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五章 まこと、ひとつ
4.餞(はなむけ)
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その日の残りの仕事をどう終えたのか、清吾には分からなかった。ただ、気付いたら住処で瓦版を手中に弄んでいた。何度読んでも、陽の光の下でも行燈の灯りのもとでも、刷られた内容は変わらない。
身請けの決まった唐織花魁に、思い合う情人がいること。花魁のために大金を摘んだ和泉屋は、間男を許すまじと息巻いていること。瓦版の挿絵は、花魁を責め立てる和泉屋の図だ。どこから聞いたのか分からない話を書き立てた後、筆者はさらに煽っていた。その男は花魁を攫うため、和泉屋に一泡吹かせるために姿を現すのか。はたまた涙を呑んで諦めるのか。その場合は、花魁は涙を見せるだろうか、と。
「これは、俺のことか……?」
いったい誰の話だか、と苦笑しつつ、清吾は振袖新造のさらさの言葉を思い出していた。
『和泉屋様も怪しんでいるご様子──』
だから二度と姿を見せるな、と。あの少女は必死に訴えていた。あのころから既に、和泉屋は花魁の情人の存在を疑っていたのかもしれない。あるいは、唐織がそのように仕向けて金を吐き出させようとしたのか。瓦版の絵図のように、あの女が問い詰められて泣き崩れる様はどうにも想像できない。
(となると、これは花魁の仕組んだことなのか……?)
唐織のことが片時も頭を離れない一方で、さすがに清吾も単純にあの女を信じたり案じたりする気は失せている。
嘘八百で美談を拵えてでも己の声望を高めようとしていたのを知っているからこそ、身請けに当たっても世間の耳目を引き付けようと目論んだ、ということは十分あり得る。妹分を巻き込んでの芝居も、すでにからくりを明かされた。
無論、和泉屋が嫉妬深いこともまた仄聞してはいるし、惚れこんだ女が横から攫われようとしていると思えば、あらゆる手を使って止めようとするのも当然ではある。
とはいえ、これが唐織の芝居なのか和泉屋の本気なのかは、大した問題ではないだろう。清吾の頭を悩ませるのは、ただ一点だ。
(あの女は、どちらを望んでいる……?)
噂通りに、彼が姿を見せるほうか。それによって、男に取り合いされるほどの女、との評判をも手に入れようというのか。
それとも、この騒動は和泉屋の暴走であって、晴れがましい身請けの行列が妨げられることは望まないのか。
いずれもあり得るし、そして、いずれであったとしても、清吾が行く必要はまったくない。これで最後と言われたのを真に受ければ──否、そもそも彼が瓦版を目にしたかどうかさえ、唐織には確かめることができないのだ。知らぬ振りを決め込んだところで、不義理を責められるいわれはない。ないのだが──
(身請け間際の駆け落ちか。まるで、先代の唐織花魁だな?)
あの夜、狭く蒸し暑い布団部屋で、唐織が語ったことを思い出してしまう。先代の唐織花魁は、捕らえられるのを覚悟で情人と吉原を飛び出そうとした、らしい。相手の男も、勘当なり袋叩きなり、代償を覚悟していたはずだ。その覚悟をもって好いた相手に接したことを、妹分の今の唐織はまことと呼んでいた。姉たちが見たという、あり得ぬみそかの月に焦がれる眼差しをしていた。
「俺が行っても、みそかの月は見えやしねえだろうが──」
何しろ、清吾と唐織の間にあるのは恋でも愛でもない。いくらかの縁で、心の裡を少しばかり打ち明けて慰め合った、それだけの関係だ。のこのこと顔を出したところで迷惑がられる可能性も、大いにある。
(だが、それでも……?)
危険を冒して、あの女に会うために現れた男がいた、ということ。その事実を餞に贈ってやりたいと思うのは──やはり清吾の勝手ではあるのだろうが。
「嘘だけで生きていくのは、辛えもの」
「信乃」を見送ったばかりの彼には、嘘を吐きとおした後の虚しさも骨身に染みて分かっている。少しばかりのまことの欠片くらい、渡してやっても良いだろう。要らぬ世話だというなら、あちらで投げ捨ててくれれば済むことだ。
丸めた瓦版を行燈の火にかざすと、瞬く間に燃え上がった。身を捩り、黒い煙を上げて灰と化していく紙切れは、果たして誰に似ていただろう。
身請けの決まった唐織花魁に、思い合う情人がいること。花魁のために大金を摘んだ和泉屋は、間男を許すまじと息巻いていること。瓦版の挿絵は、花魁を責め立てる和泉屋の図だ。どこから聞いたのか分からない話を書き立てた後、筆者はさらに煽っていた。その男は花魁を攫うため、和泉屋に一泡吹かせるために姿を現すのか。はたまた涙を呑んで諦めるのか。その場合は、花魁は涙を見せるだろうか、と。
「これは、俺のことか……?」
いったい誰の話だか、と苦笑しつつ、清吾は振袖新造のさらさの言葉を思い出していた。
『和泉屋様も怪しんでいるご様子──』
だから二度と姿を見せるな、と。あの少女は必死に訴えていた。あのころから既に、和泉屋は花魁の情人の存在を疑っていたのかもしれない。あるいは、唐織がそのように仕向けて金を吐き出させようとしたのか。瓦版の絵図のように、あの女が問い詰められて泣き崩れる様はどうにも想像できない。
(となると、これは花魁の仕組んだことなのか……?)
唐織のことが片時も頭を離れない一方で、さすがに清吾も単純にあの女を信じたり案じたりする気は失せている。
嘘八百で美談を拵えてでも己の声望を高めようとしていたのを知っているからこそ、身請けに当たっても世間の耳目を引き付けようと目論んだ、ということは十分あり得る。妹分を巻き込んでの芝居も、すでにからくりを明かされた。
無論、和泉屋が嫉妬深いこともまた仄聞してはいるし、惚れこんだ女が横から攫われようとしていると思えば、あらゆる手を使って止めようとするのも当然ではある。
とはいえ、これが唐織の芝居なのか和泉屋の本気なのかは、大した問題ではないだろう。清吾の頭を悩ませるのは、ただ一点だ。
(あの女は、どちらを望んでいる……?)
噂通りに、彼が姿を見せるほうか。それによって、男に取り合いされるほどの女、との評判をも手に入れようというのか。
それとも、この騒動は和泉屋の暴走であって、晴れがましい身請けの行列が妨げられることは望まないのか。
いずれもあり得るし、そして、いずれであったとしても、清吾が行く必要はまったくない。これで最後と言われたのを真に受ければ──否、そもそも彼が瓦版を目にしたかどうかさえ、唐織には確かめることができないのだ。知らぬ振りを決め込んだところで、不義理を責められるいわれはない。ないのだが──
(身請け間際の駆け落ちか。まるで、先代の唐織花魁だな?)
あの夜、狭く蒸し暑い布団部屋で、唐織が語ったことを思い出してしまう。先代の唐織花魁は、捕らえられるのを覚悟で情人と吉原を飛び出そうとした、らしい。相手の男も、勘当なり袋叩きなり、代償を覚悟していたはずだ。その覚悟をもって好いた相手に接したことを、妹分の今の唐織はまことと呼んでいた。姉たちが見たという、あり得ぬみそかの月に焦がれる眼差しをしていた。
「俺が行っても、みそかの月は見えやしねえだろうが──」
何しろ、清吾と唐織の間にあるのは恋でも愛でもない。いくらかの縁で、心の裡を少しばかり打ち明けて慰め合った、それだけの関係だ。のこのこと顔を出したところで迷惑がられる可能性も、大いにある。
(だが、それでも……?)
危険を冒して、あの女に会うために現れた男がいた、ということ。その事実を餞に贈ってやりたいと思うのは──やはり清吾の勝手ではあるのだろうが。
「嘘だけで生きていくのは、辛えもの」
「信乃」を見送ったばかりの彼には、嘘を吐きとおした後の虚しさも骨身に染みて分かっている。少しばかりのまことの欠片くらい、渡してやっても良いだろう。要らぬ世話だというなら、あちらで投げ捨ててくれれば済むことだ。
丸めた瓦版を行燈の火にかざすと、瞬く間に燃え上がった。身を捩り、黒い煙を上げて灰と化していく紙切れは、果たして誰に似ていただろう。
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