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◆新しい恋をしましょう
社外恋愛の罠 12
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預かった鍵を差し込みカチャっと音を立て、恐る恐るマンションの玄関扉を開ける。
靴はない。彼はまだ帰っていないようだ。
ひとまずホッとして、「しつれいしまーす」と、儀礼的に声をかけながら、杏香は玄関に入った。
空間を贅沢に使っている玄関のタタキには猫足のスツールがひとつ。ブーツを脱いだり履いたりするのに便利なのよねと、ちょっと懐かしく思いながら、スツールが置いてる方とは反対側の端に、脱いだ靴を揃える。
勝手知ったる他人の家、下駄箱からふかふかのスリッパを取り出して、廊下の壁に飾られている絵は変わっていないと見届けながら奥へと進み、突き当りの扉を開けた。
入って左にダイニングキッチン。右はリビングで、その奥は寝室へと続く。ゆったり広々とした間取りの部屋には、モデルルームのように洗練された家具が鎮座している。
なにもかも杏香のよく知るラグジュアリーな彼のマンションそのままで、見たところひとつとして変わっていなかった。
ダイニングの椅子に荷物を置き、コートをハンガーラックに掛け、振り返って見渡しながらふと思う。
なんとなく、人のぬくもりのようなものがないような気がする。
もとから閑散とした雰囲気の部屋ではあったが、それでももう少し、人が生活しているという空気のようなものがあったはず。
でも、今のこの部屋にはそれがない。
彼はホテル暮らしに戻ったのか、いずれにしろここに住んではいないのかもしれないと思った。
奥へと進んで、開け放たれている寝室の入口に立ってみる。
外の明かりが全面から入ってくるリビングとは違って仄暗いせいなのか、大きなベッドはまるで頑なに沈黙を守っているように見えた。
皺ひとつなく整えられたシーツからは、ほんの少しだけ彼の香りを感じたけれど、杏香がひっそりと残したはずの熱のようなものは、影も跡形も見あたらない。
最後にこの部屋を訪れたあの日まで、週に二度くらいは来て、ときどき泊まっていたのだ。その頃の寝室は今と同じように整えられていても、どこかに甘いなにかが残っていた。
形として見えるものではなかったけれど、枕の端とかナイトテーブルの艶の中とかに確かに存在していたはずだった。
でももう、なにもない。
お前なんか忘れたよとベッドが言うはずもないが、もうなにも残っていないのだと見せつけられた気がして、無性に切なくなった。
目を閉じて左右に首を振った杏香は寝室に背を向ける。
見ちゃいけない。考えちゃいけない。
やっぱり来なければよかったと思いながらダイニングに戻り、椅子に腰を下ろすと途端に力が抜けた。
「はぁー」
テーブルに突っ伏すと、ふと部屋が暖かいと気づく。
日当たりがいいので日中は冬でも暖かい部屋だが、それだけではないようだ。多分彼がスマートフォンを通して暖房を遠隔操作したのだろう。
(――ということは)
杏香はここに来るまでずっと考えていた。彼は来るのか来ないのかどっちなんだろうと。
鍵はひとつだけじゃない。
もしかしたら、合い鍵も持ち歩いているかもしれないし、冷静になればなるほど、来ない可能性のほうが高いように思えた。
のこのこ来てしまった自分は、なんてバカなんだろうと。
ラウンジでのキスはその場しのぎに違いない。加島とあのラウンジに行ったのは本当に偶然だったのだから、彼がなんらかの理由でその偶然を利用したのだ。
だから、マンションには行かなくていいと彼から連絡があるかもしれないと思った。
自分は彼の連絡先を消してしまったけれど、もしかしたら彼のほうは残してあるかもしれない。一応ビーフシチューを作るための食材は買ったけれども、着信を見逃さないようにポケットに入れたスマートフォンのバイブレーション機能をオンにして気にしながら歩いてきたのである。
でも、彼は暖房をつけた。
ビーフシチューを食べに、ここに来るのだ。
「じゃあ……作りますか」と独りごちる。
作って、待って。ちゃんと話をしなければ。
そして、惑わせるのは辞めてくださいと言わなきゃいけない。
靴はない。彼はまだ帰っていないようだ。
ひとまずホッとして、「しつれいしまーす」と、儀礼的に声をかけながら、杏香は玄関に入った。
空間を贅沢に使っている玄関のタタキには猫足のスツールがひとつ。ブーツを脱いだり履いたりするのに便利なのよねと、ちょっと懐かしく思いながら、スツールが置いてる方とは反対側の端に、脱いだ靴を揃える。
勝手知ったる他人の家、下駄箱からふかふかのスリッパを取り出して、廊下の壁に飾られている絵は変わっていないと見届けながら奥へと進み、突き当りの扉を開けた。
入って左にダイニングキッチン。右はリビングで、その奥は寝室へと続く。ゆったり広々とした間取りの部屋には、モデルルームのように洗練された家具が鎮座している。
なにもかも杏香のよく知るラグジュアリーな彼のマンションそのままで、見たところひとつとして変わっていなかった。
ダイニングの椅子に荷物を置き、コートをハンガーラックに掛け、振り返って見渡しながらふと思う。
なんとなく、人のぬくもりのようなものがないような気がする。
もとから閑散とした雰囲気の部屋ではあったが、それでももう少し、人が生活しているという空気のようなものがあったはず。
でも、今のこの部屋にはそれがない。
彼はホテル暮らしに戻ったのか、いずれにしろここに住んではいないのかもしれないと思った。
奥へと進んで、開け放たれている寝室の入口に立ってみる。
外の明かりが全面から入ってくるリビングとは違って仄暗いせいなのか、大きなベッドはまるで頑なに沈黙を守っているように見えた。
皺ひとつなく整えられたシーツからは、ほんの少しだけ彼の香りを感じたけれど、杏香がひっそりと残したはずの熱のようなものは、影も跡形も見あたらない。
最後にこの部屋を訪れたあの日まで、週に二度くらいは来て、ときどき泊まっていたのだ。その頃の寝室は今と同じように整えられていても、どこかに甘いなにかが残っていた。
形として見えるものではなかったけれど、枕の端とかナイトテーブルの艶の中とかに確かに存在していたはずだった。
でももう、なにもない。
お前なんか忘れたよとベッドが言うはずもないが、もうなにも残っていないのだと見せつけられた気がして、無性に切なくなった。
目を閉じて左右に首を振った杏香は寝室に背を向ける。
見ちゃいけない。考えちゃいけない。
やっぱり来なければよかったと思いながらダイニングに戻り、椅子に腰を下ろすと途端に力が抜けた。
「はぁー」
テーブルに突っ伏すと、ふと部屋が暖かいと気づく。
日当たりがいいので日中は冬でも暖かい部屋だが、それだけではないようだ。多分彼がスマートフォンを通して暖房を遠隔操作したのだろう。
(――ということは)
杏香はここに来るまでずっと考えていた。彼は来るのか来ないのかどっちなんだろうと。
鍵はひとつだけじゃない。
もしかしたら、合い鍵も持ち歩いているかもしれないし、冷静になればなるほど、来ない可能性のほうが高いように思えた。
のこのこ来てしまった自分は、なんてバカなんだろうと。
ラウンジでのキスはその場しのぎに違いない。加島とあのラウンジに行ったのは本当に偶然だったのだから、彼がなんらかの理由でその偶然を利用したのだ。
だから、マンションには行かなくていいと彼から連絡があるかもしれないと思った。
自分は彼の連絡先を消してしまったけれど、もしかしたら彼のほうは残してあるかもしれない。一応ビーフシチューを作るための食材は買ったけれども、着信を見逃さないようにポケットに入れたスマートフォンのバイブレーション機能をオンにして気にしながら歩いてきたのである。
でも、彼は暖房をつけた。
ビーフシチューを食べに、ここに来るのだ。
「じゃあ……作りますか」と独りごちる。
作って、待って。ちゃんと話をしなければ。
そして、惑わせるのは辞めてくださいと言わなきゃいけない。
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