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安らげる場所
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その翌日、面白い物があるからと、カミールが怪しげな小瓶を渡してきた。
「なんだこれは」
透明なガラスの中にピンク色の液体が揺れている。どう見ても怪しいその液体に、フェリクスは眉根を寄せた。
「変身薬です。知り合いの魔術師がせっかくだからと試作品をくれたのですが、私は今の自分に十分満足していますので無用の長物です。ですから、殿下に差し上げます」
「俺も満足している」
「本当ですか? 愛しの婚約者を弟君に取られてしまい、随分不機嫌なご様子でしたが」
「なに?」
「おや、私の勘違いでしたか? てっきり、ミリウス殿下に嫉妬なされているのだとばかり」
カミールの指摘に、フェリクスの整った相貌が歪む。
図星だった。ミリウスだけではない。マコトがフェリクス以外の人間と親しげに交流し、あまつさえ好意を寄せ合っている。それが煩わしく感じられてならなかった。
けれど、マコトが誰に好かれようとフェリクスには関係ないはずなのだ。二人はあくまでも仮初の婚約者であり、そこに愛だの恋だのむず痒い感情は存在しない。にも関わらず、日課となったマコトの素行に関する報告を聞く度に、言いようのない苛立ちが募った。
「ミリウス殿下は非常にお可愛らしい方ですからね。フェリクス殿下ももう少しばかり愛らしさがあれば、ミリウス殿下と同じように聖女様から可愛がってもらえたかもしれませんね」
「黙れ。とにかく、これは必要ない」
「いいえ、必要ですよ。殿下の機嫌が悪いと、文官たちが怯えて政務が滞るのです」
カミールの言う通り、日に日に書類が積み上がっていくことは自覚していた。
「この変身薬で子供の姿になってみてはいかがです? もしくは、動物になるのもよろしいかと。聖女様は動物がお好きなようですから」
「くだらん」
吐き捨てるように言ったが、カミールはまるでフェリクスの反論など予想済みだと言わんばかりに微笑んでいる。
「いいですか、殿下。時には素直になることも大切ですよ」
「お前にだけは言われたくないな」
これ以上は時間の無駄だとカミールに背を向ける。不敬にも溜息をつく気配があったが、フェリクスにはどうでもいいことだった。
心を落ち着けようと王宮内の庭園を散策していると、視線の先に見覚えのある背中を見つけた。
「……不用心な奴め」
働き詰めで疲れたのか、マコトは庭園の外れで無防備にもうたた寝していた。
周囲に人気がない事を確認し、マコトの前に膝を折った。
「……もう少しマシな格好をしろ」
厩舎の掃除をした帰りなのか、聖女の正装ではなく薄汚れた作業着姿だった。
純白のベールは取り払われ、そのあどけない寝顔が惜しげもなく晒されている。
こうして見ると本当に、どこにでもいる普通の男だ。
「間抜けヅラめ」
「ぅん……」
フェリクスが頰を抓っても、マコトは僅かに身じろぐだけだった。嫌がるどころかむしろ、頰を抓るフェリクスの手首を掴み、むにゃむにゃと何事か寝言を呟いている。
「ふふ、くすぐったいよ、フィン……」
「俺を馬と一緒にするな」
どうやら白馬のフィンに戯れ付かれる夢を見ているらしい。
ムッとして鼻を摘めば、「んえっ」という間抜けな声と共にマコトの瞼が震えた。
─不味い。咄嗟に身を隠そうとしたフェリクスだが、近くに姿を隠せる場所はない。
寝ぼけ眼のマコトと視線がかち合う─その寸前、フェリクスは懐から変身薬を取り出していた。
「ふあっ!?」
素っ頓狂な声を上げたマコトが、ガバッと勢いよく上体を起こした。何事かとキョロキョロ辺りを見回している。
「あれ? 誰かいた気がしたんだけどな……」
「ニャー」
「ん? はわっ、か、かわっ……!!」
感極まったように言葉をなくしたマコトの視線の先では、白銀の毛に金の瞳を持つ美猫がちょこんと座っていた。
フェリクスは咄嗟に白猫の姿に変身していたのだ。
その事実を知る由もなく、マコトが飛び上がって歓喜する。
「可愛い……!」
「ニャー」
「こんにちは猫ちゃん。迷子になっちゃったのかな?」
「ニャー」
「ふふふ、大丈夫、怖くないからこっちにおいで」
しゃがみ込んで両手を広げるマコトに、少し迷った末にその腕に飛び込んでいた。マコトの腕の中は温かく、柔らかな日差しに包まれたように居心地がいい。
「よしよし」
マコトの手つきは優しく的確だった。どこをどうすれば喜ぶのか心得ていると言わんばかりに、頭、頰、喉と丁寧に撫で回され、思わずゴロゴロと喉を鳴らしてしまう。
「ゴロゴロ……」
「ふふ、君はお利口さんだね」
顎の下をくすぐる指に体を預けていると、次第に思考がぼんやりとしてきた。全身から力が抜ける感覚に焦りを覚えるが、抗えないほどの眠気に襲われる。
「ふにゃぁ」
「眠くなっちゃった?」
「ミャゥ」
フェリクスは昔から睡眠障害に悩まされていた。
薬を飲んでも眠りは浅く、少しの物音でも目が覚めてしまうし、人の気配にも敏感だ。このところは特に満足に眠れない夜が続き、必然的に隈が染み付いてしまった。
その反動のようにして、抗いようのない眠気に襲われる。
人前で無防備に眠るなど、普段のフェリクスからは考えられないことだ。けれど、マコトから与えられる温もりには身を委ねてしまいたくなる何かがあった。
「我慢しなくていいんだよ。ゆっくりおやすみ」
頭上から降り注ぐ穏やかな声音に誘われるようにして、フェリクスはふっと体の力を抜いた。
「おやすみなさい、猫ちゃん」
柔らかく頭を撫でられる感覚に誘われるように、フェリクスは穏やかな微睡みの中に意識を投じた。
それからというもの、暇を見つけては猫に変身してマコトの元に通うようになった。
「なんだこれは」
透明なガラスの中にピンク色の液体が揺れている。どう見ても怪しいその液体に、フェリクスは眉根を寄せた。
「変身薬です。知り合いの魔術師がせっかくだからと試作品をくれたのですが、私は今の自分に十分満足していますので無用の長物です。ですから、殿下に差し上げます」
「俺も満足している」
「本当ですか? 愛しの婚約者を弟君に取られてしまい、随分不機嫌なご様子でしたが」
「なに?」
「おや、私の勘違いでしたか? てっきり、ミリウス殿下に嫉妬なされているのだとばかり」
カミールの指摘に、フェリクスの整った相貌が歪む。
図星だった。ミリウスだけではない。マコトがフェリクス以外の人間と親しげに交流し、あまつさえ好意を寄せ合っている。それが煩わしく感じられてならなかった。
けれど、マコトが誰に好かれようとフェリクスには関係ないはずなのだ。二人はあくまでも仮初の婚約者であり、そこに愛だの恋だのむず痒い感情は存在しない。にも関わらず、日課となったマコトの素行に関する報告を聞く度に、言いようのない苛立ちが募った。
「ミリウス殿下は非常にお可愛らしい方ですからね。フェリクス殿下ももう少しばかり愛らしさがあれば、ミリウス殿下と同じように聖女様から可愛がってもらえたかもしれませんね」
「黙れ。とにかく、これは必要ない」
「いいえ、必要ですよ。殿下の機嫌が悪いと、文官たちが怯えて政務が滞るのです」
カミールの言う通り、日に日に書類が積み上がっていくことは自覚していた。
「この変身薬で子供の姿になってみてはいかがです? もしくは、動物になるのもよろしいかと。聖女様は動物がお好きなようですから」
「くだらん」
吐き捨てるように言ったが、カミールはまるでフェリクスの反論など予想済みだと言わんばかりに微笑んでいる。
「いいですか、殿下。時には素直になることも大切ですよ」
「お前にだけは言われたくないな」
これ以上は時間の無駄だとカミールに背を向ける。不敬にも溜息をつく気配があったが、フェリクスにはどうでもいいことだった。
心を落ち着けようと王宮内の庭園を散策していると、視線の先に見覚えのある背中を見つけた。
「……不用心な奴め」
働き詰めで疲れたのか、マコトは庭園の外れで無防備にもうたた寝していた。
周囲に人気がない事を確認し、マコトの前に膝を折った。
「……もう少しマシな格好をしろ」
厩舎の掃除をした帰りなのか、聖女の正装ではなく薄汚れた作業着姿だった。
純白のベールは取り払われ、そのあどけない寝顔が惜しげもなく晒されている。
こうして見ると本当に、どこにでもいる普通の男だ。
「間抜けヅラめ」
「ぅん……」
フェリクスが頰を抓っても、マコトは僅かに身じろぐだけだった。嫌がるどころかむしろ、頰を抓るフェリクスの手首を掴み、むにゃむにゃと何事か寝言を呟いている。
「ふふ、くすぐったいよ、フィン……」
「俺を馬と一緒にするな」
どうやら白馬のフィンに戯れ付かれる夢を見ているらしい。
ムッとして鼻を摘めば、「んえっ」という間抜けな声と共にマコトの瞼が震えた。
─不味い。咄嗟に身を隠そうとしたフェリクスだが、近くに姿を隠せる場所はない。
寝ぼけ眼のマコトと視線がかち合う─その寸前、フェリクスは懐から変身薬を取り出していた。
「ふあっ!?」
素っ頓狂な声を上げたマコトが、ガバッと勢いよく上体を起こした。何事かとキョロキョロ辺りを見回している。
「あれ? 誰かいた気がしたんだけどな……」
「ニャー」
「ん? はわっ、か、かわっ……!!」
感極まったように言葉をなくしたマコトの視線の先では、白銀の毛に金の瞳を持つ美猫がちょこんと座っていた。
フェリクスは咄嗟に白猫の姿に変身していたのだ。
その事実を知る由もなく、マコトが飛び上がって歓喜する。
「可愛い……!」
「ニャー」
「こんにちは猫ちゃん。迷子になっちゃったのかな?」
「ニャー」
「ふふふ、大丈夫、怖くないからこっちにおいで」
しゃがみ込んで両手を広げるマコトに、少し迷った末にその腕に飛び込んでいた。マコトの腕の中は温かく、柔らかな日差しに包まれたように居心地がいい。
「よしよし」
マコトの手つきは優しく的確だった。どこをどうすれば喜ぶのか心得ていると言わんばかりに、頭、頰、喉と丁寧に撫で回され、思わずゴロゴロと喉を鳴らしてしまう。
「ゴロゴロ……」
「ふふ、君はお利口さんだね」
顎の下をくすぐる指に体を預けていると、次第に思考がぼんやりとしてきた。全身から力が抜ける感覚に焦りを覚えるが、抗えないほどの眠気に襲われる。
「ふにゃぁ」
「眠くなっちゃった?」
「ミャゥ」
フェリクスは昔から睡眠障害に悩まされていた。
薬を飲んでも眠りは浅く、少しの物音でも目が覚めてしまうし、人の気配にも敏感だ。このところは特に満足に眠れない夜が続き、必然的に隈が染み付いてしまった。
その反動のようにして、抗いようのない眠気に襲われる。
人前で無防備に眠るなど、普段のフェリクスからは考えられないことだ。けれど、マコトから与えられる温もりには身を委ねてしまいたくなる何かがあった。
「我慢しなくていいんだよ。ゆっくりおやすみ」
頭上から降り注ぐ穏やかな声音に誘われるようにして、フェリクスはふっと体の力を抜いた。
「おやすみなさい、猫ちゃん」
柔らかく頭を撫でられる感覚に誘われるように、フェリクスは穏やかな微睡みの中に意識を投じた。
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