飴屋あやかし噺

神楽 羊

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軛村ニテ神退治ノ事(五)

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  ***

 焚き火の前で熊吉は考え事をしていた。

 もうすぐ生まれる息子の名前についてだ。
 
  初めての子、それを思うだけで熊吉の頬が不意に緩む。若い頃に父親を亡くしていた熊吉は出来るだけ息子と一緒にいようと思っていた。

  強く優しく何より幸せに育って欲しいと願い、そして熊吉自身、息子を父親として立派に育て上げねばと今まで感じたことのない気持ちに身体が熱くなる。
  親になるというのはこういう事なのだな、と思った。

  バチリと焚き火の爆ぜる音で現実に引き戻され、小屋の四隅を警戒する。
  異常が無い事を一通り確認してから熊吉は安堵し、まだ気が早いか、と頭を掻いた。

 

   晩秋の山の闇はとても深い。

  今でこそ、この山小屋で過ごす夜に慣れたものだが猟師になりたての頃は物音がする度に熊吉の身体は自分でも驚く程に強張った。気の小さいのは生まれつきの性分でそれは仕方がないか、とため息をつく。

 ━山を生きて降りたければ人一倍臆病であれ。

  父親から言われた言葉がずっと心に残っている、その言葉は臆病な自分への優しさだったのかもしれない。

「俺も年を取ったもんだ、おっとう、俺はもうおっとうの年を超えちまったよ。」

 四十を間近に控え、白髪の混じり始めた伸びかけの坊主頭をピシャリと叩き、熊吉は温めていた酒を一口丁寧に飲んだ。


 …それにしても、と熊吉は御山の不穏な空気を山に入った時から感じていたのを思い出した。

  ここ最近、御山に入った他の猟師たちが口を揃えて言う、山の様子がおかしいという言葉を肌で理解したのだ。
  今日までは、熊吉は気のせいだろうとタカを括っていたが彼等が言っていたのは本当だった。

  猪はおろか生き物の気配すらなく、生臭く嫌な風が時折山頂の方から吹き下ろしてくる。
  長い間山に入って来たがこんな事は初めてだった。もしかしたら山神の機嫌が悪いのかもしれないと熊吉は思った。

  猟師達が使うこの小屋は狩場の近くに建てられていて巫女沼にも程近い場所にある。

  村の者達は物心ついた頃から巫女沼には近づくなと言い聞かされて育ち、近付けるのは猟師と山神神社の神主だけだった。

  小屋の周りにも腐ったような臭いが立ち込めていて熊吉は山を降りようかとも思ったが秋の日は短く、しぶしぶ予定通り熊吉は小屋に泊まることにしたのだ。

 こんな事なら猟に出るんじゃなかった、と熊吉は一人ごちて窓と扉の隙間を泥で塞いで行く。 手を真っ黒にしながらこれで外の臭いが紛れる、


 そう思った時外で奇妙な音が聞こえた。
  今まで聞いた事の無い、不快で甲高い鳴き声のような音。


 キョーキョーという奇怪な音と同時に男の叫び声が熊吉の耳にまで響いた。
  断末魔とおぼしきその声に心臓を掴まれたような恐怖が首を擡げる。
  巫女沼の方角から届いたその死が纏わり付く声に熊吉は慄いた。

  一声聞いただけであれは得体の知れないものだという確信が熊吉にはあった、御山に住む獣はこんな声で鳴いたりしない。

 …熊吉は葛藤した。

  今すぐ助けに行かないと…しかし、もし猟銃でも歯が立たない相手だったら…
  もし山神だったとしたら…

  大きくなった腹を摩りながら嬉しそうに名前を考えている嫁の顔が熊吉の脳裏に浮かんだ。

 





 
「…おっかあ、すまねえ。」

  銃に弾を込め、松明を掲げて熊吉は巫女沼の方へと向かった。

 *

  木々が炎の明かりに照らされ、吹き荒ぶ風に踊るように揺れている。
  足下を取られぬ様に気をつけながら熊吉は歩みを進める。
  近づき過ぎると灯りを気取られるかもしれない、不意に襲われる恐怖に足が竦むのを必死に堪えている。
  沼の少し手前、森が開ける辺りで松明の炎を消した、そのまま熊吉は茂みに隠れ息を殺す。

  破裂しそうな心臓の音が体内を巡っている。
  暗闇に目を慣らし深呼吸を一つしてから熊吉は声の主を探した、すると沼の奥の木陰に"それ"は居た。

  身の丈はそばの木の幹ほど大きく、腕とも脚とも見当がつかないものが月の光に照らされてぬらぬらと無数に蠢いている、百足のような胴体とそれに見合わぬ細い首の先に付いている頭は肥大化しているように見えた。
  悍しい姿をしたそれは上半身を起こし胴体から伸びる腕で抱きしめるように固定しながら、死んだ男の頭蓋にしゃぶりついている。

  熊吉は吐き気を堪えるのに必死だった、見つかれば確実に殺される。
  助けてください、と行く先の無い祈りを無限に繰り返した。



  *

  "それ"は胴体にも付いているもう一つの口、無数の腕と脚の中心へと男の体を押し込んで行く。
  首の無い男を丸飲みにしてゴリゴリと音を立て時間をかけて咀嚼すると遺体の骨、そしてそれに付いている肉片と着ていた着物を吐き出した。

  それは蠅のように全ての腕を擦り合わせると満足したように巫女沼の奥の崖の方へと消えて行った。

  熊吉は"あれ"が戻ってこない事を長い間地面に伏せ、注意深く確認してから亡骸へと駆け寄る。

 吐き出された男の残りはぬめり付く胃液のような物に覆われていて御山に漂っていた腐臭と同じ臭いがした。

  ここに居ると自分も危ない、そう思った熊吉は急いで銃を背負い身元が分かるかもしれないと男の着物を持ち帰る事にした。

「…助けられなくてすまねえ。」
  熊吉は男に手を合わせると明けかけていく山を転がるように下りて行った。
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