高司専務の憂鬱 (完)

白亜凛

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◆バイバイ素敵なあなた

悪いのは私 1

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「あ、樋口さん。待って」

 同僚の声に振り返ったのは樋口ひぐち杏香きょうか。TKT工業本社、総務課に所属する入社二年目の社員だ。

 薄いピンクのブラウスの上にライトグレーのカーディガンを羽織り、チャコールグレーのペンシルシルエットのスカートを履いている。髪は艶やかなロングで後ろにひとつでまとめていて女性らしい雰囲気をまとっている。
 左右均等なアーモンドアイに高過ぎず低過ぎない鼻。小さめのぷっくりとした唇。化粧は控えめなせいか目立たないが、いつもにこにことしている明るい性格ゆえに、男性女性を問わずよく声をかけられた。

「今日ね、合コンがあるんだけどひとり欠員が出ちゃって。行かない?」

 先輩女性が困ったように首を傾げて聞くが、杏香は両手を合わせて「ごめんなさい!」と恐縮した。

「やっぱりだめかー。樋口さん飲み会嫌いだもんね」
「お酒が飲めないから、その場にいるのがつらいんです」

 先輩は「わかった。ほかをあたるから気にしないで」と去っていく。

 杏香は新入社員の歓迎会以外の飲み会はすべて断ってきた。アルコールに弱いのは嘘じゃないが、合コンが好きじゃないのだ。別に恋人が欲しいわけじゃないし、その気がないのに行くのは却って失礼だと思う。

 ほかにも行きたくない理由はあるが――。
 やれやれとた小さく息を吐き、自分の席に向かうと、すれ違う女性たちの声が耳に届いた。

「専務、今日も素敵ね」
「ほんと。全身からイケメンオーラがビシビシ出てるわー」

 チラリと廊下を見ると、なるほど彼女たちが噂をする彼が、数人の部下と話をしながら歩いている。

 スラリと背は高くてモデルのようにスタイルも顔もいい。ちょっと不機嫌そうな表情も、切れ長の瞳によく似合っている。見た目の良さだけでなく、もちろん仕事もできるともっぱらの評判だ。

 彼は高司専務こと高司たかつかさ颯天はやて、三十歳。高司グループの創業者一族で、グループ本体である高司建設の現代表取締役の息子、いわゆる御曹司である。三年前に、本社から役員として異動してきた。
 専務就任後、直ちにプロジェクトチームを編成し、新たな目標に向かって彼らと共に営業に回り始めたという。ほかの役員とは違い、自ら第一線で指揮を執る姿勢は、特に若い社員の感動を呼んでいるようだ。

 杏香たちのような事務職の平社員は、接点はほぼないので噂を耳にするだけだが、彼が来て以来TKT工業はじりじりと業績を伸ばしていると数字で知っている。賞与がアップするなど、目に見える形として実感できた。
 イケメンで仕事ができるとなれば、まさに無敵のプリンス。女性たちが彼に憧れるのも当然といえば当然だろう。

 杏香が席について数分後。スマートフォンが着信を告げる。

 表示された送り主は【鬼神】。内容は【今夜、マンションで】という短いメッセージだった。

 画面に向かって軽く瞬きをした彼女は、【了解です】と、さらに短い返事を送って、ふぅと細く息を吐く。

 パソコンに表示されている時計を確認する。

 あと三十分で退社時間だ。その後の行動をシュミレーションする。

 夕食の買い物をしてから彼のマンションに向かう。次に行くときはビーフシチューにしようと決めてあるのでメニューに迷いはない。デパ地下でフランスパンとおいしそうなサラダがあれば買おう。牛肉は奮発してブランド牛を。煮込み用の赤ワインも忘れずに。

 買い物は無駄なく済ませたいが、マンションに着くまで一時間は欲しい。煮込みには圧力釜を使うにしても余裕はあまりない。
 残った仕事量を考えると、定時で退社できるかどうかの瀬戸際だ。ミスをしたら見直しで時間をとられアウトである。打ち間違いのないよう画面の数字に集中する。

 杏香はいつもこんなふうに彼に呼び出され、断りもせず彼のマンションに行く。

 夕食の準備をして彼の帰りを待ち、彼が帰ったその後は普通の恋人たちのように食事をし、濃密な夜を過ごす。
 だが彼女は、自分たちの関係を恋人同士だとは思っていない。

 ふたりの関係を言葉で表現するのは難しい。体だけの繋がりじゃないからセフレではないと信じたいのもあるが、友人とも言い難い。一番近いのは愛人だろうか。

 濃密な夜を過ごすのに恋人ではない理由は簡単だ。
 愛がないからである。

 そもそものきっかけを作ったのは杏香だった。

 冷めた気持ちのまま乗り気ではない彼を、強引にベッドに誘ったのは彼女なので、ふたりでの間に愛とか恋のような甘酸っぱいものはないと、よくわかっているのである。
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