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第四章 人生とは欲求である

第四話 小康を求めて

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 長い
 長い夢を見ているようだった。

 いや、何が夢なのかわからなかったけれど、ただこの瞬間が幸福なのだということだけはわかっていた。

 気が付いたら壮大なネモフィラの花畑の上に立っていた。見渡す限りただ広く、地球よりも宇宙よりも広い青い草原、そこに洋風の風車がたっていた。

 仏教でいえば極楽というのはまさにこういうところなんだろう。きっとこれまでの現実はある種の夢の一つだったのかもしれない、そう感じてしまうほどに、暖かく僕を受け入れてくれる草原だった。

 少し休みたい。そんな気持ちに身を任せて、ネモフィラに背中を任せようとしたとき、背筋に冷たいものが走った。間違った選択をしたことを本能が知らせる、恐怖を励起する現象。それでも僕は倒してしまった体を起こすことはできなかった。

 本能の命令通り、このネモフィラの草原は幻だった。僕の体はネモフィラにもその下の土に触れることもなく、ただ沈み続けた。青い草原はそれでも僕を温かく迎えようとしていた。




「か......の...しきは!」「かい........せん!」「みゃくは!」「......いです」

 意識が別の世界に引きずり出されていき、だんだんと感覚がこの世界の体に慣れてきたようだ。耳から膨大な情報が入ってくるせいで、目を開けられなかった。それでも、何か緊急事態が起きていることだけはわかった。

 緊急事態だけど逃げられるのか。そもそも声が出せるのだろうか。声帯の使い方を練習するように声を出してみる。

「うぁ」

 喉の使い方も普通にできそうと、安心していると、僕の耳元で女性の声がした。

「患者さんの意識が戻りました」

「了解」

 男性がその声に反応する。耳も感覚が戻ったようで、ちゃんと言葉が聞き取れる。

 さっきまで声を張っていた女性が、僕の耳元でやさしくいった。

「少し楽にしててくださいね」

 ようやく僕が目を覚まして見えた世界や、白い部屋にたくさんの銀色の器具があふれかえっていて、その中を青い服を着た人がうごめいていた。ここが病院の中なのだろうか。

 そこでまた僕の意識は沈んでいった。




 次に目が覚めた時、僕はいつか見た景色の中にいた。そこで僕はすべてを察した。

「戻ってきたのか」

 真っ白に仕切られた部屋の中。ただ一つのベッドと僕の腕に刺さっている点的だけが置いてある。半年近くを過ごしたあの病室だった。

 頭の中で状況整理を試みていると、病室の扉が明けられた。その先に立っていたのは、ある意味で予想通りの人物だった。

「どうやら生きていたみたいだな。まあ、その生命力は俺由来なのかもな」

「最初のお見舞いがあんたとはな。」

 中肉中背中年男。ただ、もう強く当たることができなかった。その様子を察したあいつは、僕のベッドのすぐそばの椅子に座ると、あの嫌みが抜け落ちた声で言った。

「生きててよかったよ。一応あの二人も呼んであるけど、さっき呼んだばかりなんだ。」

「まあ、いろいろありがとうな」

「翔に感謝されるなんてな」

 初めて見る親父の照れ笑い。あれだけ嫌いだったおやじだけど、今なら普通に話せるような気がした。

「結局僕はどうなってたんだ?」

 多分すべてを知っているであろう親父に聞いてみると、急にそれらしい口調で話し出した。

「いや、大変だったんだよ?パチンコ打って帰ってきたら、玄関開けたところでひっくり返っている人がいるんだから。けど、まだ死んではいないみたいだったから、とりあえず119番通報してさ。向こうの人に言われたとおりに対処してたら救急車が来てな。それで...」

 延々と僕の緊急搬送までの話をしてくれたが、要約すると家で人が倒れてたから救急車を呼んで救急救命処置をしたと。それで、救急車に乗ったらこの病院に連れてこられたけど、簡単には意識が戻らなかったらしい。

