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第二章 人生とは非日常である
第六話 人の話を聞く非日常
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一呼吸おいた僕は、あの日のことを語り始めた。
「お母さんの様子が変わってから、半年ぐらいたったころ。急にあいつとお母さんが一緒に家に帰ってきたんだ。ちょうど水を飲み終えたタイミングでね。普段帰りが遅いあいつが早く帰ってきたってだけでも、驚きでいっぱいだったのに、そのあとあいつは僕に言ったんだ。僕らは離婚するってね。」
あの日のことを思い出すとやっぱり涙が出そうになる。けど、話すと決めたなら我慢して最後まで話さないと。その決意で涙を押しとどめながら話を続ける。
「しかも身勝手なあいつは、家も売り払うから、三人バラバラで過ごそうって言ったんだ。親父は小さなアパートの一室で、僕は入院、お母さんは自力で暮らすからって言って、住む場所も教えてもらえなかったんだ。それから、あいつは僕の入院手続きを勝手に進めて、一週間と立たないうちに、僕は学校を休学状態になって、入院させられたんだ。病院の外にも出られなかったけど、寝たきりにならないようになるべく病室を歩き回ったね。」
なるべくくだらない話で場を和ませる。椿姫のためというより、僕の悲しみを押し殺すためだけど。
「それから、医者とはよく話したよ。もともと入院していてもおかしくない状態だったし、この入院措置は適切だったこととか、僕の病気がどういう原因で起こっているものなのかとかね。背格好とかは親父に似ていて、一時的に嫌いになったけど、くだらない話とかであまり気にならなくなったね。
時々病室に遊びに来るあいつのことは嫌いだったよ。もう来るなって言っても何度でも来るしね。この家に来る日の前日も、あいつに全力でどなったよ。」
言い終えると、僕は安心して少しうとうとした。甘いまどろみの中にいる僕に、柔らかい声で椿姫は言う。
「こんなに重い話があるとは思わなくて、不必要に踏み込んでしまってごめんなさい。でも、おかげで翔さんの気になっていた部分は全部腑に落ちました。」
そして、彼女はなぜか室内にある電機ケトルからお湯を沸かして紅茶を入れてくれた。昨日と同じおいしい紅茶だ。
「どうしてここにケトルがあるの?」
「それは私がお母さんを起こさずに紅茶を飲むためですよ」
自慢げに言うと、紅茶を一口飲んだ。彼女に合わせて僕も紅茶を飲む。安心感が増すけど、眠気は少し落ち着くだろうか。心地よいぬくもりに浸る。
椿姫は僕の様子を確認してから、僕に問うた。
「いくつか私からの質問を聞いてもらえますか?」
「いいよ」
僕が答えると、彼女はスマホにメモした内容から質問をした。
「聞いても答えがわかる質問とも思えないものが多いんですけどね。」
そういって出てきた質問は以下のだった。
なぜあいつがこの家の鍵を持っていたのか
退院の時に医師からの説明がなかったのか
あいつは何を仕事にしているのか
そして、お母さんの様子がおかしくなった時期の再確認と、その様子について
それらの質問に順番に僕は答えた。
「あいつがこの家のことを知っていた理由は本当に分からないし、退院の時は医者に何も言われなかったね。あいつは一応ギャンブラーだと思うよ。本当のところは僕も知らない。」
そこまで話して、一度紅茶を飲む。紅茶は少し頭をさえわたらせてくれている。
「お母さんの様子が変わったのは、去年の十一月の序旬じゃないかな。最初はひどく落ち込んだ表情をすることが増えて、最後のほうには夜中に泣いていることもあったね。あと、見たこともない本を読むこともあったし、以前よりも調べ物が増えたかな。あとは、休日でも外出することが多くなったよ」
思い出せる限りの話をする。一番身近で見ていたと思っていた人間でも、意外にもその変化は説明が難しくて、もっとよく見ていればと悔やむ。
そんな僕とは別に、椿姫は椿姫で別のことに困っているようだった。
「せっかくカエルさんに話してもらったのに、私から何も話さないのは不平等でしょう。ですから私の過去について聞きたいですか?」
正直僕はためらった。お互いの秘密を打ち明けることは信頼関係を作るうえでは重要だけど、あまりに踏み込むと相互依存になる。さらには、お互い離れられなくなる危険性もある。
それらを承知したうえで、僕が出した答えはこれだった。
「じゃあ聞かせてもらおうかな。」
どうせ短命な僕だ。そのことも彼女は承知の上なのだから、依存になることもなければ、彼女からしたらあとひと月見張れば口外されない。それなら別に聞いてもいいだろうと思ったのだ。
僕の返答に覚悟を決めたように椿姫は語りだした。
「翔さんほどではないにしても、少し重い話になるのは覚悟していてくださいね。それと、私自身も情緒不安定になるかもしれないので、その時は放っといてください。」
紅茶を一口飲むと、先ほどの僕のように回想に浸りながら椿姫は語りだした。
「もう気付いているとは思いますが、私にはお父さんがいません。数年前まではいたんですけど、私が中学一年生の時に当時のはやり病でなくなりました。かかってから数日としないうちに入院し、そのまま人工呼吸状態になってからあっという間でした。それでもその短い時間の間にたくさんの人にお見舞いに来てもらいました。なかなか会えない人たちとも久しぶりに会うことができました。」
一呼吸おいてから、嫌な記憶を絞り出すように語り始める。
「お父さんがあの世に行ってからは、私は不登校になりました。部屋から出られなかったんです。リビングに行っても、お父さんの部屋に入ってもお父さんがいないという現実が受け入れられなかったんです。学校に通わない間、ただひたすらにお父さんが残してくれたものを見つけては、その思い出をかみしめ続けました。
それでも、落ち着かなくなった私は、一回だけ自殺を図りました。いっそのことお父さんと同じ世界に行こうとしたんです。けど、子供が考えるような安易な首つり装置は失敗に終わったんですよ。」
そういうと、彼女は首元にある赤い傷が見えるように襟をまくった。
「あの時ビニールテープでできた傷です。けどそれ以上に、その時は床に落ちた時の膝の打撲がつらかったですけどね。ビニールテープが切れてえ私が落ちた音を聞きつけて、お母さんは私の部屋に入りました。そして、私の様子を見て救急車を呼びました。喉がつぶれて声が出ないだけで意識はあったんですけどね。」
椿姫は苦笑をしながら、部屋の一点を見つめる。
「そのあとは緊急搬送されたものの、カウンセリングメインの日々でしたね。二週間程度カウンセリングを受けるうちに、ようやく私はお父さんのことを受け入れられるようになって、学校にも戻りました。ただ、その時の経験から、私は大きく見た目を変えて今のようになりました。昔はもう少し中学生っぽかったんですよ。」
いじわるなあどけない笑みを浮かべながら、当時のポーズらしいことをして見せた。まさに中学生といった感じの行動を椿姫から見るのはほぼ初めてで新鮮な気分だった。
「そんな見ないでください。それより、話の続きですかね。と言っても、この後は普通の人として生活していました。ただ、男性、特に中年の男性には少しだけ避けるようになりました。」
「お疲れ様」
彼女の話がすべて終わったと思い、僕は彼女にねぎらいの言葉をかけた。けど、この言葉は間違っていた。彼女は僕の言葉を無視して話をつづけた。
「もう一つ私の過去、確証はないんですが気になることがあるんですよ。私のお母さんのことなんですけどね。
私のお母さんが少し変わったなと思ったのは、去年の十月の下旬ぐらいでした。その前から少しずつ食事の量が減ったり、目の下のクマが増えていたので、よく眠るように言っていました。けれども、日に日に悪化していきました。そして、十月の28日を境に以前に増して暗い印象が強くなりました。さすがに心配になった私は、診察を進めましたけど、拒否されました。それから数日して、体調面は戻ってきました。それに、以前に増して休日は活発に外出するようになりました。私は連れて行ってもらうこともあれば、家で留守番もありました。」
