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人知れず傾いていく太陽が、その存在感を増していく。どっしりと街に根づき生えてきたような建物の数々を照らしている。
モノより思い出とはよくいったものだけど、簡単に捨てられるモノより、いつまでも記憶から消えない思い出の方が残酷で嫌になった。見かける度に辛くなるくらいなら、思い出なんかいらないと泣いてばかりいた。
「どこに行きたいとかあります?」
「決めてない。適当にドライブでもしようかと思っているくらいだ」
「どうして素っ気なくするんですか? 飼い犬に手を噛まれてショックでした?」
「去っていかれるくらいなら、噛まれた方がずっとましだ」
彼は、前を向いたままハンドルを動かして、車は港付近の高速入口へ車線を変更した。
「女がお金で満足すると思ってました?」
「もっと気の利いたことができていたら、バツはつかなかっただろうな」
「私、松永さんには感謝してます」
「松永さん? 南町の? それとも石崎? いや、城西? あ。農協?」
「今更私が地主さんとか役員さんになんの関係があるんですか。友人代表の松永由紀さんです」
「えらい変化球で抉ってくるな。手どころか喉狙ってないか」
「息を引き取るときは、私の腕の中でお願いしますね」
「それならいつ死んでもいい」
ようやく彼に微かでも笑顔が戻った。
「あの時は血の気が引いた。俺の立つ瀬ないだろ。あの時の事は今でも語り種だよ」
「でもすごかったじゃないですか。慰める会」
「本当ありがたいよな。もしあれでお客さんも失ってたら、俺は駅前か公園に住んでたかも知れない」
「えー。それなら私が養いましたよ。あの頃そこそこ稼いでたので」
「そうか。それも悪くなかったな」
「そうなればよかったのに」
「ならないよ。ゼロになったとしても、一から始めればいい。土地も人もそこら辺にたくさんあるんだから、周り全部仕事の種だらけだ。ほら、あそこの新しく……」
高速道路から一望できる街の海辺の一角を指しながら目を輝かせている。
「ストップ。真壁さん。今、お仕事の話を聞く気はないんです。そんなことは忘れて、これから私の部屋に来ませんか?」
「俺を部屋に呼んでいいのか?」
真壁さんの視線がちらりと動いた。
「職場つきとめられた時点で今更ですよね」
「さすがに家までは知らないよ」
「知ろうと思えば簡単なことなんでしょう?」
「さあ。知らない」
「権力者は堂々としらばっくれるんですね。明らかな嘘でもつき通せる自信があるから」
「俺に権力なんかない」
「そうですか。まあいいです。このナビって、今、操作できます?」
「うん」
私はタッチパネルを何度かつまずきながら操作して、自分の住所を入れた。
「狭くて古いところだから恥ずかしいのですが、一応人が住むところですよ」
真壁さんはチラッと住所を見る。
「あ。ここ、広尾さんの次男さんのとこじゃないか。長男さんのアパートはうちが建てたけど、こっちは違うんだよ」
「え。なんですかそれ。怖いんですけど」
「伊達に仕事してないよ、俺。それにこれ、道一本挟んで向こうだぞ。知ってるって」
「私は知りませんでした」
「そりゃ織部が入社する前の話だし、仲介業者も違うしな」
「そういう話ではないんですけど……。あ。着く前にスーパーに寄ってもらっていいですか」
「いいけど。あれ。そういやお前、葬式って言ってなかったか」
「そうなんです。ラグジュアリーなホテルで私の純潔を弔って頂こうかと思ったんですが、やめました。私は欲張りなので、お金だけじゃ満足しないってことを思い知らせて差し上げます」
「へえ。なにをするつもりだ?」
「まず、真壁さんとしたかったことをします。食材買って、家で料理して一緒にごはん食べて、お風呂沸かしてゆっくりして、同じベッドに入るんです」
