高司専務の憂鬱 (完)

白亜凛

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◆バイバイ素敵なあなた

悪いのは私 2

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 はじまりは、今から一年と数カ月前。

 その日、杏香は残業していた。
 大好きな上司、倉井課長とふたりきりで。

 遅くなったから夕食をご馳走するよと誘われて、『わーい』と喜び勇んでついていったのは、課長をひとりの男性として好きだったから。

 倉井課長は杏香より十才歳上で、どちらかといえば冴えないタイプのお人よしの独身男性だ。
 そもそも面食いではない彼女は、倉井課長の人柄に惹かれたのである。

 一緒にいると心が和み、困ったときは逃げないでちゃんと相談にのって一緒に解決策を考えてくれる。ときどき変なおやじギャグを言ってひとりで笑うところとか、後頭部に寝ぐせをつけていることがあるとか、そんなところも含めて大好きだった。

 仕事の延長とはいえ恋する課長とふたりきりの食事となれば、否応なく心は弾む。もしかしたらこれを機会に一気に関係が変わるかもしれない。などと期待に胸を躍らせて、杏香は唐揚げに箸を伸ばした。

 なのに――。

『樋口さん、井口さんと仲良しだよね。実は俺、井口さんが好きなんだ』

 愛してやまない課長の口から出た言葉は、別の女の子の名前。その瞬間、杏香の時間と心臓が止まり、ポロリと唐揚げがお皿に落ちた。

『え? 井口、さん?』

 課長が好きだという相手は、同じ経理部に所属する杏香の同期だったのである。

『井口さんは、つき合っている人とかいるのかな……。いや、いてもいなくてもいいんだ。告白だけはしようと思ってね』

 課長はテーブルに視線を落とし、照れたように首を傾げた。

 杏香は感情を殺し、夢中で彼女のいいところを話し続けた。

『井口さん、ほんとーに真面目でいい子なんですよ、人の悪口とか言わないし。いつも穏やかだし。課長ったら目が高い』

 馬鹿みたいに、必死で――。

『ごちそうさまでした。じゃあ、また来週。課長、がんばってくださいね』

『ありがとう』


 倉井課長の背中を見送り、しばらく茫然と立ち尽くした。

 今まで、男性社員から誘われても全部断わっていたし、見向きもしなかった。課長一筋、一日が課長に始まり課長で終わるくらい本当に好きだったのである。それなのに……。

 この世の終わりのようなショックたった。

 彼が選んだのは自分ではない。相手が性格が悪いとか問題がある人物なら、まだ可能性があると思えただろう。でも彼女は、同性から見ても本当にいい娘なのである。控えめで、仕事は真面目で恋愛の経験もなくて、家族思いの優しい娘なのだ。

 課長の隣に彼女を並べて想像すると、ふたりはとてもお似合いで、ほんわかと優しい空気に包まれる。
 自分が割って入る余地など、一ミリもなかった。

 それから数日後、課長は思いを告げふたりは恋人同士になり、もうすぐ結婚する。すでに失恋のショックから立ち直っている今でこそ、ふたりの結婚を心から祝福できるが、そのときは絶望の淵にいた。

 そのまま帰る気持ちにはなれなくて、向かったのは自宅マンションすぐ近くにあるレストランバーだった。

 長いカウンター席のほかはテーブル席も少なく、いつもは静かな店内だが、金曜の夜九時過ぎだったせいか、珍しく客の賑やかな話し声で溢れていた。

 これ幸いにマスターを捕まえて、愚痴を吐きまくった。

『好きな人に食事に誘われてのこのこ付いて行ったら、その人に恋の相談をされて、応援しちゃう私の辛さわかります? ねーマスター、わかります?』

『それは、大変でしたね』

 言葉少ないマスターは困ったような笑みを浮かべてはいたが、それでも嫌な顔をせずに話を聞いてくれた。

 そこに偶然ふらりと現れたのが、仕事ができるイケメン御曹司、高司専務だったのである。

『あ、専務』

 杏香は、その時点で相当酔っていた。

『君は確か、総務の……』

 後に思い出したとき、己に戦慄を覚えるほど気が大きくなっていた。普段なら廊下をすれ違うだけで緊張する相手に向かって『ちょっと!』と言葉で絡むばかりか、腕を思い切りパシッと叩いたのである。

『イテッ』
『もぉー、樋口です! 名前くらい覚えてくださいよ』

 TKT工業本社には二百人近い社員と数十人の派遣社員がいる。
 入社一年目平社員の杏香と役員である彼との接点は、皆無に等しい。そう考えれば彼が、〝総務の〟と言い当てただけでも感心すべきだろう。

 だが酔っぱらいの杏香には関係ない。

 というか、どうでもよかった。
 むしろクビになってもいいと思うくらい開き直り、不貞腐れていたのである。
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