 長かった話が終わったところで、僕は質問した。

「なんで救急車に乗った段階で二人に連絡しなかったんだ?」

「そりゃ、お前が死んだところを二人に見せるわけにはいかないだろ。」

 当然のように答えた。僕が何も言わないでいると、説明してくれた。

「急に家を出て行ったあと、人の家の中に不法侵入して、そのうえ心臓発作で死にましたなんてなったら大変だろう?もし死んだら俺が責任を持つように調整しないといけないし、生きている状態でしか呼べないだろ。」

 ちゃんとこういうことは考えているやつなんだよなと、再認識する。多分こいつは僕以上に頭がよくて、こういう周囲のことまで考えたうえで行動できる。そうでなければ、賭け事で食べていくことなんてできないはずだ。

 僕が感心していると、病室の扉がノックされた。僕が答える前に、親父が先に答えてしまった。

「いいよ~」

 うまく動かせない左腕を使って親父を小突くと、親父は子供っぽく笑って見せた。

 扉が明けられると、そこには小百合さんが立っていた、僕の姿を見るなり抱き着こうとする小百合さんを親父が抑える。

「翔が生きてる...」

 今にも泣きそうな声を出しながら、僕に近寄るとベッドに縋りつくような姿勢になった。その姿を見て、改めてお母さんなんだなと実感する。

「本当に死んじゃったかと思ったんだからね。あいつから連絡来た時に、意識が戻ったって連絡と、場所だけ教えられたんだから。」

 僕はそんな姿を見て何も言えなかった。お母さんと読んでいいのか、小百合さんと呼ぶべきなのか、そもそも何て言ったらいいのかわからなかった。その様子を見かねたように、親父がフォローしてくれた。

「翔もまだ意識が戻ってすぐだから混乱してる部分もあるんだろうし、ほどほどにな」

 差遊山に声をかけると、親父は見守るように小百合さんの様子を後ろから見ていた。それでも泣き続ける小百合さんに、僕は一言しか言えなかった。

「ごめんなさい」

 僕の言葉を聞いた瞬間、小百合さんは僕の頭に手をやった。たたかれるかと思ったけれど、その手は優しく僕の頭をなでた。

「生きてたからいいのよ。」

 少しずつ泣き止んだようで、ある程度落ち着いたところで、親父が小百合さんに声をかけた。何やら二人で僕に聞こえないように小声で会話をしたあと、二人で僕のほうを向いていった。

「少し席を外すけど、何かあったら連絡してね」

 僕が何か答える前に、二人は病室を後にしてしまった。せっかく来てくれたのに、何かあったのだろうか。僕には想像もつかなかった。

 二人がいなくなって、世界の孤島のようになった病室に取り残された。周りを見ると、あの時に僕が持っていたものはここに置かれているようで、ショルダーバッグとその中身が置かれていた。一応誰かから連絡が来ているかもしれないと思い、携帯を手に取る。しかし特に誰からも連絡はないようだった。まあ、当然だろぅなぁと思う。

 それから、できることがなくなってしまった僕は、買ってきた本を少し開いてみた。あまり深く考えなくても読める文体のおかげで、こんな状態でも読むことができた。そこまで面白いとは思えないけれど、脳を落ち着けるにはちょうど良い逃避先だった。

 ようやく半分ぐらい読み終えたところだった。急に病室の扉が激しくノックされた。扉の先の存在に恐怖して、何も答えられないでいると、そのまま扉は開けられた。そして、姿を見るより先に、声で誰かわかった。

「お兄ちゃんのバカ」

 何時しかに聞いた椿姫の声だった。小百合さんの時と同様に、僕の腕に抱きついた。点滴が刺さっているので、抜けないように気を付けながら椿姫の頭をなでた。

 涙で顔をくしゃくしゃにした椿姫は、ただ僕の腕にすがりながら

「ばか」

 と言い続けた。いつもの整然とした椿姫からは想像できない子供の椿姫。その子供の椿姫が不安定になった状態なんだろう。時間をかけれ場落ち着くだろうと考えて、その時まで待ち続けた。

 ある程度泣き止むと、椿姫は持ってきていたカバンを隣の棚に置いた。そこで、僕は彼女に声をかけた。

「わざわざ来てくれてありがとうね。」

 僕の言葉に、椿姫は子供っぽく自慢げに語り始めた。

「びっくりしたんだからね。授業中に急に携帯が鳴ってさ。普段だったら絶対あり得ないから何事かと思ったけれど、授業中だからいったん無視したのね。そしたら、メッセージが送られてきてさ」

 そういうと、僕に小百合さんと椿姫との間の連絡を見せてくれた。小百合さんから鬼電のように何回も連絡が来ていた。30件近くの連絡の後に椿姫が返信すると、経った五文字で

「翔が倒れた」

 という連絡が来て、そのメッセージは終わっていた。僕がそこまで読み終えるのを確認すると、椿姫は話をつづけた。

「それで、先生にそのことを話したら、行ってきなさいっていうから授業を無視してこっちに来たんだよ。周りの視線が怖くて、教室を飛び出してきたの。」

 話がそろそろ終わるかと思ったが、何回も話をつづけ続けて、なかなかその話が途絶えなかった。途中から少し話に飽きてきたが、なるべくそのそぶりを見せないようにして椿姫の話に耳を傾け続けた。

 一通り話し終えたらしい椿姫は、僕にほおずりするようにしていった。

「だからほめて、お兄ちゃん」

 やっぱりお兄ちゃんなんだな、と思いながら椿姫の頭を無言でやさしくなでた。右腕を左側に動かすだけでも少し体がつらかったけれど、震える手で椿姫の頭を触る。感じてはいたけど、ここまで体が弱っているとは思わなかった。それでも、椿姫は純朴な声で聞いた。

「どうしてお兄ちゃんの手は震えてるの?」

 僕はその質問に答えようと思ったが、言葉をその手前で止めてしまった。本当のことを伝えることが正解ではないような気がした。嘘をつくことは得意じゃないけど、大丈夫と信じて嘘をついた。

「ちょっと疲れてるんだよ。じきによくなるから大丈夫」

 その言葉を聞いて椿姫は安心したように目を閉じて僕に身をゆだねた。これ以上心配をかけないように、左手に全神経を集中させて椿姫を離さないようにしながら、右手で軽く頭を抱き寄せるようにした。僕の体の状態を察することもなく、椿姫は僕の体に抱き着き続けた。

 少しすると、椿姫は僕の体から離れて、隣の椅子に座ってくれた。ようやく腕から力が抜けると、急に腕が落ちる。発作と対処のための点滴の影響か思うように体が動かないのが、ここまでつらいとは思わなかった。そんな僕を気にも留めずに椿姫は僕に聞いた。

「お兄ちゃんは何があったの?」

「ちょっとね」

 とりあえずその言葉だけが口から洩れたけれど、それ以上何を言うべきかわからなかった。何も言わないという選択肢はないけれど、本当のことを言うのも間違っている。嘘とも言えない範囲の言葉で伝えることにした。

「ちょっと発作が起きて倒れちゃったんだよね。まあ、そんな大したことじゃないよ」

「それならよかったよ」

 心底嬉しそうに椿姫は喜んだ。彼女の笑顔を見ると胸にチクリと痛みを感じた。けれど、これでいいんだ。何度も自分に言い聞かせた。

 ふと、椿姫は僕のベッドのそばに置いてある小説に気が付くと、手に取っていった。

「この本、お兄ちゃんが買ったの?読んでもいい?」

「あげるよ」

 僕の言葉を聞くと、椿姫は最初のページからではなく、ある程度進んだところから読み始めた。少し読んだところで本を閉じると、僕に言った。

「お兄ちゃんはこの本は読んだの?」

「多少はね」

「このキャラ、お兄ちゃんみたいだよね。」

「そうかな。別に従兄はいないけどね」

 瞬間、何かが僕の顔に当たった。僕が反応するよりも早く、椿姫は踵を返して、

「知らない!!」

 と言い残して病室を後にしてしまった。

 何がいけなかったんだろうか。僕は理解ができなかった。従兄がい兄という発言がそこまで彼女を傷つけたのだろうか。でも、僕に従兄なんて...

 その時、病室の床に一枚の写真が落ちているのが目に留まった。椿姫のかばんから落ちたのだろうか。体が動かないので、頑張ってその写真を凝視すると、二人の男女が写っていた。その写真を見た瞬間、僕の頭に火花が走るような気がした。
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