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◆悪魔の嫌がらせ
思い出のレストランバー 3
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カランカランと真鍮のドアベルの音が響く。
「いらっしゃいませ」
マスターは変わらぬ小さな微笑みを向ける。
一年前のあの日は酔って絡んだ杏香の話し相手になってくれたが、基本的にマスターは無口だ。
あの後お詫びを言いにきたけれど、「さて、なんのことでしょう」とさらりと流してくれた。無口でも無愛想とは違って、ふんわりと包み込んでくれるような優しい人である。
久しぶりに来た今夜も、マスターは特に話しかけてくるわけでもなく、店の雰囲気も変わらない。酔うにはまだ早い時間ゆえに、店内はひとり客が数人いるだけで静かだ。
カウンターの一番奥に座っている女性との間に二席開けて腰を下ろした杏香は、メニューを見ずに、いつものように本日のディナーセットを注文する。
料理を待ちながらなにも考えず、静かに流れるクラシックに耳を傾ける至福のとき。目を閉じてゆっくり息を吐くと、心の中で荒んでいた波が凪いでいく。
ふとデミグラスソースの香りに気づき目を開けた。
あらためてメニューを手に取ると、メインメニューは偶然にもビーフシチューだった。
よりによってビーフシチューを頼まなくていいのにと苦笑したが、実際出てきたシチューは杏香が作るそれとはまったくの別物で、大きな牛タンの塊がひとつ。ほかに見える具はマッシュルームだけ。生クリームが肉の頂上から流れ落ちている。
薄くカットされたバケットでシチューを掬うようにして口に入れると、口の中いっぱいに幸せが広って、一体どうしたらこんなに美味しいソースになるのだろうとため息が出る。
颯天は杏香が作る普通のビーフシチューを、多分だが気に入ってくれている。
でもデミグラスソースは自分では作れない。赤ワインやブイヨンを使ったりもするが、所詮は市販のソースを素にして作ったものだ。
考えてみれば、彼は普段からこんなふうに特別な料理を食べ慣れているだろう。
なのに肥えた舌で、杏香が作る普通の料理も残さずに食べてくれた。しかも、この前は彼の口から『美味しい』という言葉を初めて聞いた。
彼の優しさだったのだろうか。
俺様で世の中は自分を中心に回っていると思っていそうだし、好きとも愛しているとも言わないくせに、俺の女とか言い出す酷い人だが、暴言を吐かれことはない。
強いて言えば杏香の都合なんて無視で、『今夜は早く帰れそうだ』と自分の意見を当然のように通すが、それで不満があったかと言えば、実はそうでもなかった。
忙しい人なのだから当然だと思っていたし、会えるのは純粋にうれしかった。彼の都合だろうがなんだろうがどうでもいいのだ。
嫌いだから別れたわけじゃない……。
「はぁ」
ああ、なんでこんなことになってしまったのだろうと、ため息が出る。
酔ってこの店で彼に絡んだあの夜は、未来の自分がこんなふうに悩むなんて夢にも思っていなかった。
たった一度だけのつもりだったのだから。
そもそも、なぜ二度目があったのだろうかと、杏香はワインを口にしながら記憶の扉をノックした。
この店で会ったあの日、ホテルに行ったのが一回目。
二度目は……。そうだ。エレベーターで偶然会い、忘れ物があるぞって言われたんだった。
「いらっしゃいませ」
マスターは変わらぬ小さな微笑みを向ける。
一年前のあの日は酔って絡んだ杏香の話し相手になってくれたが、基本的にマスターは無口だ。
あの後お詫びを言いにきたけれど、「さて、なんのことでしょう」とさらりと流してくれた。無口でも無愛想とは違って、ふんわりと包み込んでくれるような優しい人である。
久しぶりに来た今夜も、マスターは特に話しかけてくるわけでもなく、店の雰囲気も変わらない。酔うにはまだ早い時間ゆえに、店内はひとり客が数人いるだけで静かだ。
カウンターの一番奥に座っている女性との間に二席開けて腰を下ろした杏香は、メニューを見ずに、いつものように本日のディナーセットを注文する。
料理を待ちながらなにも考えず、静かに流れるクラシックに耳を傾ける至福のとき。目を閉じてゆっくり息を吐くと、心の中で荒んでいた波が凪いでいく。
ふとデミグラスソースの香りに気づき目を開けた。
あらためてメニューを手に取ると、メインメニューは偶然にもビーフシチューだった。
よりによってビーフシチューを頼まなくていいのにと苦笑したが、実際出てきたシチューは杏香が作るそれとはまったくの別物で、大きな牛タンの塊がひとつ。ほかに見える具はマッシュルームだけ。生クリームが肉の頂上から流れ落ちている。
薄くカットされたバケットでシチューを掬うようにして口に入れると、口の中いっぱいに幸せが広って、一体どうしたらこんなに美味しいソースになるのだろうとため息が出る。
颯天は杏香が作る普通のビーフシチューを、多分だが気に入ってくれている。
でもデミグラスソースは自分では作れない。赤ワインやブイヨンを使ったりもするが、所詮は市販のソースを素にして作ったものだ。
考えてみれば、彼は普段からこんなふうに特別な料理を食べ慣れているだろう。
なのに肥えた舌で、杏香が作る普通の料理も残さずに食べてくれた。しかも、この前は彼の口から『美味しい』という言葉を初めて聞いた。
彼の優しさだったのだろうか。
俺様で世の中は自分を中心に回っていると思っていそうだし、好きとも愛しているとも言わないくせに、俺の女とか言い出す酷い人だが、暴言を吐かれことはない。
強いて言えば杏香の都合なんて無視で、『今夜は早く帰れそうだ』と自分の意見を当然のように通すが、それで不満があったかと言えば、実はそうでもなかった。
忙しい人なのだから当然だと思っていたし、会えるのは純粋にうれしかった。彼の都合だろうがなんだろうがどうでもいいのだ。
嫌いだから別れたわけじゃない……。
「はぁ」
ああ、なんでこんなことになってしまったのだろうと、ため息が出る。
酔ってこの店で彼に絡んだあの夜は、未来の自分がこんなふうに悩むなんて夢にも思っていなかった。
たった一度だけのつもりだったのだから。
そもそも、なぜ二度目があったのだろうかと、杏香はワインを口にしながら記憶の扉をノックした。
この店で会ったあの日、ホテルに行ったのが一回目。
二度目は……。そうだ。エレベーターで偶然会い、忘れ物があるぞって言われたんだった。
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