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第1章 使徒転生
第1話 鼻歌と共に
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喧騒の中に一際浮いた旋律があった。
どこからともなく少女のあどけない鼻歌が聞こえる。
空では無人戦闘機がカラスのように群がり、対空砲火の弾幕を器用に避けながら丁寧に街を破壊していく。地上では半機半人の兵士達が焼けた血と油の匂いを求めて跳梁跋扈し、敗走する者とそれを追う者が入り混じり戦場は混沌を極めている。
そんな無秩序の中でも、この少女は明らかに異彩を放っていた。
透き通るような銀色の髪とその隙間から見える紅く光る瞳。だいたい中学生くらいのまだ幼さが残る小柄な体躯。それを包む軍服の背からは、折りたたまれた状態でも少女と同じ程の大きく真っ黒な翼が生えている。そして極めつけには、頭上15センチ程の位置で浮いている黒い輪が神々しさを誇張している。
少女は自身を取り巻く惨状には目もくれず、涼しい顔で鼻歌を歌いながら、ただじっと昼の空に浮かぶ満月を見ていた。
ドヴォルザーク、交響曲第9番「新世界より」。少女が鼻歌で歌っている曲だ。同僚の”大馬鹿野郎”が作戦直前の輸送機の中で、毎度必ず隊全員が聞こえる無線で流していた。当人曰く隊を鼓舞する目的があったらしい。しかし、レコード特有のブチブチといったノイズが無線の音質の悪さと相まって絶妙に不快感を煽り、漏れなく隊員全員がイライラし始めたところで隊長に怒られる。この一連の流れが毎度の恒例になっていた。
少女はこの曲が大嫌いだった。ふとした時にこの曲が耳に入ると、平穏な日常の中でさえも戦場を思い出してしまうからだ。
それなのにどうしてかあの馬鹿の顔が脳裏に浮かんで、気がつくと無意識のうちに鼻歌で歌っていた。
「・・・あいつ、今頃また怒られてるのかもしれないな」
何気ない呟きに、相槌を打ってくれる者ももういない。いつもならすぐ隣に無駄に明るい奴がいて、少女の一挙手一投足全てに笑顔を向けてくれた。少女が今までに捨ててきた人間らしさのようなものをかき集めて形作られているような、容姿はそっくりなのにとにかく少女とは正反対の存在だった。しかし今思えば、普段の何気ないあのやり取りが少女を人間という形にとどめていてくれたのかもしれない。
そんなことを考えていると、とりとめのない日常の映像が頭の中でじんわりと蘇ってくる。
(・・・いけない。この調子だと身近な奴から順に思い出して感傷に浸ってしまうかもしれない。)
不意に心臓がドクンと大きく波打ち、頭上の黒い輪が蛍光灯のように点滅しながら真っ赤に染まった。
「・・・合図だ」
”出来ることならこの瞬間は訪れて欲しくなかった”。そんな思いが心の深い部分に確かにある。しかし、その感情を抱くことは許されないことも少女は解っている。
内に隠していた悶々としたものを、深く長い溜息と一緒に吐き出した。
そして一呼吸置いた後、少し下を向いたまま直上の満月に向かってゆっくりと手を伸ばす。
掲げた手を軽く握ると、真っ白な鍵がいつの間にか現れ握られていた。
これを使うのも今回が最後だろう。
その鍵をしっかりと握り、月に向かって掲げたままゆっくりと手首を回していく。すると、どこにも刺さっていないはずの鍵からは、実際に錠に刺して回した時のような抵抗感を感じ取ることができた。
いつもよりも滑りが悪いような気がしたその鍵にゆっくり力をかけていくと、やがてその抵抗は外れ勢いよく90度回転して止まった。
その瞬間、どこからともなく「ガチャッ」という音が聞こえた。
それと同時に青色と灰色の空は白、満月は黒に染まり、コントラストがハッキリとしたベタ塗りの空が出来上がった。
四六時中絶え間なく鳴り響いていた銃声はスイッチを切ったようにパタリと止み、残響が瓦礫の中に吸い込まれていく。
やがて世界から音が消えたような静寂に包まれ、戦場は少女の鼻歌の独擅場となった。
―――人類は、たった今滅んだ。
