 / 95
◆悪魔の嫌がらせ
思い出のレストランバー 3
しおりを挟む
カランカランと真鍮のドアベルの音が響く。
「いらっしゃいませ」
マスターは変わらぬ小さな微笑みを向ける。
一年前のあの日は酔って絡んだ杏香の話し相手になってくれたが、基本的にマスターは無口だ。
あの後お詫びを言いにきたけれど、「さて、なんのことでしょう」とさらりと流してくれた。無口でも無愛想とは違って、ふんわりと包み込んでくれるような優しい人である。
久しぶりに来た今夜も、マスターは特に話しかけてくるわけでもなく、店の雰囲気も変わらない。酔うにはまだ早い時間ゆえに、店内はひとり客が数人いるだけで静かだ。
カウンターの一番奥に座っている女性との間に二席開けて腰を下ろした杏香は、メニューを見ずに、いつものように本日のディナーセットを注文する。
料理を待ちながらなにも考えず、静かに流れるクラシックに耳を傾ける至福のとき。目を閉じてゆっくり息を吐くと、心の中で荒んでいた波が凪いでいく。
ふとデミグラスソースの香りに気づき目を開けた。
あらためてメニューを手に取ると、メインメニューは偶然にもビーフシチューだった。
よりによってビーフシチューを頼まなくていいのにと苦笑したが、実際出てきたシチューは杏香が作るそれとはまったくの別物で、大きな牛タンの塊がひとつ。ほかに見える具はマッシュルームだけ。生クリームが肉の頂上から流れ落ちている。
薄くカットされたバケットでシチューを掬うようにして口に入れると、口の中いっぱいに幸せが広って、一体どうしたらこんなに美味しいソースになるのだろうとため息が出る。
颯天は杏香が作る普通のビーフシチューを、多分だが気に入ってくれている。
でもデミグラスソースは自分では作れない。赤ワインやブイヨンを使ったりもするが、所詮は市販のソースを素にして作ったものだ。
考えてみれば、彼は普段からこんなふうに特別な料理を食べ慣れているだろう。
なのに肥えた舌で、杏香が作る普通の料理も残さずに食べてくれた。しかも、この前は彼の口から『美味しい』という言葉を初めて聞いた。
彼の優しさだったのだろうか。
俺様で世の中は自分を中心に回っていると思っていそうだし、好きとも愛しているとも言わないくせに、俺の女とか言い出す酷い人だが、暴言を吐かれことはない。
強いて言えば杏香の都合なんて無視で、『今夜は早く帰れそうだ』と自分の意見を当然のように通すが、それで不満があったかと言えば、実はそうでもなかった。
忙しい人なのだから当然だと思っていたし、会えるのは純粋にうれしかった。彼の都合だろうがなんだろうがどうでもいいのだ。
嫌いだから別れたわけじゃない……。
「はぁ」
ああ、なんでこんなことになってしまったのだろうと、ため息が出る。
酔ってこの店で彼に絡んだあの夜は、未来の自分がこんなふうに悩むなんて夢にも思っていなかった。
たった一度だけのつもりだったのだから。
そもそも、なぜ二度目があったのだろうかと、杏香はワインを口にしながら記憶の扉をノックした。
この店で会ったあの日、ホテルに行ったのが一回目。
二度目は……。そうだ。エレベーターで偶然会い、忘れ物があるぞって言われたんだった。
「いらっしゃいませ」
マスターは変わらぬ小さな微笑みを向ける。
一年前のあの日は酔って絡んだ杏香の話し相手になってくれたが、基本的にマスターは無口だ。
あの後お詫びを言いにきたけれど、「さて、なんのことでしょう」とさらりと流してくれた。無口でも無愛想とは違って、ふんわりと包み込んでくれるような優しい人である。
久しぶりに来た今夜も、マスターは特に話しかけてくるわけでもなく、店の雰囲気も変わらない。酔うにはまだ早い時間ゆえに、店内はひとり客が数人いるだけで静かだ。
カウンターの一番奥に座っている女性との間に二席開けて腰を下ろした杏香は、メニューを見ずに、いつものように本日のディナーセットを注文する。
料理を待ちながらなにも考えず、静かに流れるクラシックに耳を傾ける至福のとき。目を閉じてゆっくり息を吐くと、心の中で荒んでいた波が凪いでいく。
ふとデミグラスソースの香りに気づき目を開けた。
あらためてメニューを手に取ると、メインメニューは偶然にもビーフシチューだった。
よりによってビーフシチューを頼まなくていいのにと苦笑したが、実際出てきたシチューは杏香が作るそれとはまったくの別物で、大きな牛タンの塊がひとつ。ほかに見える具はマッシュルームだけ。生クリームが肉の頂上から流れ落ちている。
薄くカットされたバケットでシチューを掬うようにして口に入れると、口の中いっぱいに幸せが広って、一体どうしたらこんなに美味しいソースになるのだろうとため息が出る。
颯天は杏香が作る普通のビーフシチューを、多分だが気に入ってくれている。
でもデミグラスソースは自分では作れない。赤ワインやブイヨンを使ったりもするが、所詮は市販のソースを素にして作ったものだ。
考えてみれば、彼は普段からこんなふうに特別な料理を食べ慣れているだろう。
なのに肥えた舌で、杏香が作る普通の料理も残さずに食べてくれた。しかも、この前は彼の口から『美味しい』という言葉を初めて聞いた。
彼の優しさだったのだろうか。
