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◆悪魔の嫌がらせ
思い出のレストランバー 2
しおりを挟む「はぁー」
出勤するなり、ガックリと肩を落とした杏香は、パカパカと頭を叩いた。
「え、どうしたの? 体調でも悪い? 頭痛?」
心配して由美が椅子を寄せてきた。
「あっ、いえいえ大丈夫です。ただちょっと気が乗らないっていうか」
「月曜だしね。気温だって昨日と今日で十℃も違うんだもの。体調だっておかしくなるわよ」
由美はひとり納得して、カラカラと音を立てながら椅子ごと戻っていった。
そういえば昨日はとてもいい天気だった。
気温を感じるほどの余裕はなかったけれど、二日酔いの頭でぼんやりと窓から見上げた空は、眩しいほど青かったくらいは覚えている。
今日は曇り空だ。晴れるわけでもなく雨が降るわけでもなく、厚い雲はどんよりと重たそうで、まるで自分の心を覗いているようだと思う。
「ふぅ……」
やんなっちゃうなぁ、と、不貞腐れたように口をへの字に曲げる。
上昇気流に乗る鳥のように清々しい気持ちでいたはずだったのに。今はもう、水面で漂う枯れ葉のよう。沼深く、沈むのを待つばかりの朽ちた葉。クルクル回って落ちていったその先は、高司颯天へと吸い込まれていく底なしの沼……。
キスをしながら心が痺れるように震えて、泣きたくなった。というか実際に泣いた。泣けば涙を拭われて、キスされて、やっぱり好きだと思い知らされる。
彼を忘れるなんてできない。ましてや新しい恋人をつくるなんて無理だ。彼が近くにいる限り、絶対にできない。
(ああもう、どうしよう!)
真剣に転職先を探してみようかなと、杏香は本気で焦った。
心の奥にしまい込んだものが暴れている。せっかく厚い蓋をしたのに、自分自身で蓋を壊してしまいそうだ。
とにかくなんとかしなれば、本当にもとの木阿弥になってしまう。
転職するとしても時間はかかる。彼から離れる方法はと考えて閃いた。
(そうだ! まずは休もう。せめて数日でも離れよう)
思い立ったままの勢いで杏香は席を立ち倉井課長に申し出た。
「課長、急ですけど、水曜から金曜の三日間有給休暇取りますね。今日と明日、問題ないよう仕事をしておきます」
「え?えぇ、そっかぁ、そういえば樋口さん、有休取り足りないもんね。はい、わかりました」
総務部は全社員の勤務実態を把握して指導する役割がある。
そういう意味でも、有休休暇を取り足りていない杏香は仕事に都合がつく限り突然休んでも差し支えない。課長も快く許可をくれた。
前回休んだのは杏香の姉が上京したときで、その前は田舎の友人の結婚式で実家に帰ったときまで遡る。幸い健康には自信があるので急に熱を出す心配もなく、杏香の有給休暇には必ず明確な予定があった。
休みをとったはいいが、さてどうしようと悩み、由美に休む報告をしながら聞いてみた。
「お子さんがいる方は忙しいのはわかるんですけど。みんな有給休暇を消化できるほど、色々予定があるものなんですかねぇ?」
「真面目か」と突っ込みをいれ、由美は笑う。
「別に予定がなくても休むでしょ。家でのんびりしているとか、あてもなくウインドショッピングをするとか」
「そういうもんですか」
「そういうもんよ。樋口さんは、ほんと会社が好きなのね」
「え、私、会社が好きなんですか?」
「あはは、どう考えても好きでしょ。性格もあるだろうけど、仕事の愚痴も言わないしね。それに好きじゃなきゃ、隙あらば休もうとするわよ。私みたいに」
由美は、ペロリと舌を出す。
なるほど、考え込んでいると由美が顔を近づけて小声で言った。
「そういえば志水さんだけど、派遣の子と付き合っていたみたいよ」
杏香はハッとして目を見開いた。
色々あってすっかり忘れていたが、志水の異動については気掛かりなままだ。
「北海道転勤の志水さんですよね?」
「そうそう」
聞けば営業事務の派遣社員の女性と志水が廊下で痴話喧嘩をしていたらしい。
「急な異動で、動揺しちゃったのね。『私と結婚するって言ったじゃない!嘘つき!』ってね、掃除のおばちゃんが言ってたわ」
じゃあ、倉庫での『樋口さん。俺、君が好なんだ』は、なんだったのか?
女ったらしめ。
どいつもこいつも、男というのはこれだから困る、と顔をしかめる。
北海道から帰ってくるな、と、微かに疼いていた罪悪感は綺麗さっぱり消えたのだった。
一時間ほど残業し、見通しがついたところで杏香は帰宅の途についた。
(そっか。私は会社が好きなのか)
でも、TKT工業という会社が好きというよりも、総務の仕事が好きなのかもしれない。
営業事務の同期は総務は雑用が多いから嫌だと言うけれど、杏香はむしろ好きだった。備品管理のような細々とした仕事も文具の新作を知る機会にもなるし、ときには業務の手伝いに駆り出され、作る書類作成も多種多様に渡るのでソフトの使い方も自ずと身につく。
派手さはないけれど、広く社内を見渡せる総務は楽しい部署だと思う。
転職先も事務職にしようと決めた。休み中に求人雑誌でも色々見てみようと、つらつら思いながら自宅マンションの近くまで来たとき、ふいに路地裏に目が留まった。
一年と少し前、彼と出会ったレストランバーからオレンジ色の明かりが漏れている。
前回来たのは半年くらい前だろうか。彼と会うようになってからは足が遠のいていたがお気に入りの店である。
ふと原点回帰という言葉を思い出した。
もしかしたら、なにかが見えるかもしれない。
(久しぶりに寄ってみよう)
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