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◆バイバイ素敵なあなた
坂元さん、お世話になりました 1
しおりを挟むもうすぐハロウィンのお祭り騒ぎを迎える街は、秋本番を迎えようとしている。
あと半月もすれば公園の木々も色づき始め、落ち葉の絨毯が風で舞う頃には、気の早い店からジングルベルが聞こえ始めるだろう。
ヒュウと音を立て吹き抜けていく風に身震いした杏香は、そろそろ厚手のコートに変えようかと思いながらスカーフを首に巻き直す。
予報がどうあれ、杏香にとって今年の冬は一段と寒いはず。
クリスマスツリーの影で愛を囁き合う恋人たちが、氷の矢を撒き散らす恐ろしいシーズンが来るその前に、身を守る準備をしなければ乗り越えられない。
足を止めた杏香は、TKT工業のビルを見上げフゥと息を吐く。
颯天と別れてから半月。
特になにもなく、つつがない日々を過ごしているがまだまだ油断は禁物だ。
(さあ今日も一日がんばろう)
「おはようございます」
「おはようー、樋口さん、早速で悪いんだけど、これお願いしていい?」
「はい!」
心の傷が消えたわけではないが、結論を出せずにぐずぐずと思い悩んでいたときとは気持ちの上で随分違う。
傍目にも元気に見えるらしい。資料をもってきた先輩女子社員の由美が、ひょっこりと屈み込んで杏香を覗き込んだ。
「なんかいいことでもあった? 最近なんだか楽しそう」
楽しそうに見られれるのがうれしくて、杏香はえへへと笑ってみせた。
「はい、ちょっとだけ」
「いいなぁー、いつも元気で。私なんか腰が痛くてダメだ」
「あらら、またですか? 大変」
由美は腰痛持ちだ。腰に手をあててつらそうに撫でる。
「手伝ってくれる? 頼まれていたこの備品を秘書課に持っていきたいの。今日使いたいらしくて」
先輩は箱の中身を分け始めた。腰が痛いのに、自分も行くつもりらしい。
「あ、持っていくだけでしたら、私が全部引き受けますよ?」
「ひとりで持てる?」
「大丈夫です! 力はありますから」
「じゃごめん!お願いする、ありがとうね」
「はーい」
向かう先が秘書課なのは気にはなるが、仕事にわがままは言えない。
秘書課のあるフロアは役員室と同じなので、奥のほうには高司専務の執務室もある。顔を合わせる可能性が高い危険地帯だ。
廊下を歩く彼を想像し、杏香はムッと顔をしかめした。
この半月の間に起きたニアミスは三回。その度に心臓は暴れるし震えるほど緊張したけれど、表向きは変わらぬ挨拶をするたけで事なきを得てきた。
『おはようございます』と頭を下げて、彼は『おはよう』と返し通り過ぎて行く。
表情は相変わらずで、一ミリも変わらない。
総務部の平社員女子と専務取締役という、表も裏も接点なしという本来の関係に、綺麗に戻った。
以前はエレベーターなんかで偶然ふたりきりになると、『今日は来るのか?』なんて話しかけてきたが、それは遠い過去。半月どころか、あれはもしや前世の記憶ではないかと思うくらいだ。
食費代だと定期的に振り込まれていた愛人手当がストップすると同時に、愛人としての存在も記憶から抹殺されたらしい。なにもなかったように彼は杏香をチラリと一瞥するだけだ。
その目は冷たくもないし優し気でもない。他の社員に見せる眼差しとまったく同じ。悔しいほど、憎たらしいほど彼はどこまでも永遠に変わらなかった。それなのに――。
自分はといえば、そんな彼の態度に未だ心が翻弄されてしまう。
ひとりで夕食をとれば彼との食事を思い出し、寂しさのようなものが疼くし、優しいときの彼を思い出して、枕を濡らす夜もある。
わかっていたはずなのに。
付き合っているときからずっとわかっていた。それでも一ミリくらいは未練を残してくれるんじゃないかと、期待した自分が情けなかった。
それでも苦しいときは、悲しいラブストーリーの映画を見て号泣し、哀しさを転化させてみたり、親友に愚痴を聞いてもらったりして、なんとか踏ん張ってきた。
おかげで一週間前よりも今日というふうに着実に心は癒えている。
由美に元気そうだと言われるほどに。
あともう少しがんばって、クリスマスを乗り越え年末年始の休日を終えた頃には、傷口も随分ふさがっているはず。それまでの辛抱と、杏香は自分に言い聞かせる。
そのうち彼はこの会社からいなくなる。それまでの辛抱だ。
彼はTKT工業にいるが、いずれは高司グループの他社に異動するだろう。なんといっても彼はTKT工業を含めた高司グループの創業者一族の御曹司なのだ。最終的にはグループ本体の高司建設に戻るに違いない。
そうなれば顔を合わせる機会もなくなる。
だから大丈夫。
時間は偉大だ。いつの間にかすべてをいい想い出に変えてくれるだろうから。
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