【完結】月よりきれい

悠井すみれ

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四章 闇の中

5.あり得ないもの

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吉原よしわらで駆け落ちの成功は──そうそうないと、聞いているが」

 唐織からおりの心をおもんぱかるなど、清吾せいごには出過ぎた真似だ。だから、彼に問うことができるとしたら、ただの事実に関わる部分についてだけだ。そして、その辺りならば唐織もすらすらと答えてくれる。

「おふたりとも、もとより無理はご承知でござんした。ただ、何もかもを捨てて、互いが互いを求めたということ、そのこそを求めたようでありんした」

 まこと、というひと言が、清吾の胸に落ちてさざ波を立てる。彼にとっても唐織にとっても、なんと縁遠い言葉だろう。だが、先代の唐織とその情人の間には、確かにまことの想いがあったのだろう。見込みの低さに怯むことなくくるわおきてに真っ向から挑んだその危害は、清吾にとってはあまりに眩しい。

(俺は……駆け落ちを考えたことはなかったな)

 信乃しのに対しては、大人しく年季明けを待つはらで、一日も早く自由に、などとは思っていなかった。唐織に対してはなおのこと、納得のいく男に身請みうけされるよう、他人事として願うだけで。

「捕らえられて、折檻されて──それでも姉さんは嬉しそうに笑っていなんした。たいそう珍しい、みそかの月を見たと。それは綺麗であったと。そういう姉さんの笑みこそが、見たこともないほど綺麗で清らかで幸せそうで……!」

 そのふたりが手に手を取り合ったのは、実際はきっと闇夜であっただろう。人目を忍んでの駆け落ちならば、そのほうが都合が良いだろうから。

 だが、清吾の目に浮かぶのは、眩い満月に照らされて進む男女の絵だった。実際に見たかどうかではない、何もかも捨てて互いだけを求めたふたりなら、あり得ぬみそかの月も見えたのだろう。まことの儚さと不確かさ、嘘を紡ぐ舌の苦さを思い知らされた今の清吾には、自然とそう思えた。

楼主おやかた様が、どう言い繕うたかは存じいせん。高田屋様は、決めた通りに姉さんを身請けしなさんした。心はほかの男にあっても構わぬほどに、姉さんに惚れ抜いていたのか、それもわちきには分かりいせんが──」

 唐織も、清吾と同じ想像をしたのだろう。続ける声音は悔しげで羨ましげで。そして、清吾から背けて夜空を睨む目は、見えない月を探しているようだった。あるいは、姉貴分たちに思いを馳せたのか。その思いとは、憎しみなのか慕わしさなのか。分からなかったが──

「唐織姉さんは、吉原一の花魁でありんした。身請けを望まれながら駆け落ちなどと、かような醜聞は

 振り向いて、清吾を見下ろす唐織の目は、赫々かっかくと燃えるようだった。清様とやらへの思いが叶わなかった悔しさでも、姉花魁に頼られなかった寂しさでもない。怒りとも苦しみとも違うその感情は──あえて呼ぶなら確固たる決意、だろうか。

「姉さんに、まことを捧げる情人などのでありんすよ。妹分のわちきが言うのだもの、

 だから、唐織は「清様」の助言については省いて清吾に語ったのだ。いない男に助けられた記憶など、それこそあってはならないから。唐織は、振袖新造ふりそでしんぞうのころから強かで、客をあしらうことができていた、と──そういうことに、なったのだ。

 そして、その男の存在をなかったことにしたのは、自身をからでも姉貴分をかどわかしたからでもないはずだ。その理由は、今の清吾ならもう分かる。

「みそかの月は、もののたとえに過ぎいせん。それも、あり得ぬことの! そうでなくては──そうではないなどと、わちきはわちきゃあ、我慢なりいせん」

 この女は、姉──先代の唐織ほどに、男を心底愛したことがない。愛されたこともない。だから、みそかの月も見たことがない。

(手に入らないものがあるのは──辛いだろうな)

 まして、すぐ傍にいた姉貴分は、それを手に入れて美しく笑んでいたとなれば。耐えられないだろう。許せないとさえ、思うだろう。どうして自分は得られないのだと、朝な夕なに歯噛みし続けることになるだろう。

 だから──そんなものはそもそものだと、必死に言い立てるのだ。そうすれば、自身の「今」に満足することができるから。そして、満足し続けるためには、清吾の信乃しのへの想いも、まことであってはならないのだ。

「だから──主がまんまと騙されてくれて、わちきは嬉しゅうござんした。主も、分かってくれえしたな?」

 やっと、何もかもに得心がいった。そして、もはや疑問も反論もない。清吾は、いとも容易く花魁の手練手管に墜ちた。信乃への思いを揺らがせて、偽のあざにも欺かれた。

 そのような彼であればこそ、心から頷くことも、できる。

「ああ、よく分かったよ。花魁……!」

 言うなり、清吾は立ち上がる。手を伸ばし、唐織を腕の中に収める。嗚咽のような吐息が彼の首のあたりをくすぐるが、女は抗うことはしなかった。

 これは、身のほど知らずのことではない。とはいえ、想いがあってのことでもない。

 嘘でまことを覆い隠さねば生きていけない者同士、相憐あいあわんで傷をなめ合うだけのことだった。
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