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四章 闇の中
4.清と唐織
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「姉さんは──先代の唐織は、そりゃあ綺麗なお人でありんした。稀代の花魁でありんした」
唐織は立ち、清吾は床に蹲ったまま。背丈の分だけ離れているはずなのに、どういう訳か耳元に囁かれている気がするのが不思議だった。それだけ、唐織は生の感情を彼にぶつけているのだろうか。
(この女の、まこと、なんて……)
唐織の言葉は、何ひとつ信じられない。清吾は骨身にしみて思い知らされたはずだった。それでも耳を傾けるし、彼女の真意を推し量ろうと考えを巡らせてしまう。きっと、彼女の言葉の裏にこそ、清吾を招き入れてから突き放した、本当の理由が潜んでいるのだと思いたいからだ。
月のない空を見上げながら、唐織は続ける。
「唐土に生まれていたなら、城どころか国のひとつやふたつは傾けていたに違いありいせん。客を子供のように手玉に取る手練手管は手妻のようで、見習わねば、精進せねばなりいせんと、小娘だったわちきは常々肝に銘じておりいした。……いまだに姉さんの足もとにも及びいせんが」
それこそ手妻のような手並みで清吾を弄んでおいて、唐織は自らを嘲って嗤う。清吾の耳には、彼女が語る言葉は当代の唐織その人を描いているとしか思えないのに。でも、姉の後姿を追うかのような眼差しは、確かに未熟な小娘の面影も有していた。
積み上げられた布団の山にしなだれて、唐織はほう、と溜息を吐く。
座敷に向かうところだったのだから、当然に化粧を濃く施しているだろうに。薄闇の中に浮かぶ白い顔は、かつてなく幼く見えた。そこらの小娘と似たり寄ったりの、純粋な憧れや可愛らしい思慕を語っているからだろうか。
「清様は、お客の中でもただひとり、姉さんと釣り合うお人。お歳は若くとも、大店の若旦那ゆえに見世も歓待して──ご登楼の折はいつもいつも、たいそう華やかな座敷でありんした。姉さんと清様が睦まじく過ごすためならば、名代の務めもちいとも苦ではなかった……」
唐織は、姉貴分の先代もその情人も、等しく好いて焦がれていたのだ、と分かった。和泉屋以上に遠い、あだ名しか知らぬ男を思い浮かべようとすると清吾の胸にさざ波が立つ。この女にこんな眼差しをさせるとは、さぞ好い男だったのだろう。
(俺なんかとは、違う……だからこそ、同じ字が気に入らなかったのか……?)
唐織の企みごとの理由が、ひとつ、腑に落ちた気がした。そして、名代と聞けばもうひとつ、この女に関わる逸話があった。
「あの、常陸の客の時も、か? 姉さんたちの逢瀬のために、客の訛りを調べてまで……?」
客の訛りを真似て、その気を惹いたことを、唐織はかつて手柄のように語っていた。世間で言われるような、同郷の者に尽くした心意気など手管のひとつに過ぎなかったのだと。
(だが、それもあんた自身のためではなくて。姉さんとその男のためだったんだな)
花魁の素顔を垣間見た気になっていた清吾は、やはり愚かで浅はかだったのだ。今、この時になって唐織が身の上話を始めた理由は、いまだ見えないが──彼の鈍さを徹底的に暴いて突き付けようということなのだろうか。
けれど唐織は、微かに首を振った。
「教えてくださんしたのは清様でありんした。わちきにかような知恵はござんせん」
その男の名を、唐織は大切そうに口にした。そうして思いの深さを見せつけて、清吾の胸をさらに乱した。闇の中、白粉越しでも、染まった頬が見えるようで。花魁にそんな顔をさせる男のことを、妬まずにはいられなかった。
「あのころのわちきは、本当に気が利かぬで──ああ、先のも嘘でありんした。姉さんも清さんも好きなのは本当。けれど、名代は嫌だった。わちきに、唐織の代わりが務まるはずもござんせん。また怒鳴られるのかと気が重く──そうしたら、清様がこう言えば良い、と」
確かに、世慣れた男ではあったのだろう。そのように助け舟を出されたら、惚れこむのも無理はない。思い出話の唐織は、今の手練れの花魁ではない。むしろ、清吾に憤りを露にした、振袖新造のさらさに近い少女だったのだろうから。
「思い上がりも甚だしいことでありんした。清様が、わちきに特別に──などと。あのお人は、本当に優しかっただけ。姉さんに一途だっただけ。だからこそ、妹分に過ぎぬ小娘に知恵を授けてくださんしただけ」
そこまでひと息に述べたところで、唐織の吐息の乱れが、布団部屋にこもる空気を揺らした。懐かしさや思慕に浸るだけでなく、感情の乱れを肌で感じて、清吾も思わず居住まいを正す。彼に聞かせているのか、独り言ちているのか──唐織の語り口はどちらともつかないから、清吾には立ったり口を挟んだりする隙が捉えられない。
「姉さんも、清様だけが一番で。互いに互いだけを見て。だから、わちきのことなど……っ」
「──花魁」
だが、唐織が我が身を掻きむしるように抱き締めたのを感じて、さすがに腰を浮かせた。
(単に振られただけじゃないのか……!?)
どうしてこんなに、と思うのは、彼の信乃への思いもやはり本気ではなかったのだろうか。あるいは、花魁に上り詰める女には、好いた男を振り向かせられなかったのが不満で不服で屈辱なのか。
それに、清吾は不審な点に気付いてしまったのだ。
「先代の唐織は、札差に身請けされたんだよな? その清様は、大店の若旦那って……」
話がかみ合っていないのではないか、と。清吾が問いながら差し伸べた手は、強く払い除けられた。哀れみは無用と態度で告げて、それでも唐織は清吾の疑問に答えてくれた。
「姉さんを根引いたのは、札差の高田屋様でありんした。清様のご実家も、それは羽振りが良うござんしたが、店を継ぐ前の若造には、花魁の身請けなどとてもとても叶いいせん。だから──」
唐織の頬が引き攣ったのが、闇に浮かぶ輪郭の揺れで分かった。花魁が、笑おうとして失敗したのだ。清吾はきっと、世にも珍しいものを見てしまった。
「姉さんと清様は、駆け落ちを企んだのでありんすよ。わちきには何も言わず何も頼らず、わちきを置いて……!」
深く強い恨みを込めて、詰る口調から、分かる。表情を取り繕うことさえ忘れるほどに、唐織は姉とその情人を等しく想っていたのだろう。
唐織は立ち、清吾は床に蹲ったまま。背丈の分だけ離れているはずなのに、どういう訳か耳元に囁かれている気がするのが不思議だった。それだけ、唐織は生の感情を彼にぶつけているのだろうか。
(この女の、まこと、なんて……)
唐織の言葉は、何ひとつ信じられない。清吾は骨身にしみて思い知らされたはずだった。それでも耳を傾けるし、彼女の真意を推し量ろうと考えを巡らせてしまう。きっと、彼女の言葉の裏にこそ、清吾を招き入れてから突き放した、本当の理由が潜んでいるのだと思いたいからだ。
月のない空を見上げながら、唐織は続ける。
「唐土に生まれていたなら、城どころか国のひとつやふたつは傾けていたに違いありいせん。客を子供のように手玉に取る手練手管は手妻のようで、見習わねば、精進せねばなりいせんと、小娘だったわちきは常々肝に銘じておりいした。……いまだに姉さんの足もとにも及びいせんが」
それこそ手妻のような手並みで清吾を弄んでおいて、唐織は自らを嘲って嗤う。清吾の耳には、彼女が語る言葉は当代の唐織その人を描いているとしか思えないのに。でも、姉の後姿を追うかのような眼差しは、確かに未熟な小娘の面影も有していた。
積み上げられた布団の山にしなだれて、唐織はほう、と溜息を吐く。
座敷に向かうところだったのだから、当然に化粧を濃く施しているだろうに。薄闇の中に浮かぶ白い顔は、かつてなく幼く見えた。そこらの小娘と似たり寄ったりの、純粋な憧れや可愛らしい思慕を語っているからだろうか。
「清様は、お客の中でもただひとり、姉さんと釣り合うお人。お歳は若くとも、大店の若旦那ゆえに見世も歓待して──ご登楼の折はいつもいつも、たいそう華やかな座敷でありんした。姉さんと清様が睦まじく過ごすためならば、名代の務めもちいとも苦ではなかった……」
唐織は、姉貴分の先代もその情人も、等しく好いて焦がれていたのだ、と分かった。和泉屋以上に遠い、あだ名しか知らぬ男を思い浮かべようとすると清吾の胸にさざ波が立つ。この女にこんな眼差しをさせるとは、さぞ好い男だったのだろう。
(俺なんかとは、違う……だからこそ、同じ字が気に入らなかったのか……?)
唐織の企みごとの理由が、ひとつ、腑に落ちた気がした。そして、名代と聞けばもうひとつ、この女に関わる逸話があった。
「あの、常陸の客の時も、か? 姉さんたちの逢瀬のために、客の訛りを調べてまで……?」
客の訛りを真似て、その気を惹いたことを、唐織はかつて手柄のように語っていた。世間で言われるような、同郷の者に尽くした心意気など手管のひとつに過ぎなかったのだと。
(だが、それもあんた自身のためではなくて。姉さんとその男のためだったんだな)
花魁の素顔を垣間見た気になっていた清吾は、やはり愚かで浅はかだったのだ。今、この時になって唐織が身の上話を始めた理由は、いまだ見えないが──彼の鈍さを徹底的に暴いて突き付けようということなのだろうか。
けれど唐織は、微かに首を振った。
「教えてくださんしたのは清様でありんした。わちきにかような知恵はござんせん」
その男の名を、唐織は大切そうに口にした。そうして思いの深さを見せつけて、清吾の胸をさらに乱した。闇の中、白粉越しでも、染まった頬が見えるようで。花魁にそんな顔をさせる男のことを、妬まずにはいられなかった。
「あのころのわちきは、本当に気が利かぬで──ああ、先のも嘘でありんした。姉さんも清さんも好きなのは本当。けれど、名代は嫌だった。わちきに、唐織の代わりが務まるはずもござんせん。また怒鳴られるのかと気が重く──そうしたら、清様がこう言えば良い、と」
確かに、世慣れた男ではあったのだろう。そのように助け舟を出されたら、惚れこむのも無理はない。思い出話の唐織は、今の手練れの花魁ではない。むしろ、清吾に憤りを露にした、振袖新造のさらさに近い少女だったのだろうから。
「思い上がりも甚だしいことでありんした。清様が、わちきに特別に──などと。あのお人は、本当に優しかっただけ。姉さんに一途だっただけ。だからこそ、妹分に過ぎぬ小娘に知恵を授けてくださんしただけ」
そこまでひと息に述べたところで、唐織の吐息の乱れが、布団部屋にこもる空気を揺らした。懐かしさや思慕に浸るだけでなく、感情の乱れを肌で感じて、清吾も思わず居住まいを正す。彼に聞かせているのか、独り言ちているのか──唐織の語り口はどちらともつかないから、清吾には立ったり口を挟んだりする隙が捉えられない。
「姉さんも、清様だけが一番で。互いに互いだけを見て。だから、わちきのことなど……っ」
「──花魁」
だが、唐織が我が身を掻きむしるように抱き締めたのを感じて、さすがに腰を浮かせた。
(単に振られただけじゃないのか……!?)
どうしてこんなに、と思うのは、彼の信乃への思いもやはり本気ではなかったのだろうか。あるいは、花魁に上り詰める女には、好いた男を振り向かせられなかったのが不満で不服で屈辱なのか。
それに、清吾は不審な点に気付いてしまったのだ。
「先代の唐織は、札差に身請けされたんだよな? その清様は、大店の若旦那って……」
話がかみ合っていないのではないか、と。清吾が問いながら差し伸べた手は、強く払い除けられた。哀れみは無用と態度で告げて、それでも唐織は清吾の疑問に答えてくれた。
「姉さんを根引いたのは、札差の高田屋様でありんした。清様のご実家も、それは羽振りが良うござんしたが、店を継ぐ前の若造には、花魁の身請けなどとてもとても叶いいせん。だから──」
唐織の頬が引き攣ったのが、闇に浮かぶ輪郭の揺れで分かった。花魁が、笑おうとして失敗したのだ。清吾はきっと、世にも珍しいものを見てしまった。
「姉さんと清様は、駆け落ちを企んだのでありんすよ。わちきには何も言わず何も頼らず、わちきを置いて……!」
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