37 / 95
◆悪魔の嫌がらせ
思い出のレストランバー 2
しおりを挟む「はぁー」
出勤するなり、ガックリと肩を落とした杏香は、パカパカと頭を叩いた。
「え、どうしたの? 体調でも悪い? 頭痛?」
心配して由美が椅子を寄せてきた。
「あっ、いえいえ大丈夫です。ただちょっと気が乗らないっていうか」
「月曜だしね。気温だって昨日と今日で十℃も違うんだもの。体調だっておかしくなるわよ」
由美はひとり納得して、カラカラと音を立てながら椅子ごと戻っていった。
そういえば昨日はとてもいい天気だった。
気温を感じるほどの余裕はなかったけれど、二日酔いの頭でぼんやりと窓から見上げた空は、眩しいほど青かったくらいは覚えている。
今日は曇り空だ。晴れるわけでもなく雨が降るわけでもなく、厚い雲はどんよりと重たそうで、まるで自分の心を覗いているようだと思う。
「ふぅ……」
やんなっちゃうなぁ、と、不貞腐れたように口をへの字に曲げる。
上昇気流に乗る鳥のように清々しい気持ちでいたはずだったのに。今はもう、水面で漂う枯れ葉のよう。沼深く、沈むのを待つばかりの朽ちた葉。クルクル回って落ちていったその先は、高司颯天へと吸い込まれていく底なしの沼……。
キスをしながら心が痺れるように震えて、泣きたくなった。というか実際に泣いた。泣けば涙を拭われて、キスされて、やっぱり好きだと思い知らされる。
彼を忘れるなんてできない。ましてや新しい恋人をつくるなんて無理だ。彼が近くにいる限り、絶対にできない。
(ああもう、どうしよう!)
真剣に転職先を探してみようかなと、杏香は本気で焦った。
心の奥にしまい込んだものが暴れている。せっかく厚い蓋をしたのに、自分自身で蓋を壊してしまいそうだ。
とにかくなんとかしなれば、本当にもとの木阿弥になってしまう。
転職するとしても時間はかかる。彼から離れる方法はと考えて閃いた。
(そうだ! まずは休もう。せめて数日でも離れよう)
思い立ったままの勢いで杏香は席を立ち倉井課長に申し出た。
「課長、急ですけど、水曜から金曜の三日間有給休暇取りますね。今日と明日、問題ないよう仕事をしておきます」
「え?えぇ、そっかぁ、そういえば樋口さん、有休取り足りないもんね。はい、わかりました」
総務部は全社員の勤務実態を把握して指導する役割がある。
そういう意味でも、有休休暇を取り足りていない杏香は仕事に都合がつく限り突然休んでも差し支えない。課長も快く許可をくれた。
前回休んだのは杏香の姉が上京したときで、その前は田舎の友人の結婚式で実家に帰ったときまで遡る。幸い健康には自信があるので急に熱を出す心配もなく、杏香の有給休暇には必ず明確な予定があった。
休みをとったはいいが、さてどうしようと悩み、由美に休む報告をしながら聞いてみた。
「お子さんがいる方は忙しいのはわかるんですけど。みんな有給休暇を消化できるほど、色々予定があるものなんですかねぇ?」
「真面目か」と突っ込みをいれ、由美は笑う。
「別に予定がなくても休むでしょ。家でのんびりしているとか、あてもなくウインドショッピングをするとか」
「そういうもんですか」
「そういうもんよ。樋口さんは、ほんと会社が好きなのね」
「え、私、会社が好きなんですか?」
「あはは、どう考えても好きでしょ。性格もあるだろうけど、仕事の愚痴も言わないしね。それに好きじゃなきゃ、隙あらば休もうとするわよ。私みたいに」
由美は、ペロリと舌を出す。
なるほど、考え込んでいると由美が顔を近づけて小声で言った。
「そういえば志水さんだけど、派遣の子と付き合っていたみたいよ」
杏香はハッとして目を見開いた。
色々あってすっかり忘れていたが、志水の異動については気掛かりなままだ。
「北海道転勤の志水さんですよね?」
「そうそう」
聞けば営業事務の派遣社員の女性と志水が廊下で痴話喧嘩をしていたらしい。
「急な異動で、動揺しちゃったのね。『私と結婚するって言ったじゃない!嘘つき!』ってね、掃除のおばちゃんが言ってたわ」
じゃあ、倉庫での『樋口さん。俺、君が好なんだ』は、なんだったのか?
