32 / 95
◆新しい恋をしましょう
社外恋愛の罠 11
しおりを挟む
今なにが起こったの?
いっそ夢であって欲しいと願いながら、杏香はひたすら小走りに足を進め、ついには走って目についた百貨店の中に飛び込んだ。
「ハァハァ」
入るなり立ち止まった杏香は、肩を揺らしながら大きく息を吐く。
ただならぬ様子に、シルバーヘアーの婦人がハッとしたように外を見た。急な雨でも降ってきたのかと思ったのかもしれないが、空は青々と晴れ渡っている。首を傾げた婦人は、杏香を怪訝そうに見る。
そんなことなどつゆ知らず、余裕がない杏香は慌ててバッグに手をかけたが――。ハッとしたように、がっくりと項垂れた。
「あー、もう。だめじゃん……」
颯天に抗議のメッセージを送ろうとして、連絡先もSNSも削除したままだと思い出したのだった。
ふと、きつく握りしめた手が目に留まった。
一本ずつ指を開くと、黒い革のキーホルダーがついた鍵が顔を出す。
見慣れた鍵は本物の彼の部屋の鍵だ。
杏香が預かっていた合鍵の方じゃなく、彼が持っているメインの鍵。
靴ベラにもなる革のキーホルダーは杏香が彼の誕生日にプレゼントした。使ってくれていたのかと、驚きと切なさが同時に込み上げる。
この鍵がなくちゃ、颯天が部屋に入れない。
助教授ともいい感じになれたかもしれないのにと、悔し紛れに思う。
「ビーフシチューってなによ……」
いらない偶然ばかり起きる。
令嬢と別れたくて杏香を利用したとしても、どうしてあんなことをしたのか。
彼女は本気で怒るに違いない。大事な取引先の令嬢というのが本当なら、仕事に影響があるだろうに。
なにもかもが台無しだ。
しばらく呆然と鍵を見つめ、バッグの中にしまい込み、あきらめの重いため息をついて、百貨店の中を歩き始めた。
バッグや小物や靴。なにひとつ目に入らないが、それでもふらふらと彷徨うように店内を歩く。
心が半分ポッキリと手折られたようで、力が入らない。
(どうしてキスするの?)
折った心を、彼はクルクルと指先で弄ぶ。
さっきのキスは甘い蜜なのか、残酷な鞭なのか、それすらもわからなくなってくる。
『大丈夫。いい子だから、先に帰って』
とっても優しい声だった。
杏香ごめんな、こんな思いをさせてごめん、俺はこの女と結婚なんかするつもりはないんだ、お前がいるのにありえないだろう?と。まるで謝られているようだった。
自分は本当に彼が心配でラウンジに行ったような気さえする。
イチカの令嬢とは結婚しないんでしょ?
わかった。いい子にしている……。いい子にしているわ……。
もしかしたら。そうしていたら本当に、唯一無二の恋人にしてくれるの? 私を妻にしてくれる? 私だけアイシテルって言ってくれるの?
夢遊病者のように想いに浸り、いつの間にか杏香の足は地下の食品売り場に向いていて、気がつけば、精肉店のショーケースの前に立っていた。
『ビーフシチューがいいな』
ひと月前も、こうしてショーケースの中のお肉を見つめた。
ビーフシチューは、さよならの味……。そう思ってハッとした。
(こらっ、流されてどうするの!)
あの男には青井光葉だっているではないか。妻の座なんてとんでもない、流されて辿り着く先は愛人の席だ。
危ない危ないと身震いした。
(とにかく、私には事情を聞く権利があるわ、ビーフシチューでもなんでも作ってやろうじゃないの)
心の半分は持っていかれたかもしれないが、まだ残っている半分でしっかりと決心した。
とにかく行くしかない。
悪魔の巣窟に。
いっそ夢であって欲しいと願いながら、杏香はひたすら小走りに足を進め、ついには走って目についた百貨店の中に飛び込んだ。
「ハァハァ」
入るなり立ち止まった杏香は、肩を揺らしながら大きく息を吐く。
ただならぬ様子に、シルバーヘアーの婦人がハッとしたように外を見た。急な雨でも降ってきたのかと思ったのかもしれないが、空は青々と晴れ渡っている。首を傾げた婦人は、杏香を怪訝そうに見る。
そんなことなどつゆ知らず、余裕がない杏香は慌ててバッグに手をかけたが――。ハッとしたように、がっくりと項垂れた。
「あー、もう。だめじゃん……」
颯天に抗議のメッセージを送ろうとして、連絡先もSNSも削除したままだと思い出したのだった。
ふと、きつく握りしめた手が目に留まった。
一本ずつ指を開くと、黒い革のキーホルダーがついた鍵が顔を出す。
見慣れた鍵は本物の彼の部屋の鍵だ。
杏香が預かっていた合鍵の方じゃなく、彼が持っているメインの鍵。
靴ベラにもなる革のキーホルダーは杏香が彼の誕生日にプレゼントした。使ってくれていたのかと、驚きと切なさが同時に込み上げる。
この鍵がなくちゃ、颯天が部屋に入れない。
助教授ともいい感じになれたかもしれないのにと、悔し紛れに思う。
「ビーフシチューってなによ……」
いらない偶然ばかり起きる。
令嬢と別れたくて杏香を利用したとしても、どうしてあんなことをしたのか。
彼女は本気で怒るに違いない。大事な取引先の令嬢というのが本当なら、仕事に影響があるだろうに。
なにもかもが台無しだ。
しばらく呆然と鍵を見つめ、バッグの中にしまい込み、あきらめの重いため息をついて、百貨店の中を歩き始めた。
バッグや小物や靴。なにひとつ目に入らないが、それでもふらふらと彷徨うように店内を歩く。
心が半分ポッキリと手折られたようで、力が入らない。
(どうしてキスするの?)
折った心を、彼はクルクルと指先で弄ぶ。
さっきのキスは甘い蜜なのか、残酷な鞭なのか、それすらもわからなくなってくる。
『大丈夫。いい子だから、先に帰って』
とっても優しい声だった。
杏香ごめんな、こんな思いをさせてごめん、俺はこの女と結婚なんかするつもりはないんだ、お前がいるのにありえないだろう?と。まるで謝られているようだった。
自分は本当に彼が心配でラウンジに行ったような気さえする。
イチカの令嬢とは結婚しないんでしょ?
わかった。いい子にしている……。いい子にしているわ……。
もしかしたら。そうしていたら本当に、唯一無二の恋人にしてくれるの? 私を妻にしてくれる? 私だけアイシテルって言ってくれるの?
夢遊病者のように想いに浸り、いつの間にか杏香の足は地下の食品売り場に向いていて、気がつけば、精肉店のショーケースの前に立っていた。
『ビーフシチューがいいな』
ひと月前も、こうしてショーケースの中のお肉を見つめた。
ビーフシチューは、さよならの味……。そう思ってハッとした。
(こらっ、流されてどうするの!)
あの男には青井光葉だっているではないか。妻の座なんてとんでもない、流されて辿り着く先は愛人の席だ。
危ない危ないと身震いした。
(とにかく、私には事情を聞く権利があるわ、ビーフシチューでもなんでも作ってやろうじゃないの)
心の半分は持っていかれたかもしれないが、まだ残っている半分でしっかりと決心した。
とにかく行くしかない。
悪魔の巣窟に。
39
お気に入りに追加
623
あなたにおすすめの小説
隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛
冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!
契約妻ですが極甘御曹司の執愛に溺れそうです
冬野まゆ
恋愛
経営難に陥った実家の酒造を救うため、最悪の縁談を受けてしまったOLの千春。そんな彼女を助けてくれたのは、密かに思いを寄せていた大企業の御曹司・涼弥だった。結婚に関する面倒事を避けたい彼から、援助と引き換えの契約結婚を提案された千春は、藁にも縋る思いでそれを了承する。しかし旧知の仲とはいえ、本来なら結ばれるはずのない雲の上の人。たとえ愛されなくても彼の良き妻になろうと決意する千春だったが……「可愛い千春。もっと俺のことだけ考えて」いざ始まった新婚生活は至れり尽くせりの溺愛の日々で!? 拗らせ両片思い夫婦の、じれじれすれ違いラブ!
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
甘過ぎるオフィスで塩過ぎる彼と・・・
希花 紀歩
恋愛
24時間二人きりで甘~い💕お仕事!?
『膝の上に座って。』『悪いけど仕事の為だから。』
小さな翻訳会社でアシスタント兼翻訳チェッカーとして働く風永 唯仁子(かざなが ゆにこ)(26)は頼まれると断れない性格。
ある日社長から、急ぎの翻訳案件の為に翻訳者と同じ家に缶詰になり作業を進めるように命令される。気が進まないものの、この案件を無事仕上げることが出来れば憧れていた翻訳コーディネーターになれると言われ、頑張ろうと心を決める。
しかし翻訳者・若泉 透葵(わかいずみ とき)(28)は美青年で優秀な翻訳者であるが何を考えているのかわからない。
彼のベッドが置かれた部屋で二人きりで甘い恋愛シミュレーションゲームの翻訳を進めるが、透葵は翻訳の参考にする為と言って、唯仁子にあれやこれやのスキンシップをしてきて・・・!?
過去の恋愛のトラウマから仕事関係の人と恋愛関係になりたくない唯仁子と、恋愛はくだらないものだと思っている透葵だったが・・・。
*導入部分は説明部分が多く退屈かもしれませんが、この物語に必要な部分なので、こらえて読み進めて頂けると有り難いです。
<表紙イラスト>
男女:わかめサロンパス様
背景:アート宇都宮様
政略婚~腹黒御曹司は孤独な婚約者を守りたい~
椿蛍
恋愛
★2022.1.23改稿完了しました。
母が亡くなり、身寄りがないと思っていた私、井垣朱加里(いがきあかり)はまさか父がお金持ちの社長だったなんて知らなかった。
引き取られた先には継母とその娘がいた。
私を引き取ったのは気難しい祖父の世話をさせるためだった。
けれど、冷たい家族の中で祖父だけは優しく、病気の祖父が亡くなるまではこの家にいようと決めた。
優しかった祖父が亡くなり、財産を遺してくれた。
それだけじゃない、祖父は遺言として結婚相手まで決めていた。
相手は『王子様』と名高い白河財閥の三男白河壱都(しらかわいちと)。
彼は裏表のあるくせ者で、こんな男が私の結婚相手!?
父と継母は財産を奪われたと怒り狂うし、異母妹は婚約者を盗られたと言うし。
私が全てを奪ったと、完全に悪者にされてしまった。
どうしたらいいの!?
・視点切り替えあります。
・R-18には※R-18マークをつけます。
・飛ばして読むことも可能です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる