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◆バイバイ素敵なあなた
お兄さま、クズやめました? 2
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「ねぇキク。いままでコーヒーを出して、お兄さまからお礼を言われたこと、ある?」
「いいえ、一度も。今が初めてでございます。キクはうれしいです。颯天さまがそのようにお変わりになられて、うれしい……」
泣いているのか泣きまねなのか、キクはエプロンの裾を取って目もとにあてる。
ふたりのやり取りを見ていた颯天は、これ見よがしに大きなため息をつき、眉間の皺を深くした。
「わかったよ、二度と礼なんか言わねぇ」
「またまたー、冗談でございますよ。しばらくこちらに?」
キクは澄まして聞く。
「ああ、そのつもりだ」
「わかりました」
先週から父が家にいない。三カ月ほどニューヨークに出張の予定で母も同行しているため、この広い邸は麻耶とキクと坂元の三人だけだ。
「よかった。私たちだけじゃ、寂しいもの」
キクは元気だが齢六十。坂元はいわば執事のような存在で頼りになるが、いかんせん忙しい身の上だ。セキュリティはしっかりとしている邸なので心配はないとはいえ、強面の兄がいてくれれば随分と心強い。
「坂元は?」
「出掛けているわ。でももうすぐ帰ると思うわよ」
「ふーん」
コーヒーカップをテーブルに置くと、颯天は立ち上がった。
自分の部屋に戻るのだろう。兄の背中を目の端で追いながら、麻耶はキュッと唇を噛んだ。
いろいろ聞きたいが、帰ってきた初日から質問攻めにして、へそを曲げられては面倒だ。「おやすみなさーい」と声をかけるだけに留めた。
「おやすみ」
リビングから廊下に出る兄の後ろ姿を見つめながら、麻耶は疑わしげに目を細める。
やはりどこか変だと思う。他人にならいざ知らず、家の者に礼を言うなんておかしいし、まるで、心に矢でも刺さっているかのように弱って見える気がする。
背中に漂う傷心の影。もしかして、可愛い彼女となにかあったのか。
首を傾げて考えているところこへ、キクがカップを下げにきた。
ちょうどいい。
「ねぇねぇ、キク。なにかあったでしょ」
小声で「お兄さま」と付け加える。
意味ありげに目を細めたキクは、廊下を振り返り、口もとに手をあてて「もしかすると」と声をひそめた。
「あのお嬢さんとなにかあったのかもしれませんね」
「えっ、どうしたの? なにがあったのよ?」
キクの言うその〝お嬢さん〟と兄が上手くいってもらわないと麻耶は非常に困る。このままでは本当に、大学卒業と同時にどこかの誰かと政略結婚させられてしまうかもしれないのだ。
「ねえねえ、どうしたの? 最近会ってないとか?」
キクは週に二度の割合で、掃除洗濯のために颯天のマンションに行っている。備品のほか、冷蔵庫の中も確認する。ミネラルウォーターや炭酸水などの補充のためだ。
ある日を境に、ガラスの保存容器に入った料理を見かけるようになった。
買ってきた惣菜のようには見えないし、行くたびにドレッシングや調味料も増えていく。
キクは頼まれない限り料理はしない。となると――。颯天が作るはずはないので、誰かがマンションに来て料理をしているに違いない。
本人は気づいているかどうかわからないが、不倫問題を起こしてからというもの、颯天は厳しい監視下にある。家を出た彼がマンションではなくホテルを拠点にしていたのも、ホテル暮らしをやめたのも、高司家の者は皆が知っていた。
キクから報告を受けた坂元がマンションを訪問し、料理をしている何者かが誰なのかを突き止めた。
同じ会社の女性社員、樋口杏香。彼女はときどきマンション訪れ、キッチンで料理をしているようだと、実は皆が知っていたのである。
ついでに言うと、その料理がちゃんと栄養を考えられて作られていたり、優しい味付けで美味しい手料理であると、こっそり味見をしているキクによって麻耶にも伝えられていた。
「先週、冷蔵庫が空になったと申し上げましたでしょう?」
うんうんと麻耶は頷く。
二週間前にキクが行った日以降、冷蔵庫にはなにもないと、聞いていた。
颯天は出張も多いので、冷蔵庫が空でも珍しいわけではないが――。
「あれきり、冷蔵庫はずっと空のままです。そのままこちらに帰って来られたとなると……」
キクはやれやれと、ため息をつく。
「うそぉー」
思わず叫んだ麻耶は、がっくりと肩を落とした。
「まあでも、あの俺様だもの。普通の感覚の女性なら、やんなっちゃうわよね」
キクも反論はしない。
「まぁお優しいところも、ございますけれども、ねぇ」
「いいえ、一度も。今が初めてでございます。キクはうれしいです。颯天さまがそのようにお変わりになられて、うれしい……」
泣いているのか泣きまねなのか、キクはエプロンの裾を取って目もとにあてる。
ふたりのやり取りを見ていた颯天は、これ見よがしに大きなため息をつき、眉間の皺を深くした。
「わかったよ、二度と礼なんか言わねぇ」
「またまたー、冗談でございますよ。しばらくこちらに?」
キクは澄まして聞く。
「ああ、そのつもりだ」
「わかりました」
先週から父が家にいない。三カ月ほどニューヨークに出張の予定で母も同行しているため、この広い邸は麻耶とキクと坂元の三人だけだ。
「よかった。私たちだけじゃ、寂しいもの」
キクは元気だが齢六十。坂元はいわば執事のような存在で頼りになるが、いかんせん忙しい身の上だ。セキュリティはしっかりとしている邸なので心配はないとはいえ、強面の兄がいてくれれば随分と心強い。
「坂元は?」
「出掛けているわ。でももうすぐ帰ると思うわよ」
「ふーん」
コーヒーカップをテーブルに置くと、颯天は立ち上がった。
自分の部屋に戻るのだろう。兄の背中を目の端で追いながら、麻耶はキュッと唇を噛んだ。
いろいろ聞きたいが、帰ってきた初日から質問攻めにして、へそを曲げられては面倒だ。「おやすみなさーい」と声をかけるだけに留めた。
「おやすみ」
リビングから廊下に出る兄の後ろ姿を見つめながら、麻耶は疑わしげに目を細める。
やはりどこか変だと思う。他人にならいざ知らず、家の者に礼を言うなんておかしいし、まるで、心に矢でも刺さっているかのように弱って見える気がする。
背中に漂う傷心の影。もしかして、可愛い彼女となにかあったのか。
首を傾げて考えているところこへ、キクがカップを下げにきた。
ちょうどいい。
「ねぇねぇ、キク。なにかあったでしょ」
小声で「お兄さま」と付け加える。
意味ありげに目を細めたキクは、廊下を振り返り、口もとに手をあてて「もしかすると」と声をひそめた。
「あのお嬢さんとなにかあったのかもしれませんね」
「えっ、どうしたの? なにがあったのよ?」
キクの言うその〝お嬢さん〟と兄が上手くいってもらわないと麻耶は非常に困る。このままでは本当に、大学卒業と同時にどこかの誰かと政略結婚させられてしまうかもしれないのだ。
「ねえねえ、どうしたの? 最近会ってないとか?」
キクは週に二度の割合で、掃除洗濯のために颯天のマンションに行っている。備品のほか、冷蔵庫の中も確認する。ミネラルウォーターや炭酸水などの補充のためだ。
ある日を境に、ガラスの保存容器に入った料理を見かけるようになった。
買ってきた惣菜のようには見えないし、行くたびにドレッシングや調味料も増えていく。
キクは頼まれない限り料理はしない。となると――。颯天が作るはずはないので、誰かがマンションに来て料理をしているに違いない。
本人は気づいているかどうかわからないが、不倫問題を起こしてからというもの、颯天は厳しい監視下にある。家を出た彼がマンションではなくホテルを拠点にしていたのも、ホテル暮らしをやめたのも、高司家の者は皆が知っていた。
キクから報告を受けた坂元がマンションを訪問し、料理をしている何者かが誰なのかを突き止めた。
同じ会社の女性社員、樋口杏香。彼女はときどきマンション訪れ、キッチンで料理をしているようだと、実は皆が知っていたのである。
ついでに言うと、その料理がちゃんと栄養を考えられて作られていたり、優しい味付けで美味しい手料理であると、こっそり味見をしているキクによって麻耶にも伝えられていた。
「先週、冷蔵庫が空になったと申し上げましたでしょう?」
うんうんと麻耶は頷く。
二週間前にキクが行った日以降、冷蔵庫にはなにもないと、聞いていた。
颯天は出張も多いので、冷蔵庫が空でも珍しいわけではないが――。
「あれきり、冷蔵庫はずっと空のままです。そのままこちらに帰って来られたとなると……」
キクはやれやれと、ため息をつく。
「うそぉー」
思わず叫んだ麻耶は、がっくりと肩を落とした。
「まあでも、あの俺様だもの。普通の感覚の女性なら、やんなっちゃうわよね」
キクも反論はしない。
「まぁお優しいところも、ございますけれども、ねぇ」
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