女ったらしめ。
どいつもこいつも、男というのはこれだから困る、と顔をしかめる。
北海道から帰ってくるな、と、微かに疼いていた罪悪感は綺麗さっぱり消えたのだった。
一時間ほど残業し、見通しがついたところで杏香は帰宅の途についた。
(そっか。私は会社が好きなのか)
でも、TKT工業という会社が好きというよりも、総務の仕事が好きなのかもしれない。
営業事務の同期は総務は雑用が多いから嫌だと言うけれど、杏香はむしろ好きだった。備品管理のような細々とした仕事も文具の新作を知る機会にもなるし、ときには業務の手伝いに駆り出され、作る書類作成も多種多様に渡るのでソフトの使い方も自ずと身につく。
派手さはないけれど、広く社内を見渡せる総務は楽しい部署だと思う。
転職先も事務職にしようと決めた。休み中に求人雑誌でも色々見てみようと、つらつら思いながら自宅マンションの近くまで来たとき、ふいに路地裏に目が留まった。
一年と少し前、彼と出会ったレストランバーからオレンジ色の明かりが漏れている。
前回来たのは半年くらい前だろうか。彼と会うようになってからは足が遠のいていたがお気に入りの店である。
ふと原点回帰という言葉を思い出した。
もしかしたら、なにかが見えるかもしれない。
(久しぶりに寄ってみよう)
38
お気に入りに追加
631
あなたにおすすめの小説
隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛
冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!
契約妻ですが極甘御曹司の執愛に溺れそうです
冬野まゆ
恋愛
経営難に陥った実家の酒造を救うため、最悪の縁談を受けてしまったOLの千春。そんな彼女を助けてくれたのは、密かに思いを寄せていた大企業の御曹司・涼弥だった。結婚に関する面倒事を避けたい彼から、援助と引き換えの契約結婚を提案された千春は、藁にも縋る思いでそれを了承する。しかし旧知の仲とはいえ、本来なら結ばれるはずのない雲の上の人。たとえ愛されなくても彼の良き妻になろうと決意する千春だったが……「可愛い千春。もっと俺のことだけ考えて」いざ始まった新婚生活は至れり尽くせりの溺愛の日々で!? 拗らせ両片思い夫婦の、じれじれすれ違いラブ!

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
カタブツ上司の溺愛本能
加地アヤメ
恋愛
社内一の美人と噂されながらも、性格は至って地味な二十八歳のOL・珠海。これまで、外国人の父に似た目立つ容姿のせいで、散々な目に遭ってきた彼女にとって、トラブルに直結しやすい恋愛は一番の面倒事。極力関わらず避けまくってきた結果、お付き合いはおろか結婚のけの字も見えないおひとり様生活を送っていた。ところがある日、難攻不落な上司・斎賀に恋をしてしまう。一筋縄ではいかない恋に頭を抱える珠海だけれど、破壊力たっぷりな無自覚アプローチが、クールな堅物イケメンの溺愛本能を刺激して……!? 愛さずにはいられない――甘きゅんオフィス・ラブ!
お酒の席でナンパした相手がまさかの婚約者でした 〜政略結婚のはずだけど、めちゃくちゃ溺愛されてます〜
Adria
恋愛
イタリアに留学し、そのまま就職して楽しい生活を送っていた私は、父からの婚約者を紹介するから帰国しろという言葉を無視し、友人と楽しくお酒を飲んでいた。けれど、そのお酒の場で出会った人はその婚約者で――しかも私を初恋だと言う。
結婚する気のない私と、私を好きすぎて追いかけてきたストーカー気味な彼。
ひょんなことから一緒にイタリアの各地を巡りながら、彼は私が幼少期から抱えていたものを解決してくれた。
気がついた時にはかけがえのない人になっていて――
表紙絵/灰田様
《エブリスタとムーンにも投稿しています》
お見合いから始まる冷徹社長からの甘い執愛 〜政略結婚なのに毎日熱烈に追いかけられてます〜
Adria
恋愛
仕事ばかりをしている娘の将来を案じた両親に泣かれて、うっかり頷いてしまった瑞希はお見合いに行かなければならなくなった。
渋々お見合いの席に行くと、そこにいたのは瑞希の勤め先の社長だった!?
合理的で無駄が嫌いという噂がある冷徹社長を前にして、瑞希は「冗談じゃない!」と、その場から逃亡――
だが、ひょんなことから彼に瑞希が自社の社員であることがバレてしまうと、彼は結婚前提の同棲を迫ってくる。
「君の未来をくれないか?」と求愛してくる彼の強引さに翻弄されながらも、瑞希は次第に溺れていき……
《エブリスタ、ムーン、ベリカフェにも投稿しています》

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる