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◆新しい恋をしましょう
社内恋愛の掟 1
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ハロウィンを過ぎ、十一月になって杏香は、髪形を変えた。
「志水さん、頼まれていたクリアファイルですが、これでいいですか?」
「そうそう! ああ、よかった間に合った。サンキュー」
ホッとしたようにフゥっと息を吐くのは営業部の志水。スラリとしたイケメンで、笑うと細くなる目もとが優しげになり、魅力が何割増しになる。
仕事もできると評判の独身アラサーなので、女性に人気だ。
「樋口さん、髪型変えたんだ。随分思い切ったね」
杏香は照れたように笑う。
「皆に驚かれちゃって」
「勿体ない気もするけど、今の髪形もよく似合ってるよ」
こんなふうに褒めるときも、彼が言うとキザにもならない。杏香も素直に「ありがとうございます」と礼を言った。
「金曜の飲み会、樋口さんは参加しないの?」
「ええ。私、お酒はほとんど飲めないんですよ」
「そうなんだ。残念だなぁ」
少し雑談をして、杏香は営業部を離れた。
髪を切って一週間以上が経つが、いまだに廊下ですれ違う社員の何人かが、杏香を見て少し驚くような様子を見せる。結構な変わりようなので、一瞬誰だかわからないらしい。
普段から気さくに話をする女性たちは、髪型について声をかけてきたりした。
「どうしたの? びっくり!」
「誰かと思っちゃった」
皆が驚くのも無理はない。なんの前触れもなしに、三十センチくらいバッサリと髪を切ったのだから。
入社以来ずっと、杏香の髪は長かった。
細いけれども艶のあるロングヘアは自分でもお気に入りで、定期的にヘアサロンに行きトリートメントをしっかりとしてもらって気を使っていた。忙しい朝も手入れを怠らず、時間をかけて毛先をゆるくカールしたりしていたのである。
颯天もその長い髪が気に入っていた。……多分。
仕事中、邪魔にならないように後ろでひとつにまとめていた髪を、彼はキスをしながらスルスルと解いた。
そして、解けた長い髪を指ですき、首筋に顔を埋めるようにしてうなじに甘いキスをする。
杏香は、その瞬間がたまらなく好きだった。
体が痺れるようなあの一瞬が、なによりも好きだったかもしれないと思う。
先週、鏡の前でブラッシングをしながら、彼に触れられたときの感触を思い出した。
〝杏香〟とい囁き声とともに――。
ふと髪を切ろうと思った。
想い出を忘れるために、髪が肩に触れないくらいの長さまでバッサリと。
担当の美容師には、本当にいいの? と何度も念を押されたし残念がられたけれど、杏香の固い決意に押されてため息をついた。
『樋口さんが僕の恋人だったら、全力で阻止するんだけどなぁ』
それでも、髪型はおまかせするので好きなようにしてもらっていいと言うと、美容師は『ほんと?』と瞳を輝かせた。
新しい髪型は、切りっぱなしのボブというらしい。
ロングだったときは横に流していた前髪も、眉が隠れるくらいに短くなった。
サイドからグルっと肩につかない程度にゆるく切り揃えられた髪は、裾が自然と外に跳ねている。アッシュブラウンにカラーリングされたこともあって、全体的に軽やかで明るい髪型だ。
髪型だけでなく化粧も少し違う。
ほんのりと頬にいれるチークも、今までよりは明るいピンクにして、表情まで一気に明るくなったように思う。
颯天と付き合っていた頃は、上品であるように心がけていた。
楚々としたおとなしめの、品のいい女性を目指して。
別に彼に言われたわけではないが、そうでないと簡単に捨てられてしまうような気がして、精一杯背伸びをしていたのである。
捨てられるのがとても怖かった。
自分でもすごい矛盾だとは思う。
いつか別れの日がくると覚悟の上だったのに、彼から捨てられるのは怖くて怖くて仕方がなかった。
いまだから自分でも認める、本音だ。
彼の住む高層マンションから眺める、宝石のような夜景。気まぐれにプレゼントしてくれるハイブランドの服飾品に、運転手つきの高級車で向かった温泉リゾート。
夢のような経験をする度に、恐怖は増していった。
別れたら、もう二度とできない経験を覚えてしまっているという恐怖。
彼が教えてくれた飛び切り甘い蜜のような贅沢は、自分の心を蝕んでいくような気がしてならなかった。
別れるなら自分から。そうしようと心に誓った理由は、そうじゃないと立ち直れないと思ったから。自分から言い出したなら、心の準備はできる。
今こんな風に髪を切って、しみじみと思う。
やっぱり自分は無理をしていたんだと。
ひと月前までのように、朝も身だしなみに時間を掛けなくなった。短くなった髪はすぐに乾くし、手櫛で簡単にブローしてムースをちょっとつけるだけ。
雰囲気の変わった自分への週末の買い物も楽しくて、化粧も気分によって変えてみたり、今まで手にしなかったプチプラ服も組み合わせてみたりする。
想い出を断ち切るために髪型を変えたけど、結果的には大成功で、鏡を見る度に本当に生まれ変わったような気がしてウキウキと胸が躍る。
杏香は今の自分にとても満足していた。
「志水さん、頼まれていたクリアファイルですが、これでいいですか?」
「そうそう! ああ、よかった間に合った。サンキュー」
ホッとしたようにフゥっと息を吐くのは営業部の志水。スラリとしたイケメンで、笑うと細くなる目もとが優しげになり、魅力が何割増しになる。
仕事もできると評判の独身アラサーなので、女性に人気だ。
「樋口さん、髪型変えたんだ。随分思い切ったね」
杏香は照れたように笑う。
「皆に驚かれちゃって」
「勿体ない気もするけど、今の髪形もよく似合ってるよ」
こんなふうに褒めるときも、彼が言うとキザにもならない。杏香も素直に「ありがとうございます」と礼を言った。
「金曜の飲み会、樋口さんは参加しないの?」
「ええ。私、お酒はほとんど飲めないんですよ」
「そうなんだ。残念だなぁ」
少し雑談をして、杏香は営業部を離れた。
髪を切って一週間以上が経つが、いまだに廊下ですれ違う社員の何人かが、杏香を見て少し驚くような様子を見せる。結構な変わりようなので、一瞬誰だかわからないらしい。
普段から気さくに話をする女性たちは、髪型について声をかけてきたりした。
「どうしたの? びっくり!」
「誰かと思っちゃった」
皆が驚くのも無理はない。なんの前触れもなしに、三十センチくらいバッサリと髪を切ったのだから。
入社以来ずっと、杏香の髪は長かった。
細いけれども艶のあるロングヘアは自分でもお気に入りで、定期的にヘアサロンに行きトリートメントをしっかりとしてもらって気を使っていた。忙しい朝も手入れを怠らず、時間をかけて毛先をゆるくカールしたりしていたのである。
颯天もその長い髪が気に入っていた。……多分。
仕事中、邪魔にならないように後ろでひとつにまとめていた髪を、彼はキスをしながらスルスルと解いた。
そして、解けた長い髪を指ですき、首筋に顔を埋めるようにしてうなじに甘いキスをする。
杏香は、その瞬間がたまらなく好きだった。
体が痺れるようなあの一瞬が、なによりも好きだったかもしれないと思う。
先週、鏡の前でブラッシングをしながら、彼に触れられたときの感触を思い出した。
〝杏香〟とい囁き声とともに――。
ふと髪を切ろうと思った。
想い出を忘れるために、髪が肩に触れないくらいの長さまでバッサリと。
担当の美容師には、本当にいいの? と何度も念を押されたし残念がられたけれど、杏香の固い決意に押されてため息をついた。
『樋口さんが僕の恋人だったら、全力で阻止するんだけどなぁ』
それでも、髪型はおまかせするので好きなようにしてもらっていいと言うと、美容師は『ほんと?』と瞳を輝かせた。
新しい髪型は、切りっぱなしのボブというらしい。
ロングだったときは横に流していた前髪も、眉が隠れるくらいに短くなった。
サイドからグルっと肩につかない程度にゆるく切り揃えられた髪は、裾が自然と外に跳ねている。アッシュブラウンにカラーリングされたこともあって、全体的に軽やかで明るい髪型だ。
髪型だけでなく化粧も少し違う。
ほんのりと頬にいれるチークも、今までよりは明るいピンクにして、表情まで一気に明るくなったように思う。
颯天と付き合っていた頃は、上品であるように心がけていた。
楚々としたおとなしめの、品のいい女性を目指して。
別に彼に言われたわけではないが、そうでないと簡単に捨てられてしまうような気がして、精一杯背伸びをしていたのである。
捨てられるのがとても怖かった。
自分でもすごい矛盾だとは思う。
いつか別れの日がくると覚悟の上だったのに、彼から捨てられるのは怖くて怖くて仕方がなかった。
いまだから自分でも認める、本音だ。
彼の住む高層マンションから眺める、宝石のような夜景。気まぐれにプレゼントしてくれるハイブランドの服飾品に、運転手つきの高級車で向かった温泉リゾート。
夢のような経験をする度に、恐怖は増していった。
別れたら、もう二度とできない経験を覚えてしまっているという恐怖。
彼が教えてくれた飛び切り甘い蜜のような贅沢は、自分の心を蝕んでいくような気がしてならなかった。
別れるなら自分から。そうしようと心に誓った理由は、そうじゃないと立ち直れないと思ったから。自分から言い出したなら、心の準備はできる。
今こんな風に髪を切って、しみじみと思う。
やっぱり自分は無理をしていたんだと。
ひと月前までのように、朝も身だしなみに時間を掛けなくなった。短くなった髪はすぐに乾くし、手櫛で簡単にブローしてムースをちょっとつけるだけ。
雰囲気の変わった自分への週末の買い物も楽しくて、化粧も気分によって変えてみたり、今まで手にしなかったプチプラ服も組み合わせてみたりする。
想い出を断ち切るために髪型を変えたけど、結果的には大成功で、鏡を見る度に本当に生まれ変わったような気がしてウキウキと胸が躍る。
杏香は今の自分にとても満足していた。
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