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苦悩

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まだ、痛みが、伝わる感覚があるなら、人を苦しめることに、躊躇することをやめるのは、できるものではない。
行動して、ましてや、死をもたらす、そんな精神の毒に、やられる、快楽と苦悩、両極性の肉体から、離れる、真実は、いつも、どこにもない。
人の苦しみに共感するとは、同じような痛みを感じて、同じような快感に酔って、エゴイズムに沈む、川の向こうに死を臨んだ、まるで自殺志願者。
その内面には、自分自身が救われたいという願望と、攻撃されて呪わしい非現実的な救いを求める感覚と、決してあがなわれないその罪とは、すなわち、殺意の夜明け。
喉の渇きと、いくら飲んでも満たされない、良識とか善意とか、すべて表面上の遺書。
もし、価値が永遠だとしたら、その遺書に、「ごめんなさい」と書かれていても、「私のことはほっておいてください」と書かれていても、神というものをなめてかかるなら、死を越えて、救われることはない。
死とは、打算で命を切ることだとしても、天国に憧れるなら、まだ救われる。でも、復活を臨むことは、すなわちユートピア心世界において、もし、神がいて、何度も憐れむとしても、遺書にかかれた言葉には、何も価値がないと判断するものだ。
行動が全て。
自死してすくわれるなら、死は存在しない。
生きようと望んで、死を選ばないなら、逆説的に救われる。
例え、何かの苦悩において、死に追い込まれるような状況においても、心世界で、死すらも、利用するなら、本当の審判が下る。
これはユートピア思想
新しい価値の想像
命に価値を置かないものは、地獄すら住処とはできない。
新しい天国は、きっとこうだ。
「決して死なないで。生きていくなら、苦悩と共に、きっと、神様は、あなたを軽視しない。ただ命の価値を図るなら、万死が待っている」
「救いを信じたときに、救いは、なくなる」
「天国は、この地上にある、苦悩とともに」
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