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雨の日のお迎え
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お兄さん。
夏代はその男のことを今でもそう呼んでいる。
男の名前は、相馬彰(そうま しょう)という。
夏代が彰と出会ったのは、夏代が0歳。彰が14の頃だった。
夏代は大きな歓楽街の片隅の古くて小さなアパートの一室に住んでいる歓楽街で働く女の娘として生まれてきた。
女が男に自分を売るこの街でどこな男の子かわからぬ子供を身籠もるというのは、掃いて捨てるような話である。しかし、女が周りと違ったことは、父親もわからない赤子に惜しみのない愛情を注いでいたことであった。
それまではホステスだった女は、赤子といる時間を作るために短時間で金を稼げる風俗に身を落とすことを戸惑いもしなかったし、保育所に我が子を引き取りに行くときは存分に抱きしめ口づけ、愛の言葉をかけた。
そんな愛を理解もできず当たり前の事として享受する赤子はただスヤスヤ眠るだけ。
赤子は貧しいながらも幸せな子供だった。
その夜夏代の母親、水倉葵は焦れていた。
ギリギリの時間まで指名が入り、やっと客が帰ったところで集金が来たからである。
この街では、ほとんどの店がどこかのヤクザの組に所場代を払って経営を許されていて、女の働く店も例外ではなかった。
そして、その夜が所場代の集金日だということを忘れていた店長は「ごめん10分だけ出てくる」と買い出しに行ってしまっていて、指名客が帰った後の葵が応対していた。
「ごめんなさいね。10分で帰ってくるって行ってたから待っていてくださいな。」
葵は目の前の少年にそういった。
ひどく、冷たい印象の男だった。
艶やかな黒い髪の毛に、東洋人離れした白い肌。
涼しげな目元に、すっと通った鼻筋。
血のように赤い唇。
黒い学ランを着崩すことなくきちんと着た男は、風俗店の受付という場所に恐ろしく似合っていなかった。
(どうしてこんな少年が、集金にきたのかしら。)
と葵は不思議に思ったが、この街に不可解なことはつきものだと思い考えることをやめた。
ふと、少年の学ランの方が濡れているのに気がついた葵は、ハッとして、
「もしかして、外は雨なの?」
と聞いた。
少年は表情を変えることなくこくりと頷く。
「ちょっと待っていてね。」
と葵はリネン室に入り、タオルを持ってきて少年に差し出した。
「ありがとう…」
少年は小さくそういってタオルを受けとり、学ランの濡れたところを丁寧に拭いて行く。
その姿があまりにも艶やかで、葵はほうっと見とれてしまう。
「あの」
少年が口を開く。
「なあに?」
「さっきから何か焦ってるでしょ。
なんで?」
少年に聞かれて葵は目を見開いた。
どうしてわかったのだろうか。
自分の様子を見ただけで察したなら少年の洞察力は大したものだと、葵は思った。
「そうねえ、少し焦ってはいるわ」
「どうして?」
「あたしね、6ヶ月の赤ちゃんのお母さんなの。早く保育所に迎えにいってあげたくて、少し焦ってるのよ。」
客の前で子供の話は禁物だ。
でも、目の前の少年は客ではないし、この少年の持っている空気が葵にすんなり事実を話させてしまった。
「ちいさいの?」
「うん。まだまだちいさいわよ。
抱っこしたらあったかくてミルクの匂いがするの。」
娘の話をしていると自然に頰が緩む葵を少年は黒曜石のような瞳でじっと見つめていた。
「お金明日でいいよ。あとで店長には僕が伝えとくよ。」
「ええ?本当に?」
「うん。でも…その代わりに僕も保育所のお迎え一緒に行きたい。」
目の前の少年がどうしてそんな気になったのかは葵には全くわからなかった。
「でも、もう夜も遅いし…」
「お姉さんこそ、夜遅くに1人で歩くのは危ない。僕が送って行く」
遠回しに断ろうとする葵の言葉を少年は鮮やかに突っぱねた。
葵は少年のノーと言わせない態度に早々に諦めをつけて、
「それじゃあ、一緒に行きましょうか。」
葵は荷物をまとめると、大きなオレンジ色の傘をさして少年の隣を歩く。
保育所までは10分もかからなかった。
「夏代の母です。」
葵がそういうと、保育士の女性が1人の赤子を抱きかかえて連れてくる。
「すみません、さっきまでは寝ていたんですけど…」
保育士の腕の中の赤子はワンワンと大きな声をあげて泣いていた。
「遅くなっちゃったからかなあ。
今日もありがとうございました。」
葵は丁寧にお礼を言って、その場を後にする。
少年はその後ろをついて行く。
「夏代ちゃん、今日はねー、夏代ちゃんのお迎えにお兄ちゃんもきてくれたのよ。ありがとうって言おうねー」
葵は優しい口調で夏代に語りかける。
その様子を少年は食い入るように見ていた。
そのまま15分ほど歩いて、2人の住むアパートについても夏代はまだ泣き止んでいなかった。
「ごめんなさいね、鍵を開けたいから少しこの子を抱いててもらってもいいかしら?」
葵は少年に夏代を託そうとする。
その時、今までは能面のように表情の見えなかった少年の顔にわずかに緊張の色が走った。
「大丈夫、少しの間だけよ。」
葵の手から少年の腕に夏代が手渡される。
少年はそのずっしりとした重みを受け止めて、その暖かさに目を見張った。
少年は何かに取り憑かれたかのように腕の中の夏代を見つめる。
すると、大声で泣き喚いた夏代は嘘のように泣き止み、少年に向けて笑いかけてみせた。
きゃっきゃきゃっきゃと笑って、もみじのように小さくて柔らかい手で少年の高い鼻を掴んで喜んでいる。
「ありがとうー!鍵も開いたし荷物も入れれたし。助かったわー」
葵がそう言ってアパートの部屋から顔を出した瞬間、
「これ、僕にください。」
と少年は言い放った。
硬直する葵と真剣な表情の少年。
彼の腕の中で嬉しそうにニコニコ笑い、手をパチパチとさせてる夏代だけが平和で楽しそうだった。
夏代はその男のことを今でもそう呼んでいる。
男の名前は、相馬彰(そうま しょう)という。
夏代が彰と出会ったのは、夏代が0歳。彰が14の頃だった。
夏代は大きな歓楽街の片隅の古くて小さなアパートの一室に住んでいる歓楽街で働く女の娘として生まれてきた。
女が男に自分を売るこの街でどこな男の子かわからぬ子供を身籠もるというのは、掃いて捨てるような話である。しかし、女が周りと違ったことは、父親もわからない赤子に惜しみのない愛情を注いでいたことであった。
それまではホステスだった女は、赤子といる時間を作るために短時間で金を稼げる風俗に身を落とすことを戸惑いもしなかったし、保育所に我が子を引き取りに行くときは存分に抱きしめ口づけ、愛の言葉をかけた。
そんな愛を理解もできず当たり前の事として享受する赤子はただスヤスヤ眠るだけ。
赤子は貧しいながらも幸せな子供だった。
その夜夏代の母親、水倉葵は焦れていた。
ギリギリの時間まで指名が入り、やっと客が帰ったところで集金が来たからである。
この街では、ほとんどの店がどこかのヤクザの組に所場代を払って経営を許されていて、女の働く店も例外ではなかった。
そして、その夜が所場代の集金日だということを忘れていた店長は「ごめん10分だけ出てくる」と買い出しに行ってしまっていて、指名客が帰った後の葵が応対していた。
「ごめんなさいね。10分で帰ってくるって行ってたから待っていてくださいな。」
葵は目の前の少年にそういった。
ひどく、冷たい印象の男だった。
艶やかな黒い髪の毛に、東洋人離れした白い肌。
涼しげな目元に、すっと通った鼻筋。
血のように赤い唇。
黒い学ランを着崩すことなくきちんと着た男は、風俗店の受付という場所に恐ろしく似合っていなかった。
(どうしてこんな少年が、集金にきたのかしら。)
と葵は不思議に思ったが、この街に不可解なことはつきものだと思い考えることをやめた。
ふと、少年の学ランの方が濡れているのに気がついた葵は、ハッとして、
「もしかして、外は雨なの?」
と聞いた。
少年は表情を変えることなくこくりと頷く。
「ちょっと待っていてね。」
と葵はリネン室に入り、タオルを持ってきて少年に差し出した。
「ありがとう…」
少年は小さくそういってタオルを受けとり、学ランの濡れたところを丁寧に拭いて行く。
その姿があまりにも艶やかで、葵はほうっと見とれてしまう。
「あの」
少年が口を開く。
「なあに?」
「さっきから何か焦ってるでしょ。
なんで?」
少年に聞かれて葵は目を見開いた。
どうしてわかったのだろうか。
自分の様子を見ただけで察したなら少年の洞察力は大したものだと、葵は思った。
「そうねえ、少し焦ってはいるわ」
「どうして?」
「あたしね、6ヶ月の赤ちゃんのお母さんなの。早く保育所に迎えにいってあげたくて、少し焦ってるのよ。」
客の前で子供の話は禁物だ。
でも、目の前の少年は客ではないし、この少年の持っている空気が葵にすんなり事実を話させてしまった。
「ちいさいの?」
「うん。まだまだちいさいわよ。
抱っこしたらあったかくてミルクの匂いがするの。」
娘の話をしていると自然に頰が緩む葵を少年は黒曜石のような瞳でじっと見つめていた。
「お金明日でいいよ。あとで店長には僕が伝えとくよ。」
「ええ?本当に?」
「うん。でも…その代わりに僕も保育所のお迎え一緒に行きたい。」
目の前の少年がどうしてそんな気になったのかは葵には全くわからなかった。
「でも、もう夜も遅いし…」
「お姉さんこそ、夜遅くに1人で歩くのは危ない。僕が送って行く」
遠回しに断ろうとする葵の言葉を少年は鮮やかに突っぱねた。
葵は少年のノーと言わせない態度に早々に諦めをつけて、
「それじゃあ、一緒に行きましょうか。」
葵は荷物をまとめると、大きなオレンジ色の傘をさして少年の隣を歩く。
保育所までは10分もかからなかった。
「夏代の母です。」
葵がそういうと、保育士の女性が1人の赤子を抱きかかえて連れてくる。
「すみません、さっきまでは寝ていたんですけど…」
保育士の腕の中の赤子はワンワンと大きな声をあげて泣いていた。
「遅くなっちゃったからかなあ。
今日もありがとうございました。」
葵は丁寧にお礼を言って、その場を後にする。
少年はその後ろをついて行く。
「夏代ちゃん、今日はねー、夏代ちゃんのお迎えにお兄ちゃんもきてくれたのよ。ありがとうって言おうねー」
葵は優しい口調で夏代に語りかける。
その様子を少年は食い入るように見ていた。
そのまま15分ほど歩いて、2人の住むアパートについても夏代はまだ泣き止んでいなかった。
「ごめんなさいね、鍵を開けたいから少しこの子を抱いててもらってもいいかしら?」
葵は少年に夏代を託そうとする。
その時、今までは能面のように表情の見えなかった少年の顔にわずかに緊張の色が走った。
「大丈夫、少しの間だけよ。」
葵の手から少年の腕に夏代が手渡される。
少年はそのずっしりとした重みを受け止めて、その暖かさに目を見張った。
少年は何かに取り憑かれたかのように腕の中の夏代を見つめる。
すると、大声で泣き喚いた夏代は嘘のように泣き止み、少年に向けて笑いかけてみせた。
きゃっきゃきゃっきゃと笑って、もみじのように小さくて柔らかい手で少年の高い鼻を掴んで喜んでいる。
「ありがとうー!鍵も開いたし荷物も入れれたし。助かったわー」
葵がそう言ってアパートの部屋から顔を出した瞬間、
「これ、僕にください。」
と少年は言い放った。
硬直する葵と真剣な表情の少年。
彼の腕の中で嬉しそうにニコニコ笑い、手をパチパチとさせてる夏代だけが平和で楽しそうだった。
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