少し頬に緩みを見せていた椿姫の頬が急に引き締まる。
「急に人が変わったようになったお母さんでしたけど、数か月するとまた目に見えるように体調が悪くなりました。その時私は無理やりにでも病院に行かせようとしました。それでも病院には行きませんでした。
お母さんのことが心配になり、私自身の体調管理もおろそかになっていた今年の五月、またお母さんの体調が急に良くなりました。でもその時は、もっと不思議なことがあったんです。」
そういうと、椿姫はスマホを確認しだした。そして、書いてあることを読み上げた。
「まず、使っている洗面用品やメイクが少し変わりました。同じシリーズものの中で変わったり、メーカー葉一緒の別のものになりました。それに、着ている服のセンスも少し変わりました。前よりも明るい服が増えた気がします。
そして、一番は勤務形態が変わりました。前までは事務職だから定時帰りだったのに、急にシフト制の仕事のように、夜勤が始まったんです。今は夜勤の回数が減ったので、翔さんはまだ目にしてないでしょうけど、今でも時々夜勤をしています。前までは一度もなかったんですよ。」
そこまで言うと、彼女は紅茶を口に含んでから、話を閉めた。
「私はお母さんが変わってしまった理由が気になっているんです。」
「そんなことがあったんだね」
適当な言葉を言って場をとどめながら、頭で話を整理する。椿姫は二回母親の状態の変化を目にしてきた。どちらも体調が悪くなってから、急に体調が戻って普通に活動するようになった。しかも、二回目は急に仕事の内容や身の回りのものも変わるようになった。
確かに別人に変わったという可能性はあるけれども、話を聞く限り容姿に変化わないらしいし、その可能性は低いような気がする。あまり考えたくないけれど、新しい恋人でもできたとかそんなことのような気がする。
さすがに人のお母さんのことを悪く言うのは非常に気が引けることだったので、代わりの話をした。
「実は黙っていたんだけどさ。椿姫のお父さんの話は小百合さんから聞いていたんだよね。」
紅茶を飲んでいた椿姫は落ち着いた様子で答えた。
「そうなのかなと思いました。普通ならもっと反応してもいい話なので、私の話に興味がないのかと思いましたよ」
少しの沈黙から、僕は一言つぶやいた。
「お互いにすごい人生だな」
椿姫には聞こえないとようにしたつもりだったけれど、聞こえていたようで
「まさにそうですね。もっと落ち着いた人生であってほしいものです。急に居候が来たりするのも困るんですけど」
と冗談か本気かわからないことをいう。僕が困惑していると、椿姫はくすっと笑う。
「冗談ですよ。それよりそろそろお開きにしますか?」
椿姫は自分のスマホを確認していった。僕も時計を確認しようとあたりを見回していると、椿姫がスマホを見せてくれた。話し始めたのは十時ぐらいだったはずなのに、すでに明日を迎えようとしていた。
「そろそろ寝ないと体に悪いからね」
帰り支度をしようと僕が椿姫に言うと、椿姫はベッドに飛び込んでから、ベッドに転がっていた大きいかわうそのぬいぐるみを渡してきた。
「もこちゃんですよ。抱きしめると落ち着きますよ」
僕は迷いながらもそれを受け取ると、少し抱きしめた。椿姫のにおいがこもっているので、罪悪感を覚えてしまい、すぐに椿姫に返してあげた。すると、椿姫はもこちゃんについて教えてくれた。
「もこちゃんはお父さんがなくなる前の最後の誕生日で、お父さんが私にくれたものでした。それ以外の誕生日プレゼントは使わなくなってしまうものが多くてもったいないと思うんですけど、これだけはずっと使えるので大事にしています。お父さんの大切な思い出なんです。」
いつの間にかベッドフレームに座っていた椿姫は、自分の隣をポンポンとたたいた。
「いいの?」
と僕が聞くと、椿姫は
「わかっているならわざわざ聞かないでくださいよ。どれだけ鈍感なんですか」
とあきれてしまった。僕は恥ずかしさや罪悪感を抱えつつも椿姫の隣に座ると、椿姫はもこちゃんを抱きしめながら僕に寄りかかってきた。もたれかかってきた椿姫を支えながら、僕は椿姫の頭をなでた。昨日以上に椿姫のにおいを、肌を近くで感じているせいで緊張してしまうけれど、なるべく平常心を装った。そんな僕に追い打ちをかけるように椿姫はつぶやく。
「こういうところはわかるんですね。お兄ちゃん」
お兄ちゃん。そうはっきりと聞こえた。椿姫に兄がいたなんて話は一度も聞いたことがない。何かの幻想なのかなと思うけど、言葉尻からして僕を指しているので間違いなさそうだし、余計に困惑する。
そんな僕を置いて、満足した様子の椿姫は眠そうな甘い声で僕に指示した。
「今日はもう帰っていいよ~。明日は数学教えてね。」
椿姫が僕の肩から離れると、ドサッという音ともに、椿姫はもこちゃんを抱きしめたままベッドに横たわった、椿姫を起こさないように、椿姫の部屋の電気を消すと、僕は椿姫の部屋を後にした。
自分の部屋のドアノブを回して、いつもの空間に戻ってくる。スリープ状態になっているパソコンの電源を付けると、ブログに新しい書き込みをする。今日の出来事について、なるべく椿姫の内容は書かないように気を付けながら記事を書く。
記事の投稿が終わると、パソコンは閉じて勉強計画帳を開く。今日の進捗は思った以上に悪くはなかったけれど、マークミスをしたことは結構大きかった。余白部分にこれから気を付けることとして書き留めておく。
今日のやることがちょうど終わったタイミングで、遠くから終電の通る音がした。日付の変更よりも終電が通ったタイミングのほうが一日の終わりを感じる。これで日本が急速に入る合図のように感じられて、僕の休息を正当化してくれるような気がする。
僕は単語帳をもってベッドに入ったけど、単語帳は開かずに椿姫のことを考えた。小百合さんのこと、椿姫の精神状態、それに椿姫の"お兄ちゃん"のこと。どれも謎が多い。なるべくなら少しでも謎を解いて死にたいなぁ。
僕の部屋に小さな夜が訪れていた。
「お母さんの様子が変わってから、半年ぐらいたったころ。急にあいつとお母さんが一緒に家に帰ってきたんだ。ちょうど水を飲み終えたタイミングでね。普段帰りが遅いあいつが早く帰ってきたってだけでも、驚きでいっぱいだったのに、そのあとあいつは僕に言ったんだ。僕らは離婚するってね。」
あの日のことを思い出すとやっぱり涙が出そうになる。けど、話すと決めたなら我慢して最後まで話さないと。その決意で涙を押しとどめながら話を続ける。
「しかも身勝手なあいつは、家も売り払うから、三人バラバラで過ごそうって言ったんだ。親父は小さなアパートの一室で、僕は入院、お母さんは自力で暮らすからって言って、住む場所も教えてもらえなかったんだ。それから、あいつは僕の入院手続きを勝手に進めて、一週間と立たないうちに、僕は学校を休学状態になって、入院させられたんだ。病院の外にも出られなかったけど、寝たきりにならないようになるべく病室を歩き回ったね。」
なるべくくだらない話で場を和ませる。椿姫のためというより、僕の悲しみを押し殺すためだけど。
「それから、医者とはよく話したよ。もともと入院していてもおかしくない状態だったし、この入院措置は適切だったこととか、僕の病気がどういう原因で起こっているものなのかとかね。背格好とかは親父に似ていて、一時的に嫌いになったけど、くだらない話とかであまり気にならなくなったね。
時々病室に遊びに来るあいつのことは嫌いだったよ。もう来るなって言っても何度でも来るしね。この家に来る日の前日も、あいつに全力でどなったよ。」
言い終えると、僕は安心して少しうとうとした。甘いまどろみの中にいる僕に、柔らかい声で椿姫は言う。
「こんなに重い話があるとは思わなくて、不必要に踏み込んでしまってごめんなさい。でも、おかげで翔さんの気になっていた部分は全部腑に落ちました。」
そして、彼女はなぜか室内にある電機ケトルからお湯を沸かして紅茶を入れてくれた。昨日と同じおいしい紅茶だ。
「どうしてここにケトルがあるの?」
「それは私がお母さんを起こさずに紅茶を飲むためですよ」
自慢げに言うと、紅茶を一口飲んだ。彼女に合わせて僕も紅茶を飲む。安心感が増すけど、眠気は少し落ち着くだろうか。心地よいぬくもりに浸る。
椿姫は僕の様子を確認してから、僕に問うた。
「いくつか私からの質問を聞いてもらえますか?」
「いいよ」
僕が答えると、彼女はスマホにメモした内容から質問をした。
「聞いても答えがわかる質問とも思えないものが多いんですけどね。」
そういって出てきた質問は以下のだった。
なぜあいつがこの家の鍵を持っていたのか
退院の時に医師からの説明がなかったのか
あいつは何を仕事にしているのか
そして、お母さんの様子がおかしくなった時期の再確認と、その様子について
それらの質問に順番に僕は答えた。
「あいつがこの家のことを知っていた理由は本当に分からないし、退院の時は医者に何も言われなかったね。あいつは一応ギャンブラーだと思うよ。本当のところは僕も知らない。」
そこまで話して、一度紅茶を飲む。紅茶は少し頭をさえわたらせてくれている。
「お母さんの様子が変わったのは、去年の十一月の序旬じゃないかな。最初はひどく落ち込んだ表情をすることが増えて、最後のほうには夜中に泣いていることもあったね。あと、見たこともない本を読むこともあったし、以前よりも調べ物が増えたかな。あとは、休日でも外出することが多くなったよ」
思い出せる限りの話をする。一番身近で見ていたと思っていた人間でも、意外にもその変化は説明が難しくて、もっとよく見ていればと悔やむ。
そんな僕とは別に、椿姫は椿姫で別のことに困っているようだった。
「せっかくカエルさんに話してもらったのに、私から何も話さないのは不平等でしょう。ですから私の過去について聞きたいですか?」
正直僕はためらった。お互いの秘密を打ち明けることは信頼関係を作るうえでは重要だけど、あまりに踏み込むと相互依存になる。さらには、お互い離れられなくなる危険性もある。
それらを承知したうえで、僕が出した答えはこれだった。
「じゃあ聞かせてもらおうかな。」
どうせ短命な僕だ。そのことも彼女は承知の上なのだから、依存になることもなければ、彼女からしたらあとひと月見張れば口外されない。それなら別に聞いてもいいだろうと思ったのだ。
僕の返答に覚悟を決めたように椿姫は語りだした。
「翔さんほどではないにしても、少し重い話になるのは覚悟していてくださいね。それと、私自身も情緒不安定になるかもしれないので、その時は放っといてください。」
紅茶を一口飲むと、先ほどの僕のように回想に浸りながら椿姫は語りだした。
「もう気付いているとは思いますが、私にはお父さんがいません。数年前まではいたんですけど、私が中学一年生の時に当時のはやり病でなくなりました。かかってから数日としないうちに入院し、そのまま人工呼吸状態になってからあっという間でした。それでもその短い時間の間にたくさんの人にお見舞いに来てもらいました。なかなか会えない人たちとも久しぶりに会うことができました。」
一呼吸おいてから、嫌な記憶を絞り出すように語り始める。
「お父さんがあの世に行ってからは、私は不登校になりました。部屋から出られなかったんです。リビングに行っても、お父さんの部屋に入ってもお父さんがいないという現実が受け入れられなかったんです。学校に通わない間、ただひたすらにお父さんが残してくれたものを見つけては、その思い出をかみしめ続けました。
それでも、落ち着かなくなった私は、一回だけ自殺を図りました。いっそのことお父さんと同じ世界に行こうとしたんです。けど、子供が考えるような安易な首つり装置は失敗に終わったんですよ。」
そういうと、彼女は首元にある赤い傷が見えるように襟をまくった。
「あの時ビニールテープでできた傷です。けどそれ以上に、その時は床に落ちた時の膝の打撲がつらかったですけどね。ビニールテープが切れてえ私が落ちた音を聞きつけて、お母さんは私の部屋に入りました。そして、私の様子を見て救急車を呼びました。喉がつぶれて声が出ないだけで意識はあったんですけどね。」
椿姫は苦笑をしながら、部屋の一点を見つめる。
「そのあとは緊急搬送されたものの、カウンセリングメインの日々でしたね。二週間程度カウンセリングを受けるうちに、ようやく私はお父さんのことを受け入れられるようになって、学校にも戻りました。ただ、その時の経験から、私は大きく見た目を変えて今のようになりました。昔はもう少し中学生っぽかったんですよ。」
いじわるなあどけない笑みを浮かべながら、当時のポーズらしいことをして見せた。まさに中学生といった感じの行動を椿姫から見るのはほぼ初めてで新鮮な気分だった。
「そんな見ないでください。それより、話の続きですかね。と言っても、この後は普通の人として生活していました。ただ、男性、特に中年の男性には少しだけ避けるようになりました。」
「お疲れ様」
彼女の話がすべて終わったと思い、僕は彼女にねぎらいの言葉をかけた。けど、この言葉は間違っていた。彼女は僕の言葉を無視して話をつづけた。
「もう一つ私の過去、確証はないんですが気になることがあるんですよ。私のお母さんのことなんですけどね。
私のお母さんが少し変わったなと思ったのは、去年の十月の下旬ぐらいでした。その前から少しずつ食事の量が減ったり、目の下のクマが増えていたので、よく眠るように言っていました。けれども、日に日に悪化していきました。そして、十月の28日を境に以前に増して暗い印象が強くなりました。さすがに心配になった私は、診察を進めましたけど、拒否されました。それから数日して、体調面は戻ってきました。それに、以前に増して休日は活発に外出するようになりました。私は連れて行ってもらうこともあれば、家で留守番もありました。」
少し頬に緩みを見せていた椿姫の頬が急に引き締まる。
「急に人が変わったようになったお母さんでしたけど、数か月するとまた目に見えるように体調が悪くなりました。その時私は無理やりにでも病院に行かせようとしました。それでも病院には行きませんでした。
お母さんのことが心配になり、私自身の体調管理もおろそかになっていた今年の五月、またお母さんの体調が急に良くなりました。でもその時は、もっと不思議なことがあったんです。」
そういうと、椿姫はスマホを確認しだした。そして、書いてあることを読み上げた。
「まず、使っている洗面用品やメイクが少し変わりました。同じシリーズものの中で変わったり、メーカー葉一緒の別のものになりました。それに、着ている服のセンスも少し変わりました。前よりも明るい服が増えた気がします。
そして、一番は勤務形態が変わりました。前までは事務職だから定時帰りだったのに、急にシフト制の仕事のように、夜勤が始まったんです。今は夜勤の回数が減ったので、翔さんはまだ目にしてないでしょうけど、今でも時々夜勤をしています。前までは一度もなかったんですよ。」
そこまで言うと、彼女は紅茶を口に含んでから、話を閉めた。
「私はお母さんが変わってしまった理由が気になっているんです。」
「そんなことがあったんだね」
適当な言葉を言って場をとどめながら、頭で話を整理する。椿姫は二回母親の状態の変化を目にしてきた。どちらも体調が悪くなってから、急に体調が戻って普通に活動するようになった。しかも、二回目は急に仕事の内容や身の回りのものも変わるようになった。
確かに別人に変わったという可能性はあるけれども、話を聞く限り容姿に変化わないらしいし、その可能性は低いような気がする。あまり考えたくないけれど、新しい恋人でもできたとかそんなことのような気がする。
さすがに人のお母さんのことを悪く言うのは非常に気が引けることだったので、代わりの話をした。
「実は黙っていたんだけどさ。椿姫のお父さんの話は小百合さんから聞いていたんだよね。」
紅茶を飲んでいた椿姫は落ち着いた様子で答えた。
「そうなのかなと思いました。普通ならもっと反応してもいい話なので、私の話に興味がないのかと思いましたよ」
少しの沈黙から、僕は一言つぶやいた。
「お互いにすごい人生だな」
椿姫には聞こえないとようにしたつもりだったけれど、聞こえていたようで
「まさにそうですね。もっと落ち着いた人生であってほしいものです。急に居候が来たりするのも困るんですけど」
と冗談か本気かわからないことをいう。僕が困惑していると、椿姫はくすっと笑う。
「冗談ですよ。それよりそろそろお開きにしますか?」
椿姫は自分のスマホを確認していった。僕も時計を確認しようとあたりを見回していると、椿姫がスマホを見せてくれた。話し始めたのは十時ぐらいだったはずなのに、すでに明日を迎えようとしていた。
「そろそろ寝ないと体に悪いからね」
帰り支度をしようと僕が椿姫に言うと、椿姫はベッドに飛び込んでから、ベッドに転がっていた大きいかわうそのぬいぐるみを渡してきた。
「もこちゃんですよ。抱きしめると落ち着きますよ」
僕は迷いながらもそれを受け取ると、少し抱きしめた。椿姫のにおいがこもっているので、罪悪感を覚えてしまい、すぐに椿姫に返してあげた。すると、椿姫はもこちゃんについて教えてくれた。
「もこちゃんはお父さんがなくなる前の最後の誕生日で、お父さんが私にくれたものでした。それ以外の誕生日プレゼントは使わなくなってしまうものが多くてもったいないと思うんですけど、これだけはずっと使えるので大事にしています。お父さんの大切な思い出なんです。」
いつの間にかベッドフレームに座っていた椿姫は、自分の隣をポンポンとたたいた。
「いいの?」
と僕が聞くと、椿姫は
「わかっているならわざわざ聞かないでくださいよ。どれだけ鈍感なんですか」
とあきれてしまった。僕は恥ずかしさや罪悪感を抱えつつも椿姫の隣に座ると、椿姫はもこちゃんを抱きしめながら僕に寄りかかってきた。もたれかかってきた椿姫を支えながら、僕は椿姫の頭をなでた。昨日以上に椿姫のにおいを、肌を近くで感じているせいで緊張してしまうけれど、なるべく平常心を装った。そんな僕に追い打ちをかけるように椿姫はつぶやく。
「こういうところはわかるんですね。お兄ちゃん」
お兄ちゃん。そうはっきりと聞こえた。椿姫に兄がいたなんて話は一度も聞いたことがない。何かの幻想なのかなと思うけど、言葉尻からして僕を指しているので間違いなさそうだし、余計に困惑する。
そんな僕を置いて、満足した様子の椿姫は眠そうな甘い声で僕に指示した。
「今日はもう帰っていいよ~。明日は数学教えてね。」
椿姫が僕の肩から離れると、ドサッという音ともに、椿姫はもこちゃんを抱きしめたままベッドに横たわった、椿姫を起こさないように、椿姫の部屋の電気を消すと、僕は椿姫の部屋を後にした。
自分の部屋のドアノブを回して、いつもの空間に戻ってくる。スリープ状態になっているパソコンの電源を付けると、ブログに新しい書き込みをする。今日の出来事について、なるべく椿姫の内容は書かないように気を付けながら記事を書く。
記事の投稿が終わると、パソコンは閉じて勉強計画帳を開く。今日の進捗は思った以上に悪くはなかったけれど、マークミスをしたことは結構大きかった。余白部分にこれから気を付けることとして書き留めておく。
今日のやることがちょうど終わったタイミングで、遠くから終電の通る音がした。日付の変更よりも終電が通ったタイミングのほうが一日の終わりを感じる。これで日本が急速に入る合図のように感じられて、僕の休息を正当化してくれるような気がする。
僕は単語帳をもってベッドに入ったけど、単語帳は開かずに椿姫のことを考えた。小百合さんのこと、椿姫の精神状態、それに椿姫の"お兄ちゃん"のこと。どれも謎が多い。なるべくなら少しでも謎を解いて死にたいなぁ。
僕の部屋に小さな夜が訪れていた。
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