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四章 闇の中
3.毀れる仮面
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「なぜ。なぜ、と仰えしたなあ」
表情だけでなく、唐織の声も、歌でも歌うかのように楽しげだった。
「卵の四角に女郎のまこと、あればみそかに月が出る──」
口ずさみながら、唐織は立ち上がると部屋の奥に向かったようだった。木が擦れる音と、蒸し暑さを和らげる涼気によって、布団部屋にも窓があったこと、唐織がそれを開けたことが分かる。
清吾が目を凝らしても、視界の暗さにさほどの変わりはなかったが。吉原の輝きに気圧されて、星明かりなど見えはしない。月は、この時期のこの時刻には、空にいない。──あるいは、嘘が渦巻く吉原には、似つかわしくない。
唐織も、清吾と同じことを考えているに違いなかった。夜風に乗って届く三味線の音や、幇間の笑い声、禿の甲高い嬌声に耳を傾ける風情で窓を窺いながら、月がないのを確かめていると見えたから。
やがて、空の暗さに得心したのだろうか。唐織は清吾のほうへ振り向いた。
「女郎に限らず、まことなどこの世にありいせん。それを、主に教えたかった。わちきも、確かめたかったのでありんすよ」
清吾が喚き散らした問いへの答えが、ようやく与えられたのだ。
(俺には、まことなんざない。そうだ、嫌というほど思い知らされた……)
信乃を探していたくせに、唐織の美貌や親しげな態度に心揺さぶられていた。もしかしたら、この女こそ幼馴染であれば良いとさえ、頭の隅では考えていた。それは、花魁として成功してくれていれば良い、という思いからではなく、それなら彼が苦労して骨を折らずとも良いから、ということではなかったのか。
身請けの金を工面しようとか、駆け落ちの算段をしようとか、そんなことは考えもしなかった。唐織が疎んだ和泉屋という札差のほうがよほど、この女に真摯ではななかったろうか。
「信乃」を本物と信じ込んだのも、そもそも信乃の顔を忘れていたからだ。会えば分かると、何の根拠もなく信じていた癖に。だから痣に頼って、惑わされた。……違う、勝手に惑った。
「ああ……確かに教えられた。あんたは、すぐに分かったのか。俺が、信乃を探していると言ったその時から……? 俺は、そこまで」
自身が嘘を巧みに操るからこそ、唐織は彼の欺瞞を見抜いたのだろう、と思った。自らの嘘で自らを騙し、善い行いをしているのだと酔っていた。
(それが、気に食わなかったのか? だから……?)
だから教えてくれたのか、と清吾は合点し、唐織も小さく頷いた。
「会うた時から、主のことは好きいせなんだ。甘い夢から叩き起こしてやりたい、ひとりだけ綺麗ごとを言わせはしない、と──それで企んだのでありんすよ」
「……そうか」
変わらず歌うように節をつけて、唐織は彼を罵る。うなだれて、悄然と言葉の礫を受け止める態度も気に入らなかったのだろうか、しっとりと艶を帯びた涼やかな声は、やがて激情にささくれ立ち、語勢も強まっていく。
「信乃には会うておりいせんが、会わずとも、たとえ死んでいようとも好きいせん。一途に女を想う男も、想われる女も──綺麗過ぎて、虫唾が走る! かようなものはみそかの月、しょせんはあり得ぬものだというに……!」
罵倒が信乃にも及んで、清吾は思わず目を上げた。唐織の姿は、闇の中に浮かび上がるほのかな輪郭ですらない。漏れ入る廊下の灯りに煌めくのは、豪華絢爛な装いの金や銀や絹の輝き。
それに、唐織の双眸が爛々と光る。清吾への悪意や苛立ちによる高揚によってだけではなく──その光は、濡れて、揺らいでいるような。
「あんた──」
泣いているのか、と気付いて、清吾は狼狽えた。それほどに嫌われているのか、という動揺と、これも手管のうちなのか、という疑いに翻弄されて。
(この女の言うこと、やることだ。何も信じてはいけない……)
言われたばかりの言葉を噛み締めながら、それでも、鈍い彼にも思い当たることがあった。唐織がみそかの月と呼ぶものは何なのか──立ち入った問いになるのは百も承知、確かめたいと、思ってしまった。
「想う男がいたのか? そいつに、欺かれたのか? だから……?」
まさか、と思った。唐織がこうも感情を剥き出しにしていることも。美しく嫋やかで、そして強かなこの女に、靡かぬ男がいることも。
頭ごなしに否定されることを覚悟しての問いかけに、返って来たのは乾いた笑い声だった。清吾の邪推を笑い飛ばすようで、けれど逆に肯定するような。思慕と怨みと、諦めと未練と──様々な情念がこもごも混ざり合った響きが、彼の胸を刺す。
「清様は、わちきのことなど何とも思っておりいせん。欺くも何も……! わちきとは、そもそも何にもありいせん。あのお人は、本当に粋で洒脱で、優しくて──それだけのお人で、ありんした……!」
「清様……?」
彼と同じ呼び名であっても、「様」と「さん」ではまるで違う。何より、唐織が語るその男の像は、清吾のことではあり得ない。彼が首を捻る気配を感じたのか、唐織が焦れたように足を踏み鳴らした。分からないのが、許せないとでも言いたげに。
「主が悪いのでありんすよ。清様と同じ字の名を持って、清様と似たようなことをなさんすから。だから、わちきもかような意地悪を……!」
唐織が彼を嫌った理由は、そもそも名前にもあるようだった。あの雨の夜、名乗った瞬間から。清さんと親しく呼び掛けながら、唐織はかつての何かしらの想いを再燃させていたらしい。
この女が纏う仮面、本心を覆う嘘は、こうも分厚く見通せないものだったのだ。
「誰なんだ、そいつは。あんたの情人でないなら。似たようなって言うのは……言い交した、訳ではないのか……?」
何ひとつ気付かなかったし分からなかった。その事実に打ちのめされて、清吾は問いを重ねた。塗り固めた嘘にも綻びができたのか、唐織は今やするすると答えてくれる。
「姉さんの情人でありんした。美男美女で、よう似合いの……対の雛や、番の鴛鴦のようで! 見るごとに見蕩れて、毎度毎度、ほれぼれする思いでありんした……! わちきなど、割って入る隙がないほどに!」
激しく言い立てる勢いは、堤防の一穴から濁流が溢れだす様を思い起こさせた。
表情だけでなく、唐織の声も、歌でも歌うかのように楽しげだった。
「卵の四角に女郎のまこと、あればみそかに月が出る──」
口ずさみながら、唐織は立ち上がると部屋の奥に向かったようだった。木が擦れる音と、蒸し暑さを和らげる涼気によって、布団部屋にも窓があったこと、唐織がそれを開けたことが分かる。
清吾が目を凝らしても、視界の暗さにさほどの変わりはなかったが。吉原の輝きに気圧されて、星明かりなど見えはしない。月は、この時期のこの時刻には、空にいない。──あるいは、嘘が渦巻く吉原には、似つかわしくない。
唐織も、清吾と同じことを考えているに違いなかった。夜風に乗って届く三味線の音や、幇間の笑い声、禿の甲高い嬌声に耳を傾ける風情で窓を窺いながら、月がないのを確かめていると見えたから。
やがて、空の暗さに得心したのだろうか。唐織は清吾のほうへ振り向いた。
「女郎に限らず、まことなどこの世にありいせん。それを、主に教えたかった。わちきも、確かめたかったのでありんすよ」
清吾が喚き散らした問いへの答えが、ようやく与えられたのだ。
(俺には、まことなんざない。そうだ、嫌というほど思い知らされた……)
信乃を探していたくせに、唐織の美貌や親しげな態度に心揺さぶられていた。もしかしたら、この女こそ幼馴染であれば良いとさえ、頭の隅では考えていた。それは、花魁として成功してくれていれば良い、という思いからではなく、それなら彼が苦労して骨を折らずとも良いから、ということではなかったのか。
身請けの金を工面しようとか、駆け落ちの算段をしようとか、そんなことは考えもしなかった。唐織が疎んだ和泉屋という札差のほうがよほど、この女に真摯ではななかったろうか。
「信乃」を本物と信じ込んだのも、そもそも信乃の顔を忘れていたからだ。会えば分かると、何の根拠もなく信じていた癖に。だから痣に頼って、惑わされた。……違う、勝手に惑った。
「ああ……確かに教えられた。あんたは、すぐに分かったのか。俺が、信乃を探していると言ったその時から……? 俺は、そこまで」
自身が嘘を巧みに操るからこそ、唐織は彼の欺瞞を見抜いたのだろう、と思った。自らの嘘で自らを騙し、善い行いをしているのだと酔っていた。
(それが、気に食わなかったのか? だから……?)
だから教えてくれたのか、と清吾は合点し、唐織も小さく頷いた。
「会うた時から、主のことは好きいせなんだ。甘い夢から叩き起こしてやりたい、ひとりだけ綺麗ごとを言わせはしない、と──それで企んだのでありんすよ」
「……そうか」
変わらず歌うように節をつけて、唐織は彼を罵る。うなだれて、悄然と言葉の礫を受け止める態度も気に入らなかったのだろうか、しっとりと艶を帯びた涼やかな声は、やがて激情にささくれ立ち、語勢も強まっていく。
「信乃には会うておりいせんが、会わずとも、たとえ死んでいようとも好きいせん。一途に女を想う男も、想われる女も──綺麗過ぎて、虫唾が走る! かようなものはみそかの月、しょせんはあり得ぬものだというに……!」
罵倒が信乃にも及んで、清吾は思わず目を上げた。唐織の姿は、闇の中に浮かび上がるほのかな輪郭ですらない。漏れ入る廊下の灯りに煌めくのは、豪華絢爛な装いの金や銀や絹の輝き。
それに、唐織の双眸が爛々と光る。清吾への悪意や苛立ちによる高揚によってだけではなく──その光は、濡れて、揺らいでいるような。
「あんた──」
泣いているのか、と気付いて、清吾は狼狽えた。それほどに嫌われているのか、という動揺と、これも手管のうちなのか、という疑いに翻弄されて。
(この女の言うこと、やることだ。何も信じてはいけない……)
言われたばかりの言葉を噛み締めながら、それでも、鈍い彼にも思い当たることがあった。唐織がみそかの月と呼ぶものは何なのか──立ち入った問いになるのは百も承知、確かめたいと、思ってしまった。
「想う男がいたのか? そいつに、欺かれたのか? だから……?」
まさか、と思った。唐織がこうも感情を剥き出しにしていることも。美しく嫋やかで、そして強かなこの女に、靡かぬ男がいることも。
頭ごなしに否定されることを覚悟しての問いかけに、返って来たのは乾いた笑い声だった。清吾の邪推を笑い飛ばすようで、けれど逆に肯定するような。思慕と怨みと、諦めと未練と──様々な情念がこもごも混ざり合った響きが、彼の胸を刺す。
「清様は、わちきのことなど何とも思っておりいせん。欺くも何も……! わちきとは、そもそも何にもありいせん。あのお人は、本当に粋で洒脱で、優しくて──それだけのお人で、ありんした……!」
「清様……?」
彼と同じ呼び名であっても、「様」と「さん」ではまるで違う。何より、唐織が語るその男の像は、清吾のことではあり得ない。彼が首を捻る気配を感じたのか、唐織が焦れたように足を踏み鳴らした。分からないのが、許せないとでも言いたげに。
「主が悪いのでありんすよ。清様と同じ字の名を持って、清様と似たようなことをなさんすから。だから、わちきもかような意地悪を……!」
唐織が彼を嫌った理由は、そもそも名前にもあるようだった。あの雨の夜、名乗った瞬間から。清さんと親しく呼び掛けながら、唐織はかつての何かしらの想いを再燃させていたらしい。
この女が纏う仮面、本心を覆う嘘は、こうも分厚く見通せないものだったのだ。
「誰なんだ、そいつは。あんたの情人でないなら。似たようなって言うのは……言い交した、訳ではないのか……?」
何ひとつ気付かなかったし分からなかった。その事実に打ちのめされて、清吾は問いを重ねた。塗り固めた嘘にも綻びができたのか、唐織は今やするすると答えてくれる。
「姉さんの情人でありんした。美男美女で、よう似合いの……対の雛や、番の鴛鴦のようで! 見るごとに見蕩れて、毎度毎度、ほれぼれする思いでありんした……! わちきなど、割って入る隙がないほどに!」
激しく言い立てる勢いは、堤防の一穴から濁流が溢れだす様を思い起こさせた。
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