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三章 想いの値段
4.薄氷の平穏
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唐織の采配によって、信乃はその日のうちに吉原の大門を出られることになった。五十両はどのようにして用立てたのか、万字屋の蟇蛙めいた面がだらしなく笑み崩れていたのは醜悪だった。信乃の同輩の女郎らが、名残を惜しんだり門出を祝ってくれたのが、辛うじて清吾の嫌悪を和らげてくれた。
「なんだ、清吾かい。いったい何の騒ぎだね」
信乃を乗せた駕籠の大仰さは、清吾の住まい、神田の裏長屋ではたいそう目立った。まだ日が高い時分であったこともあり、隣近所の老若男女が物見高く集まってきたし、大家は警戒と好奇心が相半ばする表情で問うてきた。
「あ、ああ……吉原で、昔馴染みを見つけて──」
幼くして生き別れた許嫁と再会できた。奇特な人が身請けの金を出してくれた。……口にするだけで舌が腐りそうな、都合の良すぎる話だった。直接相対する大家だけではない、長屋中の耳目を一身に集めてそれを語るのは、一種の拷問ではないかとさえ思えた。
しかも、唐織のためにと誂えた美談は、他人が聞けば清吾のものにもなるようだった。
「それは、良かったねえ。吉原にも仏がいるもんだ」
「あんたが独り身なのは惜しいと思ってたよ。そういうことだったのかい」
「決めた相手を探し出すなんて大したもんだ」
「所帯を持つんだろう? いや、まずは祝言か」
「晴着はあるのかい? 探してやろうか」
「ますます仕事に励まないとねえ」
「なあに、清吾なら女房のひとりやふたり──」
ぐるりと笑顔に取り囲まれて、口々に寿がれて称えられて。分不相応な持ち上げられように、清吾は目眩がする思いだった。誰もが心から喜んでいるとは分かるのに、すべて、遠回しな非難に感じてしまうのだ。それに──
(ああ、大事なことを言っていなかった……)
長屋の面々の反応は、どこか的外れで噛み合わない、と思ったのだ。その理由にようやく思い至って、清吾は駕籠の戸を開けた。吉原から神田まで、半刻ほどの道のりでもぐったりとしている信乃を、そっと抱え降ろす。陽の光のもとでも明らかな肌の青黒さと濃い病の気配に、真昼の明るさが翳ったようだった。
「この、有り様だから──迷惑をかけるかもしれない。いや、でも、長いことじゃないだろうから」
だから、よろしく頼む、と。清吾が頭を下げると、彼を囲む人垣が一歩退き、道を開けた。彼が抱えるのが、不吉な穢れでもあるかのように。
* * *
それでも、長屋の住人は優しかったし寛大だった。あるいは、信乃はそれだけ哀れまれたのか。使っていないからと布団を譲ってくれた者、精のつく鰻やら卵やらを差し入れる者。女衆は、清吾が仕事に出る間も何かと信乃の様子を見ると請け合ってくれたし、髪や身体の世話も申し出てくれた。
「信乃、帰ったぞ」
「おかえり、清吾」
穏やかで安らかな日々では、あるのだろうか。仕事から帰れば、迎えてくれる人がいる。たとえ寝たきりで起き上がることもままならなくても、声を交わすことができる。
「具合はどうだった」
「今日もあんまり……何もできなくて、ごめん」
「良いんだ。今は、養生するだけで」
信乃に回復の見込みがほぼないのは承知の上で、清吾は嘘を重ねている。その、後ろめたさ。毎朝のように覚える、帰ったら冷たくなっているのではないかいう不安と恐怖。そう、だから、この平穏もしょせんは薄氷の上に辛うじて存在するものでしかない。
汗を拭いてやったり、着替えを手伝ったり──その度に、信乃の窶れようを突き付けられる。せっかく用意した食事がろくに喉を通らないのを、毎日のように目にしなければならない。せっかく呼んだ医者も、首を振るだけで薬も出さずに帰っていった。
廓勤めで傷めつけられ、弱り切った信乃の身体は、病に蹂躙されてされるがままになっている。医者は、最期を心穏やかに過ごさせてやれ、とだけ言い残した。自分の身体のことだ、信乃も勘づいているのではないだろうか。清吾の嘘も、己の余命も。
唐織のように巧みに言葉と表情を繕えない不甲斐なさを、清吾は毎日のように噛み締めるのだが──
「あんたがいて。綺麗なとこで寝かせてもらえて。あたし、幸せ者だ──」
それでも信乃は、幸せだ、と言って微笑んでくれる。清吾によって辛うじて助け起こされ、用意した膳にはほんのひと口ふた口、箸をつけただけで。もう満腹、と言わんばかりの表情で彼にもたれかかるのだ。
その儚い笑みも擦れた声も、身体の軽さも萎れた皮膚も。何もかもが、清吾の胸を抉る。いっぽうで、同じく蕩けるような幸せが溢れるのも、感じる。
(俺がやったことは、無駄ではなかった)
信乃に、一時でも安らぎを与えることができたなら。幼いころのあの夜のように、見つけ出して救い出すことができたなら。唐織を傷つけ踏み躙るという、人として男としてあるまじき所業は許されるはずもないが──だが、それは彼の罪、信乃には関わりのないことだ。
だから、清吾はただ、これで良かった、と思う。そのように信じようと努める。信乃が、最後まで幸せでいられるように。痩せた身体を抱き寄せて、先の楽しみを語るのだ。
「良いことは、これからいくらでもあるさ。もうすぐ神田明神の祭りがあるだろう。神輿の行列がそりゃあ見事で──吉原にいちゃあ、見物なんてできなかっただろう?」
「うん……見れたら良い」
「身体がよくなりゃあ、故郷にだって戻れる。おっ父さんやおっ母さんを安心させてやるんだ。そう、しないと……」
懸命に紡いだ虚しい言葉に、答えはなかった。清吾の腕の中、信乃はもう目を閉じている。永の眠りではない証拠に、辛うじて胸が上下しているのを見て取って、清吾はそっと息を吐いた。膳を片付け、信乃を寝かせ、布団をかけてやりながら──彼の目蓋に浮かぶのは、信乃ではない女の顔だった。
(唐織、か)
最後に会った時の仮面のような笑みは、今も清吾の目に焼き付いている。評判高い花魁が、どうしてわざわざ金策を講じてまで彼に会おうとしたのか──その理由も、ほとんど常に考えている。信乃に寄り添い、信乃と語らいながら。唐織の心を踏み躙っておいて、信乃に対しても密かに不貞めいたことを考えている。自分自身で呆れるほど、彼は浅ましい男だった。
「……あれきりって訳には、いかないから」
ほら、信乃が眠りに就いた後、誰も聞く者がいない時ですら、言い訳を呟かずにはいられない。改めて礼をしなければ、という口実のもと、唐織を訪ねる算段を始めている。
「なんだ、清吾かい。いったい何の騒ぎだね」
信乃を乗せた駕籠の大仰さは、清吾の住まい、神田の裏長屋ではたいそう目立った。まだ日が高い時分であったこともあり、隣近所の老若男女が物見高く集まってきたし、大家は警戒と好奇心が相半ばする表情で問うてきた。
「あ、ああ……吉原で、昔馴染みを見つけて──」
幼くして生き別れた許嫁と再会できた。奇特な人が身請けの金を出してくれた。……口にするだけで舌が腐りそうな、都合の良すぎる話だった。直接相対する大家だけではない、長屋中の耳目を一身に集めてそれを語るのは、一種の拷問ではないかとさえ思えた。
しかも、唐織のためにと誂えた美談は、他人が聞けば清吾のものにもなるようだった。
「それは、良かったねえ。吉原にも仏がいるもんだ」
「あんたが独り身なのは惜しいと思ってたよ。そういうことだったのかい」
「決めた相手を探し出すなんて大したもんだ」
「所帯を持つんだろう? いや、まずは祝言か」
「晴着はあるのかい? 探してやろうか」
「ますます仕事に励まないとねえ」
「なあに、清吾なら女房のひとりやふたり──」
ぐるりと笑顔に取り囲まれて、口々に寿がれて称えられて。分不相応な持ち上げられように、清吾は目眩がする思いだった。誰もが心から喜んでいるとは分かるのに、すべて、遠回しな非難に感じてしまうのだ。それに──
(ああ、大事なことを言っていなかった……)
長屋の面々の反応は、どこか的外れで噛み合わない、と思ったのだ。その理由にようやく思い至って、清吾は駕籠の戸を開けた。吉原から神田まで、半刻ほどの道のりでもぐったりとしている信乃を、そっと抱え降ろす。陽の光のもとでも明らかな肌の青黒さと濃い病の気配に、真昼の明るさが翳ったようだった。
「この、有り様だから──迷惑をかけるかもしれない。いや、でも、長いことじゃないだろうから」
だから、よろしく頼む、と。清吾が頭を下げると、彼を囲む人垣が一歩退き、道を開けた。彼が抱えるのが、不吉な穢れでもあるかのように。
* * *
それでも、長屋の住人は優しかったし寛大だった。あるいは、信乃はそれだけ哀れまれたのか。使っていないからと布団を譲ってくれた者、精のつく鰻やら卵やらを差し入れる者。女衆は、清吾が仕事に出る間も何かと信乃の様子を見ると請け合ってくれたし、髪や身体の世話も申し出てくれた。
「信乃、帰ったぞ」
「おかえり、清吾」
穏やかで安らかな日々では、あるのだろうか。仕事から帰れば、迎えてくれる人がいる。たとえ寝たきりで起き上がることもままならなくても、声を交わすことができる。
「具合はどうだった」
「今日もあんまり……何もできなくて、ごめん」
「良いんだ。今は、養生するだけで」
信乃に回復の見込みがほぼないのは承知の上で、清吾は嘘を重ねている。その、後ろめたさ。毎朝のように覚える、帰ったら冷たくなっているのではないかいう不安と恐怖。そう、だから、この平穏もしょせんは薄氷の上に辛うじて存在するものでしかない。
汗を拭いてやったり、着替えを手伝ったり──その度に、信乃の窶れようを突き付けられる。せっかく用意した食事がろくに喉を通らないのを、毎日のように目にしなければならない。せっかく呼んだ医者も、首を振るだけで薬も出さずに帰っていった。
廓勤めで傷めつけられ、弱り切った信乃の身体は、病に蹂躙されてされるがままになっている。医者は、最期を心穏やかに過ごさせてやれ、とだけ言い残した。自分の身体のことだ、信乃も勘づいているのではないだろうか。清吾の嘘も、己の余命も。
唐織のように巧みに言葉と表情を繕えない不甲斐なさを、清吾は毎日のように噛み締めるのだが──
「あんたがいて。綺麗なとこで寝かせてもらえて。あたし、幸せ者だ──」
それでも信乃は、幸せだ、と言って微笑んでくれる。清吾によって辛うじて助け起こされ、用意した膳にはほんのひと口ふた口、箸をつけただけで。もう満腹、と言わんばかりの表情で彼にもたれかかるのだ。
その儚い笑みも擦れた声も、身体の軽さも萎れた皮膚も。何もかもが、清吾の胸を抉る。いっぽうで、同じく蕩けるような幸せが溢れるのも、感じる。
(俺がやったことは、無駄ではなかった)
信乃に、一時でも安らぎを与えることができたなら。幼いころのあの夜のように、見つけ出して救い出すことができたなら。唐織を傷つけ踏み躙るという、人として男としてあるまじき所業は許されるはずもないが──だが、それは彼の罪、信乃には関わりのないことだ。
だから、清吾はただ、これで良かった、と思う。そのように信じようと努める。信乃が、最後まで幸せでいられるように。痩せた身体を抱き寄せて、先の楽しみを語るのだ。
「良いことは、これからいくらでもあるさ。もうすぐ神田明神の祭りがあるだろう。神輿の行列がそりゃあ見事で──吉原にいちゃあ、見物なんてできなかっただろう?」
「うん……見れたら良い」
「身体がよくなりゃあ、故郷にだって戻れる。おっ父さんやおっ母さんを安心させてやるんだ。そう、しないと……」
懸命に紡いだ虚しい言葉に、答えはなかった。清吾の腕の中、信乃はもう目を閉じている。永の眠りではない証拠に、辛うじて胸が上下しているのを見て取って、清吾はそっと息を吐いた。膳を片付け、信乃を寝かせ、布団をかけてやりながら──彼の目蓋に浮かぶのは、信乃ではない女の顔だった。
(唐織、か)
最後に会った時の仮面のような笑みは、今も清吾の目に焼き付いている。評判高い花魁が、どうしてわざわざ金策を講じてまで彼に会おうとしたのか──その理由も、ほとんど常に考えている。信乃に寄り添い、信乃と語らいながら。唐織の心を踏み躙っておいて、信乃に対しても密かに不貞めいたことを考えている。自分自身で呆れるほど、彼は浅ましい男だった。
「……あれきりって訳には、いかないから」
ほら、信乃が眠りに就いた後、誰も聞く者がいない時ですら、言い訳を呟かずにはいられない。改めて礼をしなければ、という口実のもと、唐織を訪ねる算段を始めている。
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