18 / 32
三章 想いの値段
6.暴露
しおりを挟む
ふと気付くと、清吾は神田の界隈をふらふらと歩いていた。いったいいつ、どのようにして錦屋を辞したのか覚えていないが、信乃──信乃だと思っていた女が待つ長屋は、もう目と鼻の先だ。
(あの女は、何者だ? 信乃は──誰なんだ?)
通り過ぎる者たちが、怪訝そうな面持ちで清吾を振り向くのが、視界の端に見えた。彼はいったい、どのような顔色をしているのだろう。青褪めているのか、頬に朱を上らせているのか。額から滴る汗が、顎から落ちるような気もしたが。
(分からない……!)
何も分からなかった。ただ、花びらの形の痣が目に焼き付いて離れない。唐織の、新雪の肌に舞い落ちるようなそれ。信乃──だと思っていた女の、痩せてくすんだ色の肌に張り付くそれ。同じ形に見えた。なぜ、信乃の痣を帯びる女がふたりもいるのか。
道理で考えれば、そのうちのひとりは偽者なのだ。だが、どちらが? そして、偽者を用意したのは、何者で、何の目的があったのか。
「清吾、どうした。今日の仕事はもう終わったのか?」
と、さまよううちに、知り合いに行き会ったらしい。彼の顔を覗き込むのが誰だったか──とっさに思い出せないまま、清吾はうわごとのように呟いた。
「いや……信乃、が」
ふたりいた? 偽者だった? いや、言えるはずがない。言ったところで、理解されるはずがない。
「何だ、女房が心配で帰って来たのか?」
「信乃さんなら、さっきは起きてたけどねえ」
立ち止まり、言い淀んだ清吾に、もうひとり、ふたりと、心配顔の者たちが近づいて来る。男女の別も年齢も様々な──では、長屋の住人たちだろうか。誰も彼も、顔に靄がかかったようで、区別がつかない。姿のぼやけた幽霊にでも囲まれている気分だった。気味が悪くて、落ち着かない。
(いや……俺の目がおかしいのか?)
そうかもしれない。彼は、信乃の顔さえ覚えていなかった。痣に頼らなければ見分けることができなくて、だから今、こんなことになっている。
「そうだ……信乃と、話がしたくて。──すまん、通してくれ」
よろめくように足を踏み出して、清吾は彼を囲んだ人垣をすり抜けた。
* * *
戸を開ける音で、女は目覚めたようだった。裏長屋の、昼でも暗い室内に、布団から起き上がろうとする影がもがくのが見て取れた。まだ生きていてくれた、と。これまでならば、この上なく安堵する気配だったはずなのに。今では、誰とも知れない者が家にいるという不安が勝る。
「清吾。早かったね……?」
「信乃」
喜びと不審が入り交ざった問いかけには答えず、清吾は短く呼んだ。目の前の女ではなく、行方知れずの──今また、行方が知れなくなった──幼馴染の名を。
雪駄を脱ぎ捨てて、女の枕元に駆け寄る。布団をめくり、足に手をかける。寝乱れた襦袢を剥がれようとしたところで、女がようやく声を上げ、もがいた。
「なに。どうしたの清吾」
だが、痩せ枯れた手足では若い男の力には敵わない。掠れて張りの失せた声もまた、清吾を制止するだけの力はない。
「いや。だめ、やめ──」
ほんの数秒の間に、清吾は女の右足を晒させていた。桜の花びらの形の痣は、行水や着替えを手伝う折に、もちろん何度も目にしていた。だが、これまでは痣でないかもしれない、などとは考えてもいなかった。だが──
(痣に似せた刺青だ。よくできている……!)
自然な輪郭といい肌への馴染み具合といい、まったく見事な技だった。文字や絵柄と違ってはっきりと誇示するためのものではないし、清吾の目がそれだけ節穴だったからでもあるのだろうが。
とにかく、これでひとつ、はっきりした。この女は信乃ではないのだ。女の足から離れた清吾の手が、今度はその肩を掴む。やはり枯れ木のように細く、軽くなった身体を激しく揺さぶり、問い質す。
「お前は……誰だ。信乃じゃないのか。あいつを知ってるのか。信乃は、本当の信乃はどうなった!??」
「ごめ、なさ──」
大声に身体を竦ませながら、女は詫びた。身体からは水気が失せているだろうに、両の目尻から涙の雫が零れ落ちる。
「か、唐織花魁が! 羅生門河岸で死ぬのは、浄閑寺の無縁仏は嫌だろうって。上手くやれば、最期に良い思いができるし……ひ、人助けにも、なるからって」
女は、清吾の詰問に何ひとつ答えてくれなかった。ただ、言い訳を連ねるだけで。だから清吾が本当に知りたいことは分からないままだ。
(唐織花魁が、信乃なんじゃないのか……? 人助けっていうのは……?)
清吾に、「信乃」を会わせてやる、ということなのか。だが、ならばどうして、唐織の痣を見せる必要がある? 一度信じさせておいて、どうして薄氷の平穏を叩き壊したのだろう。
「ご、ごめんなさ──お願、す、捨てないで。放り出さないで……!」
嗚咽だか咳だが分からない、ひゅうひゅうという息の音の混ざった声で、女は必死に清吾に訴えている。折れそうな指が彼に縋る、思いのほかの強さは、それだけ野垂れ死にが怖いのだろうと察せられた。この女は恐らく彼の問いへの答えを知らないということも。──そもそも、これ以上問い詰めることはできそうにない。
「……信乃」
結局のところ、彼はここしばらくの間、この女を信乃と呼んで過ごしてきた。偽者と知っても突き放せないていどの情は、すでに湧いている。ほかに呼ぶ名前も、思いつけない。
「清吾。許して。堪忍して。どうか。どうか──」
「……落ち着け。俺も悪かった。もう良い。良いから……!」
嘘を暴かれて狼狽したことで、女は我を忘れて興奮してしまったようだ。弱り切った身体には、声を上げて泣きわめくのは毒にしかならないだろう。安らぎを奪ってしまった後悔と共に、清吾は女の身体を抱き締め、意味のない慰めを囁き続けた。
(あの女は、何者だ? 信乃は──誰なんだ?)
通り過ぎる者たちが、怪訝そうな面持ちで清吾を振り向くのが、視界の端に見えた。彼はいったい、どのような顔色をしているのだろう。青褪めているのか、頬に朱を上らせているのか。額から滴る汗が、顎から落ちるような気もしたが。
(分からない……!)
何も分からなかった。ただ、花びらの形の痣が目に焼き付いて離れない。唐織の、新雪の肌に舞い落ちるようなそれ。信乃──だと思っていた女の、痩せてくすんだ色の肌に張り付くそれ。同じ形に見えた。なぜ、信乃の痣を帯びる女がふたりもいるのか。
道理で考えれば、そのうちのひとりは偽者なのだ。だが、どちらが? そして、偽者を用意したのは、何者で、何の目的があったのか。
「清吾、どうした。今日の仕事はもう終わったのか?」
と、さまよううちに、知り合いに行き会ったらしい。彼の顔を覗き込むのが誰だったか──とっさに思い出せないまま、清吾はうわごとのように呟いた。
「いや……信乃、が」
ふたりいた? 偽者だった? いや、言えるはずがない。言ったところで、理解されるはずがない。
「何だ、女房が心配で帰って来たのか?」
「信乃さんなら、さっきは起きてたけどねえ」
立ち止まり、言い淀んだ清吾に、もうひとり、ふたりと、心配顔の者たちが近づいて来る。男女の別も年齢も様々な──では、長屋の住人たちだろうか。誰も彼も、顔に靄がかかったようで、区別がつかない。姿のぼやけた幽霊にでも囲まれている気分だった。気味が悪くて、落ち着かない。
(いや……俺の目がおかしいのか?)
そうかもしれない。彼は、信乃の顔さえ覚えていなかった。痣に頼らなければ見分けることができなくて、だから今、こんなことになっている。
「そうだ……信乃と、話がしたくて。──すまん、通してくれ」
よろめくように足を踏み出して、清吾は彼を囲んだ人垣をすり抜けた。
* * *
戸を開ける音で、女は目覚めたようだった。裏長屋の、昼でも暗い室内に、布団から起き上がろうとする影がもがくのが見て取れた。まだ生きていてくれた、と。これまでならば、この上なく安堵する気配だったはずなのに。今では、誰とも知れない者が家にいるという不安が勝る。
「清吾。早かったね……?」
「信乃」
喜びと不審が入り交ざった問いかけには答えず、清吾は短く呼んだ。目の前の女ではなく、行方知れずの──今また、行方が知れなくなった──幼馴染の名を。
雪駄を脱ぎ捨てて、女の枕元に駆け寄る。布団をめくり、足に手をかける。寝乱れた襦袢を剥がれようとしたところで、女がようやく声を上げ、もがいた。
「なに。どうしたの清吾」
だが、痩せ枯れた手足では若い男の力には敵わない。掠れて張りの失せた声もまた、清吾を制止するだけの力はない。
「いや。だめ、やめ──」
ほんの数秒の間に、清吾は女の右足を晒させていた。桜の花びらの形の痣は、行水や着替えを手伝う折に、もちろん何度も目にしていた。だが、これまでは痣でないかもしれない、などとは考えてもいなかった。だが──
(痣に似せた刺青だ。よくできている……!)
自然な輪郭といい肌への馴染み具合といい、まったく見事な技だった。文字や絵柄と違ってはっきりと誇示するためのものではないし、清吾の目がそれだけ節穴だったからでもあるのだろうが。
とにかく、これでひとつ、はっきりした。この女は信乃ではないのだ。女の足から離れた清吾の手が、今度はその肩を掴む。やはり枯れ木のように細く、軽くなった身体を激しく揺さぶり、問い質す。
「お前は……誰だ。信乃じゃないのか。あいつを知ってるのか。信乃は、本当の信乃はどうなった!??」
「ごめ、なさ──」
大声に身体を竦ませながら、女は詫びた。身体からは水気が失せているだろうに、両の目尻から涙の雫が零れ落ちる。
「か、唐織花魁が! 羅生門河岸で死ぬのは、浄閑寺の無縁仏は嫌だろうって。上手くやれば、最期に良い思いができるし……ひ、人助けにも、なるからって」
女は、清吾の詰問に何ひとつ答えてくれなかった。ただ、言い訳を連ねるだけで。だから清吾が本当に知りたいことは分からないままだ。
(唐織花魁が、信乃なんじゃないのか……? 人助けっていうのは……?)
清吾に、「信乃」を会わせてやる、ということなのか。だが、ならばどうして、唐織の痣を見せる必要がある? 一度信じさせておいて、どうして薄氷の平穏を叩き壊したのだろう。
「ご、ごめんなさ──お願、す、捨てないで。放り出さないで……!」
嗚咽だか咳だが分からない、ひゅうひゅうという息の音の混ざった声で、女は必死に清吾に訴えている。折れそうな指が彼に縋る、思いのほかの強さは、それだけ野垂れ死にが怖いのだろうと察せられた。この女は恐らく彼の問いへの答えを知らないということも。──そもそも、これ以上問い詰めることはできそうにない。
「……信乃」
結局のところ、彼はここしばらくの間、この女を信乃と呼んで過ごしてきた。偽者と知っても突き放せないていどの情は、すでに湧いている。ほかに呼ぶ名前も、思いつけない。
「清吾。許して。堪忍して。どうか。どうか──」
「……落ち着け。俺も悪かった。もう良い。良いから……!」
嘘を暴かれて狼狽したことで、女は我を忘れて興奮してしまったようだ。弱り切った身体には、声を上げて泣きわめくのは毒にしかならないだろう。安らぎを奪ってしまった後悔と共に、清吾は女の身体を抱き締め、意味のない慰めを囁き続けた。
0
お気に入りに追加
48
あなたにおすすめの小説
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
南町奉行所お耳役貞永正太郎の捕物帳
勇内一人
歴史・時代
第9回歴史・時代小説大賞奨励賞受賞作品に2024年6月1日より新章「材木商桧木屋お七の訴え」を追加しています(続きではなく途中からなので、わかりづらいかもしれません)
南町奉行所吟味方与力の貞永平一郎の一人息子、正太郎はお多福風邪にかかり両耳の聴覚を失ってしまう。父の跡目を継げない彼は吟味方書物役見習いとして南町奉行所に勤めている。ある時から聞こえない正太郎の耳が死者の声を拾うようになる。それは犯人や証言に不服がある場合、殺された本人が異議を唱える声だった。声を頼りに事件を再捜査すると、思わぬ真実が発覚していく。やがて、平一郎が喧嘩の巻き添えで殺され、正太郎の耳に亡き父の声が届く。
表紙はパブリックドメインQ 著作権フリー絵画:小原古邨 「月と蝙蝠」を使用しております。
2024年10月17日〜エブリスタにも公開を始めました。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

葉桜よ、もう一度 【完結】
五月雨輝
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞特別賞受賞作】北の小藩の青年藩士、黒須新九郎は、女中のりよに密かに心を惹かれながら、真面目に職務をこなす日々を送っていた。だが、ある日突然、新九郎は藩の産物を横領して抜け売りしたとの無実の嫌疑をかけられ、切腹寸前にまで追い込まれてしまう。新九郎は自らの嫌疑を晴らすべく奔走するが、それは藩を大きく揺るがす巨大な陰謀と哀しい恋の始まりであった。
謀略と裏切り、友情と恋情が交錯し、武士の道と人の想いの狭間で新九郎は疾走する。
田楽屋のぶの店先日記〜殿ちびちゃん参るの巻〜
皐月なおみ
歴史・時代
わけあり夫婦のところに、わけあり子どもがやってきた!?
冨岡八幡宮の門前町で田楽屋を営む「のぶ」と亭主「安居晃之進」は、奇妙な駆け落ちをして一緒になったわけあり夫婦である。
あれから三年、子ができないこと以外は順調だ。
でもある日、晃之進が見知らぬ幼子「朔太郎」を、連れて帰ってきたからさあ、大変!
『これおかみ、わしに気安くさわるでない』
なんだか殿っぽい喋り方のこの子は何者?
もしかして、晃之進の…?
心穏やかではいられないながらも、一生懸命面倒をみるのぶに朔太郎も心を開くようになる。
『うふふ。わし、かかさまの抱っこだいすきじゃ』
そのうちにのぶは彼の尋常じゃない能力に気がついて…?
近所から『殿ちびちゃん』と呼ばれるようになった朔太郎とともに、田楽屋の店先で次々に起こる事件を解決する。
亭主との関係
子どもたちを振り回す理不尽な出来事に対する怒り
友人への複雑な思い
たくさんの出来事を乗り越えた先に、のぶが辿り着いた答えは…?
※田楽屋を営む主人公が、わけありで預かることになった朔太郎と、次々と起こる事件を解決する物語です!
※歴史・時代小説コンテストエントリー作品です。もしよろしければ応援よろしくお願いします。

日本列島、時震により転移す!
黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる