高司専務の憂鬱 (完)

白亜凛

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◆新しい恋をしましょう

社外恋愛の罠 11

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 今なにが起こったの?

 いっそ夢であって欲しいと願いながら、杏香はひたすら小走りに足を進め、ついには走って目についた百貨店の中に飛び込んだ。

「ハァハァ」
 入るなり立ち止まった杏香は、肩を揺らしながら大きく息を吐く。

 ただならぬ様子に、シルバーヘアーの婦人がハッとしたように外を見た。急な雨でも降ってきたのかと思ったのかもしれないが、空は青々と晴れ渡っている。首を傾げた婦人は、杏香を怪訝そうに見る。

 そんなことなどつゆ知らず、余裕がない杏香は慌ててバッグに手をかけたが――。ハッとしたように、がっくりと項垂れた。

「あー、もう。だめじゃん……」

 颯天に抗議のメッセージを送ろうとして、連絡先もSNSも削除したままだと思い出したのだった。

 ふと、きつく握りしめた手が目に留まった。
 一本ずつ指を開くと、黒い革のキーホルダーがついた鍵が顔を出す。

 見慣れた鍵は本物の彼の部屋の鍵だ。
 杏香が預かっていた合鍵の方じゃなく、彼が持っているメインの鍵。

 靴ベラにもなる革のキーホルダーは杏香が彼の誕生日にプレゼントした。使ってくれていたのかと、驚きと切なさが同時に込み上げる。

 この鍵がなくちゃ、颯天が部屋に入れない。

 助教授ともいい感じになれたかもしれないのにと、悔し紛れに思う。

「ビーフシチューってなによ……」

 いらない偶然ばかり起きる。

 令嬢と別れたくて杏香を利用したとしても、どうしてあんなことをしたのか。
 彼女は本気で怒るに違いない。大事な取引先の令嬢というのが本当なら、仕事に影響があるだろうに。

 なにもかもが台無しだ。

 しばらく呆然と鍵を見つめ、バッグの中にしまい込み、あきらめの重いため息をついて、百貨店の中を歩き始めた。

 バッグや小物や靴。なにひとつ目に入らないが、それでもふらふらと彷徨うように店内を歩く。
 心が半分ポッキリと手折られたようで、力が入らない。

(どうしてキスするの?)

 折った心を、彼はクルクルと指先で弄ぶ。

 さっきのキスは甘い蜜なのか、残酷な鞭なのか、それすらもわからなくなってくる。

『大丈夫。いい子だから、先に帰って』

 とっても優しい声だった。

 杏香ごめんな、こんな思いをさせてごめん、俺はこの女と結婚なんかするつもりはないんだ、お前がいるのにありえないだろう?と。まるで謝られているようだった。

 自分は本当に彼が心配でラウンジに行ったような気さえする。

 イチカの令嬢とは結婚しないんでしょ?

 わかった。いい子にしている……。いい子にしているわ……。

 もしかしたら。そうしていたら本当に、唯一無二の恋人にしてくれるの? 私を妻にしてくれる? 私だけアイシテルって言ってくれるの?

 夢遊病者のように想いに浸り、いつの間にか杏香の足は地下の食品売り場に向いていて、気がつけば、精肉店のショーケースの前に立っていた。

『ビーフシチューがいいな』

 ひと月前も、こうしてショーケースの中のお肉を見つめた。

 ビーフシチューは、さよならの味……。そう思ってハッとした。

(こらっ、流されてどうするの!)

 あの男には青井光葉だっているではないか。妻の座なんてとんでもない、流されて辿り着く先は愛人の席だ。

 危ない危ないと身震いした。

(とにかく、私には事情を聞く権利があるわ、ビーフシチューでもなんでも作ってやろうじゃないの)

 心の半分は持っていかれたかもしれないが、まだ残っている半分でしっかりと決心した。

 とにかく行くしかない。

 悪魔の巣窟に。
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