本物の聖女が現れてお払い箱になるはずが、婚約者の第二王子が手放してくれません

井之口みくに

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 カーソンさんの診察が終わったらすぐにフェリクス殿下の元に戻る。その約束をすっかり忘れていたことを思い出した時にはもう遅かった。

「殿下! すみません、遅くなりました!」

 大急ぎで駆け込んできた僕を見て、ベッドに横になっていた殿下がむくりと起き上がった。
 その表情は薄暗がりでよく見えなかったけど、纏う雰囲気からして拗ねているのがビシビシと伝わってきた。

「何をしていた」
「えっと、ちょっと急用がありまして……」
「俺との約束よりも優先させることか?」
「いえ、殿下よりも優先させることなんてありません。でも、今回の急用は本当に大切なことで、詳細はお伝えできませんが殿下にとっても大事なことなんです」

 恐る恐ると殿下の元へ歩み寄った僕を見上げて、殿下が無言で手を差し出した。
 一瞬、その手を取るのを躊躇った僕の手首を強引に掴んで引き寄せた殿下が、僕を抱きしめるようにしてベッドに引き込んだ。

「わっ……!」
「……俺を謀るなよ」
「はい、もちろんです!」
「ならいい」

 抱きしめられてホッとしたのも束の間で、殿下が不機嫌そうに呟いた。

「アイツに会ったのか?」
「アイツ?」
「……エヴァンだ」
「ど、どうして、ですか?」

 匂い? いや、エヴァン殿下の部屋は香を焚いていなかったし、匂いがつくほど密着もしてなかったはず……。
 戸惑う僕の目を金の瞳が至近距離から見据える。心のうちを見透かされるような視線に鼓動が早まった。

「アイツに抱かれたのか」
「え!? いえっ、まさか! そんなのありえません!」
「なら何故、アイツの魔力の気配がするんだ」
「そ、れは……魔力を分けていただいたんです。あ、ただ体液からの摂取はしてなくてですね、なんか手の甲から分けていただいたみたいな感じで、僕にもよく分からないんですが、本当に変なことは何もしてないです」
「……何故、魔力が必要なんだ」

 フェリクス殿下と魔力供給をするためです。そう素直に言ったら、殿下はどんな反応をするんだろう。
 上手い誤魔化し方が思いつかなくて黙り込む僕に、殿下が苛立ったように眉を寄せた。

「言えないのか?」
「えっと……その……」
「もういい」

 怒りを押し殺したような声音にビクリと体が震えた。
 そんな僕を見て何かを感じたのか、フェリクス殿下が気まずそうに視線を逸らした。

「……言いたくないならいい」

 拗ねたような声に、なんだか意地悪をしている気分になった。
 僕はきっと、この人に嘘をつけない。

「フェリクス殿下のためです」
「俺の?」
「はい。カーソンさんから、殿下の魔力が回復しないのは、魔力回路が異常をきたしているからだと聞きました。それを治すために、エヴァン殿下に魔力を分けていただくことにしたんです」
「……お前は、俺の婚約者だ」
「え、あ、はい」

 まさか、フェリクス殿下の口からその言葉を聞く日が来るとは思わなかった。

「俺の許可なくアイツに会うな」
「え?」
「婚約者に黙って他の男に会いに行くな」
「で、でも、エヴァン殿下はフェリクス殿下のお兄さんですし……」
「アイツだからこそだ」

 苦々しい声だった。感情の起伏の乏しい殿下にしては珍しく、今日は表情も声音も感情豊かだ。
 不機嫌そうな殿下には申し訳ないけど、頰がだらしなく緩むのを止められなかった。

「……何故嬉しそうなんだ」
「すみません。なんだか可愛、じゃなくて、ええと……あ、僕一人っ子なので、兄弟がいるって羨ましいなと思いまして」
「……アイツの趣味は、人のモノを奪うことだ」
「え?」
「アイツは俺と違って人に媚びるのが上手い。どうすれば相手が手中に落ちるのかを熟知している。狡猾で卑怯な男だ」
「殿下……」
「……とられたと言っても、大したモノではないがな」
「大したモノ……オモチャとかですか? 小さい頃なら、オモチャの取り合いになったりしますもんね」
「……昔の話だ」

 そうは言いながらも、フェリクス殿下はムスッとしたように口を閉ざしてしまった。
 その仕草が小さな子供のようで、つい美しい銀の髪に手を伸ばしていた。絹糸のような髪は驚くほど指通りがよくて、僕の手の平にサラサラと零れ落ちてくる。

「なんだ」
「えっと、その……僕は、オモチャとは違います。ちゃんと自分の意思があるので、簡単にとられたりしませんよ」

 エヴァン殿下には操り人形のようだと言われたけど、僕は今自分の意思でフェリクス殿下の側にいる。
 そしてそれは、この先もきっと変わらない。
 月夜に浮かぶ満月のように美しい瞳が真っ直ぐに僕を見据える。その双眸は、この世のどんな宝石よりも無垢で純真な輝きを持っていた。

「……玩具がんぐなら、諦めもつく」
「え?」
「なんでもない」

 ふいっと顔を背けながらも、僕に寄りかかるように体を預けてきた。
 胸元に感じる温もりに、不意に泣きたくなった。
 ああそうか、僕はこの人を守りたいんだ。大人びていて、凛としていて、手の届かない場所にいるはずなのに、迷子の子供のように僕に救いを求めてくるこの子を、ただひたすらに守ってあげたい。

「フェリクス殿下……」

 そっと滑らかな頰に手を添えれば、この世で一番美しい瞳が僕を見上げた。

「そばにいます。貴方が望む限りずっと、僕はここにいます」
「……マコト、お前は替えのきく玩具とは違う」
「え……」

 すり、と殿下が僕の手に頰を擦り寄せた。
 滑らかな唇が手のひらに触れる。その唇の熱を、柔らかさを、僕はこの先ずっと忘れない。いや、忘れられないだろう。

「お前は、俺のものだ」

 懇願するような声だった。
 心臓を鷲掴みにされたように胸が震えた。堪らなくなって、思わずその体を搔き抱いた。殿下は一瞬驚いたように身を強張らせたけれど、すぐに体を預けてきた。

「もう、黙ってどこかへ行ったりしません。エヴァン殿下にも、勝手に会いに行ったりしません」
「……ああ」

 ホッとしたような声音に、喉元に熱いものが込み上げてきた。
 その衝動のままに、バカみたいなことを口にしていた。

「あの……殿下……」
「なんだ」
「……その、キスしてもいいですか?」
「……」
「いや、すみません! 変な意味じゃなくて! その、魔力供給を……!」

 慌てて言い募る僕の唇に、ふにっと何かが触れた。目の前には目を閉じたフェリクス殿下の綺麗な顔があって──僕は今何をされているんだと頭が真っ白になった。
 唇に触れているそれがフェリクス殿下の唇なのだと、僕が混乱から立ち直るのにはそれなりの時間がかかった。

「んぅ、ぁ……ン……っ」

 呆然としている間にも、柔らかな唇が何度も僕の唇を啄ばんだ。その度にチュッと音が鳴って、鼓膜を濡らす淫らな音に顔が熱くなった。
 角度を変えて何度も何度も啄みながら、時折食むように唇を吸われる。頭がクラクラして、鼻にかかったような声が止められなかった。

「ん、ふ……っ殿下、ぁ、ンゥ……っ」

 突然のことにパニックに陥りながらも必死に受け止めていれば、やがて満足したのかゆっくりと唇が離れていった。
 殿下の唇は唾液でしっとりと濡れていて、その艶めいた唇に目が離せなくなった。

「殿下、あの……」
「……フェリクスと」
「え?」
「名前で呼べ」
「ン、ふぅ……っ、ぁ」

 フェリクス、と音になる前に唇を奪われた。
 柔らかな唇が押し当てられるのを感じながら、僕はただ与えられる口づけを享受することしかできなかった。

「んぅ……ふ、ぁ……はっ、フェリクス……っ」
「……マコト」

 ─足りない。
 そう囁かれて、僕はもう何も考えられなくなった。
 求められるままに口を開いて、それでも足りずに僕から殿下の唇を食む。殿下がピクリと体を跳ねさせた。でもそれはほんの一瞬の出来事で、すぐに僕を受け入れてくれた。僕も必死に舌を伸ばして深く深く口づけた。

「ん、は……っ、ぁ……フェリクス…っ」
「は……っ」

 掻き抱くようにしてお互いの背に腕を回して抱き合っていた。まるでお互いを貪るように唇を重ねながら、呼吸の合間に何度も名前を呼び合った。
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