「そんなことでいいのか?」
「そんなこと? この上なく親密な関係じゃないとできないことですよ? 貴方、私の好きな人ですよ? 特別じゃないですか。なに言ってるんですか」
「いや、悪い。泣けてきた」
というと運転に支障がでない程度に目頭に手を当てた。
「え。私の発想、そんなに憐れまれるほど貧相ですか?」
「そうじゃない」
真壁さんは短く否定したきり、黙りこんだ。でも私は構わず続けることにした。
「そして、真壁さんを抱き枕にします。もちろん、セックスもお願いしますね。回数は真壁さんにおまかせします。そして、二人で疲れて眠るんです。目が覚めたら起きて、朝ごはんを作って、一緒に食べて、会社に向かう貴方を見送って、おしまい。これが今回のプランです」
「どのへんが欲張りなんだ? それとも罠か? 言っておくが俺だって枕営業はしたことないからな。期待するなよ」
「やだやだ。わかってないんですね。これだから資本主義の奴隷は」
「いや、どういう罵りだよ」
「わからないんですか? 惚れた相手が自分のために時間と心と身体を消耗してくれるんですよ? これほどの贅沢がありますか? たとえ身体は売っても心はそうはいかないでしょう?」
「お前、びっくりするぐらい処女だな。今までよくぞご無事で」
「すっごいバカにしてますね。え、嘘。むしろドン引きされてます?」
「してないしてない。こんなバツがついた男でいいのか」
「あ。絶対嘘。謙遜しつつフェードアウトなさるおつもりですよね。わかってます。年増の処女なんてどうせゲテモノです」
「俺なんか三十後半のバツイチだぞ。新しい女もいないまま十年になろうかっていう。そんな男が居座っていいのか?」
「それがですね、真壁さん」
「なんだよ」
「お忘れですか。私の若い男の影」
「いや、忘れてない。いいじゃないか。あっちは若いんだから放流してやれば。」
「ふふ。彼と離れるわけにはいかないんです。言ったでしょう。私、欲張りなんです」
「ほう。ここでそれが利いてくるとはな。で、その彼と離れられない理由は?」
「それは、彼と私のお話なので」
無言のまま彼が発した怒りのオーラで私の心臓が凍てつきそうだ。
「じゃあ、これだけ教えてくれ」
「何ですか」
「本命はどっちだ?」
「聞かなきゃわからないことですか? それ」
「もういい。どうせ俺は今夜限りの男だしな」
可愛くてたまらなくなって、可笑しくなってきた。笑いが止められない。今まで知らなかった彼の内面がするすると披露されていく。
「意外とやきもちやきなんですね」
「お前、誤解の原因忘れたのか?」
「よくそれで前の奥さんに浮気されましたね?」
「後で身の上話を聞かせるよ。織部が爆睡するほど陳腐で退屈なヤツを」
「楽しみにしてます」
都市高を降りてしばらく車を走らせて、商店街を見つけたので、すぐそばのコインパーキングに車を停めた。
夕飯の献立を話し合い、通りがかりの鮮魚店の、刺し盛り承ります。の貼り紙にすっかり心を奪われてしまった。
刺し盛りときたら、日本酒だ。鮮魚店のご主人に近くの酒屋さんを教えてもらって、北陸の日本酒一升とイタリア産のスパークリングワインと瓶ビール六本を購入して、お肉屋さんで地元銘柄の牛肉を使ったメンチカツを購入し、誘惑に負けて
店先のベンチで揚げてのコロッケを二人で食べた。
朝食は少しでも手作りをリクエストされたので、鮮魚店で鯵の干物と、八百屋さんでほうれん草と万能ネギを買った。
商店街を堪能したので、刺し盛りにが美味しいうちにと家路を急いだ。
と言いつつ、私の本音は早く二人だけになりたい。もっと、私だけの彼を堪能したい。明日不慮の事故で死んでもいいと思えるくらい今を満喫しよう。遠慮なんかしない。躊躇わない。
一人で踵の高いミュールに奮闘しない幸せを堪能しよう。少しの段差でも差しのべられる手を取りながら、涙が出そうになった。
モノより思い出とはよくいったものだけど、簡単に捨てられるモノより、いつまでも記憶から消えない思い出の方が残酷で嫌になった。見かける度に辛くなるくらいなら、思い出なんかいらないと泣いてばかりいた。
「どこに行きたいとかあります?」
「決めてない。適当にドライブでもしようかと思っているくらいだ」
「どうして素っ気なくするんですか? 飼い犬に手を噛まれてショックでした?」
「去っていかれるくらいなら、噛まれた方がずっとましだ」
彼は、前を向いたままハンドルを動かして、車は港付近の高速入口へ車線を変更した。
「女がお金で満足すると思ってました?」
「もっと気の利いたことができていたら、バツはつかなかっただろうな」
「私、松永さんには感謝してます」
「松永さん? 南町の? それとも石崎? いや、城西? あ。農協?」
「今更私が地主さんとか役員さんになんの関係があるんですか。友人代表の松永由紀さんです」
「えらい変化球で抉ってくるな。手どころか喉狙ってないか」
「息を引き取るときは、私の腕の中でお願いしますね」
「それならいつ死んでもいい」
ようやく彼に微かでも笑顔が戻った。
「あの時は血の気が引いた。俺の立つ瀬ないだろ。あの時の事は今でも語り種だよ」
「でもすごかったじゃないですか。慰める会」
「本当ありがたいよな。もしあれでお客さんも失ってたら、俺は駅前か公園に住んでたかも知れない」
「えー。それなら私が養いましたよ。あの頃そこそこ稼いでたので」
「そうか。それも悪くなかったな」
「そうなればよかったのに」
「ならないよ。ゼロになったとしても、一から始めればいい。土地も人もそこら辺にたくさんあるんだから、周り全部仕事の種だらけだ。ほら、あそこの新しく……」
高速道路から一望できる街の海辺の一角を指しながら目を輝かせている。
「ストップ。真壁さん。今、お仕事の話を聞く気はないんです。そんなことは忘れて、これから私の部屋に来ませんか?」
「俺を部屋に呼んでいいのか?」
真壁さんの視線がちらりと動いた。
「職場つきとめられた時点で今更ですよね」
「さすがに家までは知らないよ」
「知ろうと思えば簡単なことなんでしょう?」
「さあ。知らない」
「権力者は堂々としらばっくれるんですね。明らかな嘘でもつき通せる自信があるから」
「俺に権力なんかない」
「そうですか。まあいいです。このナビって、今、操作できます?」
「うん」
私はタッチパネルを何度かつまずきながら操作して、自分の住所を入れた。
「狭くて古いところだから恥ずかしいのですが、一応人が住むところですよ」
真壁さんはチラッと住所を見る。
「あ。ここ、広尾さんの次男さんのとこじゃないか。長男さんのアパートはうちが建てたけど、こっちは違うんだよ」
「え。なんですかそれ。怖いんですけど」
「伊達に仕事してないよ、俺。それにこれ、道一本挟んで向こうだぞ。知ってるって」
「私は知りませんでした」
「そりゃ織部が入社する前の話だし、仲介業者も違うしな」
「そういう話ではないんですけど……。あ。着く前にスーパーに寄ってもらっていいですか」
「いいけど。あれ。そういやお前、葬式って言ってなかったか」
「そうなんです。ラグジュアリーなホテルで私の純潔を弔って頂こうかと思ったんですが、やめました。私は欲張りなので、お金だけじゃ満足しないってことを思い知らせて差し上げます」
「へえ。なにをするつもりだ?」
「まず、真壁さんとしたかったことをします。食材買って、家で料理して一緒にごはん食べて、お風呂沸かしてゆっくりして、同じベッドに入るんです」
「そんなことでいいのか?」
「そんなこと? この上なく親密な関係じゃないとできないことですよ? 貴方、私の好きな人ですよ? 特別じゃないですか。なに言ってるんですか」
「いや、悪い。泣けてきた」
というと運転に支障がでない程度に目頭に手を当てた。
「え。私の発想、そんなに憐れまれるほど貧相ですか?」
「そうじゃない」
真壁さんは短く否定したきり、黙りこんだ。でも私は構わず続けることにした。
「そして、真壁さんを抱き枕にします。もちろん、セックスもお願いしますね。回数は真壁さんにおまかせします。そして、二人で疲れて眠るんです。目が覚めたら起きて、朝ごはんを作って、一緒に食べて、会社に向かう貴方を見送って、おしまい。これが今回のプランです」
「どのへんが欲張りなんだ? それとも罠か? 言っておくが俺だって枕営業はしたことないからな。期待するなよ」
「やだやだ。わかってないんですね。これだから資本主義の奴隷は」
「いや、どういう罵りだよ」
「わからないんですか? 惚れた相手が自分のために時間と心と身体を消耗してくれるんですよ? これほどの贅沢がありますか? たとえ身体は売っても心はそうはいかないでしょう?」
「お前、びっくりするぐらい処女だな。今までよくぞご無事で」
「すっごいバカにしてますね。え、嘘。むしろドン引きされてます?」
「してないしてない。こんなバツがついた男でいいのか」
「あ。絶対嘘。謙遜しつつフェードアウトなさるおつもりですよね。わかってます。年増の処女なんてどうせゲテモノです」
「俺なんか三十後半のバツイチだぞ。新しい女もいないまま十年になろうかっていう。そんな男が居座っていいのか?」
「それがですね、真壁さん」
「なんだよ」
「お忘れですか。私の若い男の影」
「いや、忘れてない。いいじゃないか。あっちは若いんだから放流してやれば。」
「ふふ。彼と離れるわけにはいかないんです。言ったでしょう。私、欲張りなんです」
「ほう。ここでそれが利いてくるとはな。で、その彼と離れられない理由は?」
「それは、彼と私のお話なので」
無言のまま彼が発した怒りのオーラで私の心臓が凍てつきそうだ。
「じゃあ、これだけ教えてくれ」
「何ですか」
「本命はどっちだ?」
「聞かなきゃわからないことですか? それ」
「もういい。どうせ俺は今夜限りの男だしな」
可愛くてたまらなくなって、可笑しくなってきた。笑いが止められない。今まで知らなかった彼の内面がするすると披露されていく。
「意外とやきもちやきなんですね」
「お前、誤解の原因忘れたのか?」
「よくそれで前の奥さんに浮気されましたね?」
「後で身の上話を聞かせるよ。織部が爆睡するほど陳腐で退屈なヤツを」
「楽しみにしてます」
都市高を降りてしばらく車を走らせて、商店街を見つけたので、すぐそばのコインパーキングに車を停めた。
夕飯の献立を話し合い、通りがかりの鮮魚店の、刺し盛り承ります。の貼り紙にすっかり心を奪われてしまった。
刺し盛りときたら、日本酒だ。鮮魚店のご主人に近くの酒屋さんを教えてもらって、北陸の日本酒一升とイタリア産のスパークリングワインと瓶ビール六本を購入して、お肉屋さんで地元銘柄の牛肉を使ったメンチカツを購入し、誘惑に負けて
店先のベンチで揚げてのコロッケを二人で食べた。
朝食は少しでも手作りをリクエストされたので、鮮魚店で鯵の干物と、八百屋さんでほうれん草と万能ネギを買った。
商店街を堪能したので、刺し盛りにが美味しいうちにと家路を急いだ。
と言いつつ、私の本音は早く二人だけになりたい。もっと、私だけの彼を堪能したい。明日不慮の事故で死んでもいいと思えるくらい今を満喫しよう。遠慮なんかしない。躊躇わない。
一人で踵の高いミュールに奮闘しない幸せを堪能しよう。少しの段差でも差しのべられる手を取りながら、涙が出そうになった。
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