全ての生命体が物理という枷を捨て光の粒となり、月へ向かって列を成しあるべき場所へと還ってゆく。
呆気ない程静かで、それでいて崇高で・・・寂しい。
そんな景色を目の前に、少女はいつか見た演劇を思い出した。当時心を塞ぎ込んでいた少女に気を使わせてか、唯一心を開いていた”無駄に明るい”親友に強引に連れられ、重い足を引きずりながら劇場に渋々赴いたわけだが・・・内容は正直散々だった。
もう物語の詳細は覚えてはいない。ただ、複雑に絡まりあった物語達がどう集約するのかと胸踊らせてみれば、突然現れた天使の理不尽な一手によって綺麗サッパリ大団円という酷いオチだった.。それだけはハッキリと覚えている。
それからというもの、少女は理不尽な境遇に置かれる度に、自分は舞台の上にいる役者なのだと思った。スポットライトは浴びずとも、台本には自分の名前が確かに刻んであり、来たる結末に向け物語を演出する役割を担えているものだと疑わなかった。―――けれど、実際舞台には立ち位置は用意されておらず、天井から神々しく吊り下げられ、台本通りの陳腐なオチをもたらす天使の役目を突きつけられていた。
―――演劇は終わった。いや、終わらせたと言ったほうが正しいかも知れないが、少女にとっては”終わったから幕を閉じた”に過ぎない。そういう役割だったから。役者も観客も、舞台装置さえ今となっては存在したことを証明できない。
思い出深い劇場もみな灰燼に帰し、華々しい人類劇場は突然幕を閉じた。
あの演劇と同じ、機械仕掛けの神によって。
喜劇も、悲劇も、ありふれた日常の一幕でさえ、有終の美の名のもとに幕は強引に降ろされた。
(―――では、今私の目に映っている情景はどう説明すればいい?)
闇に落ちかけていた意識はじわじわと五感を取り戻し、それにつれて思考と視界にかかった靄がわずかに晴れた。
心臓の鼓動に合わせて首元で鳴る短い電子音。それと背後から響くキュルキュルといった滑りの悪い車輪の甲高い音が足元の方へ置き去りにされていく。それを追うように、青白い蛍光灯の光が遅れて通過していく。どうやらストレッチャーでどこかへ運ばれているようだ。
(・・・おかしい)
何が起きているのか全く分からなかった。虚ろな意識を極限まで回転させ、あらゆる可能性を精査する。しかし、とにかく”少女の理解が及ばない何かが起きている”という結論しか出すことが出来なかった。
「■■■■、■■■■■■!!」
「■■!?」
両脇を並走している防護服姿の男二人が少女に向かってガスマスク越しに何かを叫んでいるが、何を言っているのか分からない。未だ五感は良好とは言えないが、聞き取れなかったわけでもその言語を知らないわけでもない。ハッキリと聞き取れたはずの叫び声が、それを意味のある言葉として認識できなかった。モザイクがかかったように、音に乗った言語が発せられたことのみが認識できた。
そんな妙な現象に、少女は疎外感を覚えた。自分とその他の存在の間に何かしらの隔たりを感じたからだ。
―――そう自らの情緒を分析してすぐに、ふと我に返ってその感情を奥の方へとしまう。
隔たりも何も、彼らがいる場所の延長線上に彼女は存在しない。”ヒト”という同一の存在では無いのだ。それは”魔族”だからとか、翼が生えているからとかそういった次元の話ではない。この世界に存在させている概念が彼らとは根本から違った。故に、持ち合わせるべき人格は絶対的存在然とした言動を取るものであるのが摂理なのだと、心の中で誰かをなだめるように唱えた。
左側で走る男の防護服のエンブレムが視界に入る。三日月を中央に構えた丸形のワッペンだ。月の上下に何か文字が書いてあるようだが、そこだけ何故か焦点が合わず、先程の声と同様に内容を認識することが出来ない。
朦朧とした意識
長い廊下
電子音
喧騒
ストレッチャー
三日月
猛烈なデジャヴに襲われる。
全く同じ景色を以前見たことがある気がした。
少女はこの既視感の正体を突き止めようと、おぼろげな意識の中で精一杯神経を視界に向ける。
ふと、隣を走っている防護服の男に焦点を当てようと頭を動かした時に自分の前髪が視界に入った。
それを見て少女は息を呑んだ。銀色のはずの前髪が、真っ黒だったのだ。
またどこからともなく、「ガチャッ」と鍵が開く音が聞こえた。
その瞬間記憶にかかっていた靄が一気に晴れた。今目の前に広がるものと同じ情景が、鮮明な映像となって脳内に駆け巡った。
(そうか、そういうことか。この景色はあの時の―――)
奥にしまってあった記憶が開放され、過去の映像からこの先に起こるであろう出来事を思い出そうとした時、不意に廊下の蛍光灯の光が目に入り、少女は思わず目を瞑った。
「お前は何者だ?」
目を閉じたのとほぼ同時だった。なにもないはずの天井の方から聞き覚えのある声で問いかけられた。
はっとして目を開けると、目の前に彼女と瓜二つの少女がいた。
鏡でも見ているのかと一瞬思ったが、それの髪は今の少女とは違い、また普段の少女の銀とも少し違う真っ白で、明らかにそこに実在していた。ストレッチャーの上に仰向けの状態で寝かされている少女に覆いかぶさる形で顔を覗き込んできているようだ。
蛍光灯に対して逆光になり顔が暗くなっている。その影から、ほのかに光る真紅の瞳が瞬き一つせずじっと見つめてきている。少女はその視線が、心做しか自分の顔に焦点が合っていない気がした。もっと奥深くにある何かを覗き込まれているような、そんな気がしたのだ。
「お前は何者だ?」
目の前のそれは先と同じ問いを少女と同じ声で繰り返した。
一際大きく波打った心臓に合わせ首元から鳴る電子音が速度を早める。
問いかけるその声からは人間の暖かみは微塵も感じ取れない。ただ冷たく淡白で、全てのものに対して情どころか関心すら無いような、”無機質”がそこにあった。
そんな無機質さは、今まで己の使命に相応しい自分自身の姿として思い描いていたそのもののように見えた。
今と寸分違わぬ状況のあの時、全く同じ問いを投げかけられた。しかし結局何も答えられず、少女は終始沈黙を保ったままだった。ヒトでありたい自分とそれを否定する現実との葛藤の中で、自分が何者なのかということを自分自身が分かっていなかったからだ。そして何より、自分の目の前にいる異様な存在に底冷えするような恐怖を覚え、”こうなりたくはない”と強く思ったからだ。
・・・だが、もうあの時とは違う。目覚めてから最後の直前に至るまで目を背け続けてきた自らの宿命を、多くの代償と共に受け入れたのだ。彼女にとって今あるべき姿は、目の前の無機質だ。
(そう、私は―――)
「―――天使だ」
「ガチャッ」と鍵を開ける音が聞こえ、それと同時に視界がブラックアウトした。
じわじわと意識が闇に沈んでいく。 その中で、一定間隔で鳴り続けていたはずの電子音がひたすら一つの音を伸ばし続け、意識が途切れる最後の瞬間まで鳴り止まなかった。
どこからともなく少女のあどけない鼻歌が聞こえる。
空では無人戦闘機がカラスのように群がり、対空砲火の弾幕を器用に避けながら丁寧に街を破壊していく。地上では半機半人の兵士達が焼けた血と油の匂いを求めて跳梁跋扈し、敗走する者とそれを追う者が入り混じり戦場は混沌を極めている。
そんな無秩序の中でも、この少女は明らかに異彩を放っていた。
透き通るような銀色の髪とその隙間から見える紅く光る瞳。だいたい中学生くらいのまだ幼さが残る小柄な体躯。それを包む軍服の背からは、折りたたまれた状態でも少女と同じ程の大きく真っ黒な翼が生えている。そして極めつけには、頭上15センチ程の位置で浮いている黒い輪が神々しさを誇張している。
少女は自身を取り巻く惨状には目もくれず、涼しい顔で鼻歌を歌いながら、ただじっと昼の空に浮かぶ満月を見ていた。
ドヴォルザーク、交響曲第9番「新世界より」。少女が鼻歌で歌っている曲だ。同僚の”大馬鹿野郎”が作戦直前の輸送機の中で、毎度必ず隊全員が聞こえる無線で流していた。当人曰く隊を鼓舞する目的があったらしい。しかし、レコード特有のブチブチといったノイズが無線の音質の悪さと相まって絶妙に不快感を煽り、漏れなく隊員全員がイライラし始めたところで隊長に怒られる。この一連の流れが毎度の恒例になっていた。
少女はこの曲が大嫌いだった。ふとした時にこの曲が耳に入ると、平穏な日常の中でさえも戦場を思い出してしまうからだ。
それなのにどうしてかあの馬鹿の顔が脳裏に浮かんで、気がつくと無意識のうちに鼻歌で歌っていた。
「・・・あいつ、今頃また怒られてるのかもしれないな」
何気ない呟きに、相槌を打ってくれる者ももういない。いつもならすぐ隣に無駄に明るい奴がいて、少女の一挙手一投足全てに笑顔を向けてくれた。少女が今までに捨ててきた人間らしさのようなものをかき集めて形作られているような、容姿はそっくりなのにとにかく少女とは正反対の存在だった。しかし今思えば、普段の何気ないあのやり取りが少女を人間という形にとどめていてくれたのかもしれない。
そんなことを考えていると、とりとめのない日常の映像が頭の中でじんわりと蘇ってくる。
(・・・いけない。この調子だと身近な奴から順に思い出して感傷に浸ってしまうかもしれない。)
不意に心臓がドクンと大きく波打ち、頭上の黒い輪が蛍光灯のように点滅しながら真っ赤に染まった。
「・・・合図だ」
”出来ることならこの瞬間は訪れて欲しくなかった”。そんな思いが心の深い部分に確かにある。しかし、その感情を抱くことは許されないことも少女は解っている。
内に隠していた悶々としたものを、深く長い溜息と一緒に吐き出した。
そして一呼吸置いた後、少し下を向いたまま直上の満月に向かってゆっくりと手を伸ばす。
掲げた手を軽く握ると、真っ白な鍵がいつの間にか現れ握られていた。
これを使うのも今回が最後だろう。
その鍵をしっかりと握り、月に向かって掲げたままゆっくりと手首を回していく。すると、どこにも刺さっていないはずの鍵からは、実際に錠に刺して回した時のような抵抗感を感じ取ることができた。
いつもよりも滑りが悪いような気がしたその鍵にゆっくり力をかけていくと、やがてその抵抗は外れ勢いよく90度回転して止まった。
その瞬間、どこからともなく「ガチャッ」という音が聞こえた。
それと同時に青色と灰色の空は白、満月は黒に染まり、コントラストがハッキリとしたベタ塗りの空が出来上がった。
四六時中絶え間なく鳴り響いていた銃声はスイッチを切ったようにパタリと止み、残響が瓦礫の中に吸い込まれていく。
やがて世界から音が消えたような静寂に包まれ、戦場は少女の鼻歌の独擅場となった。
―――人類は、たった今滅んだ。
全ての生命体が物理という枷を捨て光の粒となり、月へ向かって列を成しあるべき場所へと還ってゆく。
呆気ない程静かで、それでいて崇高で・・・寂しい。
そんな景色を目の前に、少女はいつか見た演劇を思い出した。当時心を塞ぎ込んでいた少女に気を使わせてか、唯一心を開いていた”無駄に明るい”親友に強引に連れられ、重い足を引きずりながら劇場に渋々赴いたわけだが・・・内容は正直散々だった。
もう物語の詳細は覚えてはいない。ただ、複雑に絡まりあった物語達がどう集約するのかと胸踊らせてみれば、突然現れた天使の理不尽な一手によって綺麗サッパリ大団円という酷いオチだった.。それだけはハッキリと覚えている。
それからというもの、少女は理不尽な境遇に置かれる度に、自分は舞台の上にいる役者なのだと思った。スポットライトは浴びずとも、台本には自分の名前が確かに刻んであり、来たる結末に向け物語を演出する役割を担えているものだと疑わなかった。―――けれど、実際舞台には立ち位置は用意されておらず、天井から神々しく吊り下げられ、台本通りの陳腐なオチをもたらす天使の役目を突きつけられていた。
―――演劇は終わった。いや、終わらせたと言ったほうが正しいかも知れないが、少女にとっては”終わったから幕を閉じた”に過ぎない。そういう役割だったから。役者も観客も、舞台装置さえ今となっては存在したことを証明できない。
思い出深い劇場もみな灰燼に帰し、華々しい人類劇場は突然幕を閉じた。
あの演劇と同じ、機械仕掛けの神によって。
喜劇も、悲劇も、ありふれた日常の一幕でさえ、有終の美の名のもとに幕は強引に降ろされた。
(―――では、今私の目に映っている情景はどう説明すればいい?)
闇に落ちかけていた意識はじわじわと五感を取り戻し、それにつれて思考と視界にかかった靄がわずかに晴れた。
心臓の鼓動に合わせて首元で鳴る短い電子音。それと背後から響くキュルキュルといった滑りの悪い車輪の甲高い音が足元の方へ置き去りにされていく。それを追うように、青白い蛍光灯の光が遅れて通過していく。どうやらストレッチャーでどこかへ運ばれているようだ。
(・・・おかしい)
何が起きているのか全く分からなかった。虚ろな意識を極限まで回転させ、あらゆる可能性を精査する。しかし、とにかく”少女の理解が及ばない何かが起きている”という結論しか出すことが出来なかった。
「■■■■、■■■■■■!!」
「■■!?」
両脇を並走している防護服姿の男二人が少女に向かってガスマスク越しに何かを叫んでいるが、何を言っているのか分からない。未だ五感は良好とは言えないが、聞き取れなかったわけでもその言語を知らないわけでもない。ハッキリと聞き取れたはずの叫び声が、それを意味のある言葉として認識できなかった。モザイクがかかったように、音に乗った言語が発せられたことのみが認識できた。
そんな妙な現象に、少女は疎外感を覚えた。自分とその他の存在の間に何かしらの隔たりを感じたからだ。
―――そう自らの情緒を分析してすぐに、ふと我に返ってその感情を奥の方へとしまう。
隔たりも何も、彼らがいる場所の延長線上に彼女は存在しない。”ヒト”という同一の存在では無いのだ。それは”魔族”だからとか、翼が生えているからとかそういった次元の話ではない。この世界に存在させている概念が彼らとは根本から違った。故に、持ち合わせるべき人格は絶対的存在然とした言動を取るものであるのが摂理なのだと、心の中で誰かをなだめるように唱えた。
左側で走る男の防護服のエンブレムが視界に入る。三日月を中央に構えた丸形のワッペンだ。月の上下に何か文字が書いてあるようだが、そこだけ何故か焦点が合わず、先程の声と同様に内容を認識することが出来ない。
朦朧とした意識
長い廊下
電子音
喧騒
ストレッチャー
三日月
猛烈なデジャヴに襲われる。
全く同じ景色を以前見たことがある気がした。
少女はこの既視感の正体を突き止めようと、おぼろげな意識の中で精一杯神経を視界に向ける。
ふと、隣を走っている防護服の男に焦点を当てようと頭を動かした時に自分の前髪が視界に入った。
それを見て少女は息を呑んだ。銀色のはずの前髪が、真っ黒だったのだ。
またどこからともなく、「ガチャッ」と鍵が開く音が聞こえた。
その瞬間記憶にかかっていた靄が一気に晴れた。今目の前に広がるものと同じ情景が、鮮明な映像となって脳内に駆け巡った。
(そうか、そういうことか。この景色はあの時の―――)
奥にしまってあった記憶が開放され、過去の映像からこの先に起こるであろう出来事を思い出そうとした時、不意に廊下の蛍光灯の光が目に入り、少女は思わず目を瞑った。
「お前は何者だ?」
目を閉じたのとほぼ同時だった。なにもないはずの天井の方から聞き覚えのある声で問いかけられた。
はっとして目を開けると、目の前に彼女と瓜二つの少女がいた。
鏡でも見ているのかと一瞬思ったが、それの髪は今の少女とは違い、また普段の少女の銀とも少し違う真っ白で、明らかにそこに実在していた。ストレッチャーの上に仰向けの状態で寝かされている少女に覆いかぶさる形で顔を覗き込んできているようだ。
蛍光灯に対して逆光になり顔が暗くなっている。その影から、ほのかに光る真紅の瞳が瞬き一つせずじっと見つめてきている。少女はその視線が、心做しか自分の顔に焦点が合っていない気がした。もっと奥深くにある何かを覗き込まれているような、そんな気がしたのだ。
「お前は何者だ?」
目の前のそれは先と同じ問いを少女と同じ声で繰り返した。
一際大きく波打った心臓に合わせ首元から鳴る電子音が速度を早める。
問いかけるその声からは人間の暖かみは微塵も感じ取れない。ただ冷たく淡白で、全てのものに対して情どころか関心すら無いような、”無機質”がそこにあった。
そんな無機質さは、今まで己の使命に相応しい自分自身の姿として思い描いていたそのもののように見えた。
今と寸分違わぬ状況のあの時、全く同じ問いを投げかけられた。しかし結局何も答えられず、少女は終始沈黙を保ったままだった。ヒトでありたい自分とそれを否定する現実との葛藤の中で、自分が何者なのかということを自分自身が分かっていなかったからだ。そして何より、自分の目の前にいる異様な存在に底冷えするような恐怖を覚え、”こうなりたくはない”と強く思ったからだ。
・・・だが、もうあの時とは違う。目覚めてから最後の直前に至るまで目を背け続けてきた自らの宿命を、多くの代償と共に受け入れたのだ。彼女にとって今あるべき姿は、目の前の無機質だ。
(そう、私は―――)
「―――天使だ」
「ガチャッ」と鍵を開ける音が聞こえ、それと同時に視界がブラックアウトした。
じわじわと意識が闇に沈んでいく。 その中で、一定間隔で鳴り続けていたはずの電子音がひたすら一つの音を伸ばし続け、意識が途切れる最後の瞬間まで鳴り止まなかった。
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