俺様で世の中は自分を中心に回っていると思っていそうだし、好きとも愛しているとも言わないくせに、俺の女とか言い出す酷い人だが、暴言を吐かれことはない。
強いて言えば杏香の都合なんて無視で、『今夜は早く帰れそうだ』と自分の意見を当然のように通すが、それで不満があったかと言えば、実はそうでもなかった。
忙しい人なのだから当然だと思っていたし、会えるのは純粋にうれしかった。彼の都合だろうがなんだろうがどうでもいいのだ。
嫌いだから別れたわけじゃない……。
「はぁ」
ああ、なんでこんなことになってしまったのだろうと、ため息が出る。
酔ってこの店で彼に絡んだあの夜は、未来の自分がこんなふうに悩むなんて夢にも思っていなかった。
たった一度だけのつもりだったのだから。
そもそも、なぜ二度目があったのだろうかと、杏香はワインを口にしながら記憶の扉をノックした。
この店で会ったあの日、ホテルに行ったのが一回目。
二度目は……。そうだ。エレベーターで偶然会い、忘れ物があるぞって言われたんだった。
36
お気に入りに追加
620
あなたにおすすめの小説
隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛
冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!
契約妻ですが極甘御曹司の執愛に溺れそうです
冬野まゆ
恋愛
経営難に陥った実家の酒造を救うため、最悪の縁談を受けてしまったOLの千春。そんな彼女を助けてくれたのは、密かに思いを寄せていた大企業の御曹司・涼弥だった。結婚に関する面倒事を避けたい彼から、援助と引き換えの契約結婚を提案された千春は、藁にも縋る思いでそれを了承する。しかし旧知の仲とはいえ、本来なら結ばれるはずのない雲の上の人。たとえ愛されなくても彼の良き妻になろうと決意する千春だったが……「可愛い千春。もっと俺のことだけ考えて」いざ始まった新婚生活は至れり尽くせりの溺愛の日々で!? 拗らせ両片思い夫婦の、じれじれすれ違いラブ!
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
初恋の呪縛
泉南佳那
恋愛
久保朱利(くぼ あかり)27歳 アパレルメーカーのプランナー
×
都築 匡(つづき きょう)27歳 デザイナー
ふたりは同じ専門学校の出身。
現在も同じアパレルメーカーで働いている。
朱利と都築は男女を超えた親友同士。
回りだけでなく、本人たちもそう思っていた。
いや、思いこもうとしていた。
互いに本心を隠して。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~
菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。
だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。
車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。
あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。

決して飼いならされたりしませんが~年下御曹司の恋人(仮)になります~
北館由麻
恋愛
アラサーOLの笑佳は敬愛する上司のもとで着々とキャリアを積んでいた。
ある日、本社からやって来たイケメン年下御曹司、響也が支社長代理となり、彼の仕事をサポートすることになったが、ひょんなことから笑佳は彼に弱みを握られ、頼みをきくと約束してしまう。
それは彼の恋人(仮)になること――!?
クズ男との恋愛に懲りた過去から、もう恋をしないと決めていた笑佳に年下御曹司の恋人(仮)は務まるのか……。
そして契約彼女を夜な夜な甘やかす年下御曹司の思惑とは……!?
甘過ぎるオフィスで塩過ぎる彼と・・・
希花 紀歩
恋愛
24時間二人きりで甘~い💕お仕事!?
『膝の上に座って。』『悪いけど仕事の為だから。』
小さな翻訳会社でアシスタント兼翻訳チェッカーとして働く風永 唯仁子(かざなが ゆにこ)(26)は頼まれると断れない性格。
ある日社長から、急ぎの翻訳案件の為に翻訳者と同じ家に缶詰になり作業を進めるように命令される。気が進まないものの、この案件を無事仕上げることが出来れば憧れていた翻訳コーディネーターになれると言われ、頑張ろうと心を決める。
しかし翻訳者・若泉 透葵(わかいずみ とき)(28)は美青年で優秀な翻訳者であるが何を考えているのかわからない。
彼のベッドが置かれた部屋で二人きりで甘い恋愛シミュレーションゲームの翻訳を進めるが、透葵は翻訳の参考にする為と言って、唯仁子にあれやこれやのスキンシップをしてきて・・・!?
過去の恋愛のトラウマから仕事関係の人と恋愛関係になりたくない唯仁子と、恋愛はくだらないものだと思っている透葵だったが・・・。
*導入部分は説明部分が多く退屈かもしれませんが、この物語に必要な部分なので、こらえて読み進めて頂けると有り難いです。
<表紙イラスト>
男女:わかめサロンパス様
背景:アート宇都宮様
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる