【完結】月よりきれい

悠井すみれ

文字の大きさ
上 下
19 / 32
四章 闇の中

1.遠ざかる月

しおりを挟む
 「信乃しの」の容態が落ち着くまでに、数日を要した。肉体だけではない、心の話だ。清吾せいごの顔を見るとひどく怯えて狼狽うろたえるから、その度にお前は悪くないと囁いて、信乃、と呼んでやらなければならない。

 痩せた身体が折れるのではないかと恐れながら、それでも暴れる手足が何かしらにぶつかって傷つくのを避けるため、清吾は「信乃」を強く抱きしめる。

「落ち着け、。そんな調子じゃ、良くなるものも悪くなっちまう」
「清吾、でも、あたし……っ」
「構わねえ。こごさいでぐれれば良いから」

 故郷の訛りで告げたとしても、この「信乃」には親しみも何もないだろうが。あざを模した刺青いれずみを暴いたあの夜は、悪い夢のようなものだったのだ、と伝えているつもりだった。あんなことはなかった。彼は、この女を信乃だと信じ込んでいる。だから女のほうも、彼を幼馴染だと扱って頼って良いのだ。

 でも、だって、とぐずってむずかる女をあやしながら見上げる夜空は、いつも暗かった。裏長屋から見える空など狭いものだから、月が見える時間など限られているのだろうが。清吾は胸の裡で、幾度も唐織からおりの言葉を反芻していた。

(みそかには、月は見えない……)

 女郎のまことは、末日みそかに月が出るほどにあり得ない。吉原よしわらにあって真実とは、それほどに手の届かない幻の輝きなのだ。

『まこととやらを、輝く月と比べる性根が好きいせん。誰も好んで嘘を重ねるのではありいせんのに』

 月のない闇を見上げて呟いた唐織の想いが、今の清吾には分かる気がした。

 まこととは、何と美しく、そして儚く遠いものだっただろう。信乃のために力を尽くすと誓ったのは偽りのない本心だと信じていたのに、清吾には幼馴染の顔を見分けることもできなかった。腕に抱いているのは赤の他人だと知った上で、切り捨てることもできず、大切な信乃の名で呼びかけている。

 人の心の真実など、自分自身にすら分からない。女郎の嘘を卑しむなど勝手なことで、嘘に縋らねば身動き取れない時もあると、清吾は思い知らされてしまった。

「ごめん。ごめんねえ、清吾……」
「うん、良いがら、信乃……」

 泣き疲れた末に眠ったらしい「信乃」の夢見は、きっと良いものではないだろう。嘘を清吾に責められることへの恐れ、捨てられて野ざらしの死体と果てることへの怯えは、目を閉じたところで逃がしてはくれないはずだ。寄せられた眉、食いしばった口元から、闇の中を手探りでさまよう悪夢を見ているのではないかと思う。

 そして、清吾も。目を開けてはいても、見えるのは闇ばかりだ。嘘を重ねる度に、彼の視界は暗く塗り潰されていく。本物の信乃の面影も、また。

 それでも光明を見出そうと目を凝らせば、夜空には月の代わりに美しい女の姿が浮かぶ気がした。それもまた、清吾の勝手な望み、届かぬ憧れでしかないのだろうが。

      * * *

 清吾と「信乃」を傍から見れば、身体の衰えと共に心も弱っていく女房を、辛抱強く宥める男、になるらしい。だから、長屋の住人が清吾を見る目はいっそう優しく、かえって彼をさいなんだ。緩んだ氷の上を渡るような平穏はとうに崩れ落ち、冷たい水に落ちてふたりして溺れかけているのだとは、誰も気付いていないのだ。

(だから──まあ、ひと晩くらいは大丈夫、だろう)

 六月も末に近付いたある夜、清吾は眠る「信乃」をおいて、ひとりそっと家を出た。裏長屋の壁など薄いから、もしも「信乃」が目覚めて騒いだら、誰かしら起き出して宥めてくれると思いたかった。

(我ながら薄情なことだが)

 だが、正直に告げれば「信乃」はまた我を忘れて泣き叫ぶのだろう。──唐織からおりに、ことの次第を確かめに行くのだ、などと。

 月はもう新月に向けて痩せ細り、地上を照らす輝きとしては心もとない。みそかの月などないのだ、と。当然の道理を改めて噛み締めるし、清吾には似合いの闇夜だ、とも思う。何より、密かに錦屋にしきやに忍び込むには好都合だった。

(まともに行っても、もう会っちゃくれないだろうからな……)

 あの女は、忘れろ、と清吾を突き放したのだから。
 あの痣を見せておいて、まったく無理を言う。彼の心をかき乱して、深く鋭く抉ったのは分かるだろうに。信乃の顔を忘れ、見わけもつかなかった愚か者でも──あるいはだからこそ、何も知らないままではいられないのだ。

      * * *

 なかの町通りの喧騒を避けて、清吾は錦屋の裏手に回った。江戸町一丁目に構える大見世といえど、客はこの辺りまで来ることはない。共用のかわやしつらえられていることもあり、見世の者や出入りの者の人影はそれなりにあるが──その辺り、清吾はくるわの内情もよく知っている。

の字屋だけど、上がらせてもらうよ。台が足りなくてね」

 じった手拭いを鉢巻きにして、清吾はの字屋を装った。台のもの──座敷に出す料理の仕出しを手がける店のことだ。あちこちの店に出入りする商売だから、料理を運ぶだけでなく、注文の入り具合によっては食器の回収に駆け回ることもあるのだ。

「ああ、二階の端に置いてあるよ。持って行っておくれ」
「どうも」

 顔を伏せての早口は、急いでいるからと都合よく考えてもらえたらしい。首尾よく見世の二階に上がった清吾は、廊下の曲がり角に身を隠してそっと様子を窺った。

(唐織は──客がいるんだろうな……)

 身請みうけを控えた花魁には、名残を惜しむ客が殺到するものらしい。見世にとっては最後の稼ぎ時でもあり、清吾がいたころのように怠けることは許されないだろう。

(だが、複数の客を渡り歩いているなら、廊下に出ることもあるはず……!)

 ある座敷でひとりの客の相手をして、しばらくしたらまた別の座敷に、と。そうでもしなければ、唐織に会おうとする客のすべてをさばくことはできないだろうから。

 だから、焦りと緊張に高鳴る胸を抑えて、清吾は人の行き来を注視した。千鳥足で厠に向かう客、本物のの字屋、呼ばれた座敷に向かう芸者や幇間たいこもちから身を隠しながら。もちろん、客の寝所に向かう女郎もいる。彼女らの色とりどりの仕掛しかけをいくつも見送った後──ついに、待っていた姿が現れた。

ぬしは……!」

 目をみはってあえいだのは、振袖新造ふりそでしんぞうのさらさだった。彼女が付き従う唐織のほうは平静なもので、清吾を前にしても婉然えんぜんと微笑んでいる。

(……俺を待っていたんじゃないだろうな?)

 まさか、と思いながらも都合の良いことを考えて、戸惑ったのも一瞬のこと。すぐに肚を括り、清吾は唐織に手を伸ばした。

「話がある。何のことだかは、分かってるだろうが」

 見世のただ中で、花魁に対するあるまじき狼藉ろうぜきだ。さらさはますます目を見開き、叫ぶために胸が動いた。が、唐織の流し目が、妹分の喉を縫い留める。

能勢のせ様にはわちきがしゃくを起こしたとでも言いなんし。しばし休んだら、必ず参りいす、と」
「そんな、姉さ──」

 さらさの反駁を聞いている余裕などなかった。清吾は唐織の腕を取り、手近な布団部屋に引きずり込んだ。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

南町奉行所お耳役貞永正太郎の捕物帳

勇内一人
歴史・時代
第9回歴史・時代小説大賞奨励賞受賞作品に2024年6月1日より新章「材木商桧木屋お七の訴え」を追加しています(続きではなく途中からなので、わかりづらいかもしれません) 南町奉行所吟味方与力の貞永平一郎の一人息子、正太郎はお多福風邪にかかり両耳の聴覚を失ってしまう。父の跡目を継げない彼は吟味方書物役見習いとして南町奉行所に勤めている。ある時から聞こえない正太郎の耳が死者の声を拾うようになる。それは犯人や証言に不服がある場合、殺された本人が異議を唱える声だった。声を頼りに事件を再捜査すると、思わぬ真実が発覚していく。やがて、平一郎が喧嘩の巻き添えで殺され、正太郎の耳に亡き父の声が届く。 表紙はパブリックドメインQ 著作権フリー絵画:小原古邨 「月と蝙蝠」を使用しております。 2024年10月17日〜エブリスタにも公開を始めました。

葉桜よ、もう一度 【完結】

五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。 謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

日本列島、時震により転移す!

黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。

吉原の楼主

京月
歴史・時代
吉原とは遊女と男が一夜の夢をお金で買う女性 水商売に情は不要 生い立ち、悲惨な過去、そんなものは気にしない これは忘八とよばれた妓楼の主人の話

【完結】絵師の嫁取り

かずえ
歴史・時代
長屋シリーズ二作目。 第八回歴史・時代小説大賞で奨励賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 小鉢料理の店の看板娘、おふくは、背は低めで少しふくふくとした体格の十六歳。元気で明るい人気者。 ある日、昼も夜もご飯を食べに来ていた常連の客が、三日も姿を見せないことを心配して住んでいると聞いた長屋に様子を見に行ってみれば……?

処理中です...