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三章 想いの値段
3.恩知らず
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清吾が思わず顔を上げると、さらさが斬りつけるような鋭い眼差しで彼を睨んでいた。本来は愛らしい顔立ちだけに、眦吊り上げ唇をわななかせる憤怒の色が、いっそう際立って見える。
「主は廓の倣いに暗いゆえ、致し方ないと姉さんは仰えすが! したが、分からぬはずはござんせん。五十両の値がどれほどのものか、御職の花魁でも、軽々に出せるものかどうか!」
「それは──」
「主は何も分かっておりいせん!」
分かっている、と言いかけた鼻先を、強い語勢でぴしゃりと叩かれて清吾は絶句した。その隙に、さらさは姉花魁を庇うように膝を進め、彼をさらに詰る。
「主が女を探すために上がり込むごと、姉さんは仕掛や簪を質に入れてなさんした! わちきも、何度使いに出たことか──客を取らぬ分、身揚げの金を工面するためでありんすよ!? 好いた情人ならともかくとして、主ていどに何ゆえこうも肩入れするか、わちきには皆目分かりいせんが! 唐織花魁にここまでさせておいて、どうして……っ」
少女の繊手が、畳を勢いよく叩いた。清吾自身が叩かれた訳でもないのに、情けなくもびくりと震えてしまう。鞭打たれたと思うほどに、浴びせられた言葉が彼に与えた衝撃は大きかった。
(花魁が、衣装を質入れした……?)
あの光輝く花魁道中を見て。錦屋の、大名屋敷顔負けの豪奢な造りを見て。金に困っているなどとはどうして思うだろう。だが、確かに花魁と一夜を共にするには莫大な金が求められるとは聞く。その値を贖うとなれば、五十両では済まないだろう。
思えば道理であったのに。今の今まで、清吾は気付かなかった。いや、鈍いだけより、なお悪い可能性が、ある。
(俺は、気付かない振りをしていたのか?)
思い至ってしまうと、真冬の吹雪にさらされたかのように、清吾の肌は粟立った。信乃を探すためには、唐織の申し出はたいそう都合が良かったから。彼女の仔細を深く考えてしまうと、甘え続ける訳にはいかなかっただろうから。我が身大事がゆえに、唐織の犠牲に目を瞑っていたのだとしたら、彼は──
「さらさ、口が過ぎいすな」
「でも、姉さん……!」
自身を罵る言葉を思いつく前に、妹分を窘める唐織の声が静かに響いた。嫋やかな容姿に相応しい、どこまでも柔らかくしっとりとした声音に、穏やかな口調。けれどどこか冷え切った風もあって、清吾の心をいっそう凍えさせる。
「誰もそこまで明かせとは頼んでおりいせん。お黙りなんし」
氷の刃のような眼差しと声で、さらさを黙らせておいて。唐織は、清吾に向けて軽く目を伏せた。
「さらさが聞き苦しいことで、申し訳もござんせんでしたなあ」
「花魁、あんたは──俺は、その」
どう考えても、詫びるべきは彼のほうだ。強請りごとについてよりもまず、これまでの彼女の犠牲について。それを顧みることさえしなかったことについて。だが、羞恥と動揺によって彼の舌は縺れ、まともな言葉が出てこない。彼の無様を余所に、唐織の言葉はどこまでも滑らかで、口を挟む隙を見せなかった。
「主の幼馴染が生きて見つかって、まっことようござんした、わちきからも祝儀を出さねばなりいせん。五十両くらいぽんと出せぬでは、唐織の名が廃るというもの」
「だが、今……」
「何も言いなさんすな。わちきがそうしたいのでありんすもの」
天女のような微笑みで、唐織は清吾の追及を封じた。面のような笑みでもあった。和泉屋への不満、姉花魁への憧れ、嘘を重ねることへの寂しさ──これまでに垣間見たと思った彼女の素顔が、すべてその面の裏に隠されていく。
「女郎のまことはみそかの月、などと世間では申しいすが──信乃は、主のまことを手に入れた様子。なんと珍しくめでたく羨ましいこと」
「みそかの、月……」
唐織は、顔ではにこやかに笑み、言葉では朗らかに寿いでではいたが、清吾としては真綿でじわじわと首を絞められる心地だった。
(俺に、まことなんて)
唐織を案じながらも信乃を救おうとし、しかもそのために唐織に金を無心する──そんな男がまことを云々するなどお笑い種だ。手練手管を駆使する女郎よりも、よほど不実な恩知らず。忘八とは彼のためにあるかのような蔑称ではないだろうか。
信乃のため、と。清吾が口にする綺麗ごとこそ、あり得ぬみそかの月なのだと、唐織はそう突き付けているのだ。そうとしか聞こえなかった。
「ささ、疾く万字屋へ遣いをやりんしょう。主が背負って大川を越える訳にもいきいせん。駕籠も呼ばねば──」
言葉でさんざん清吾を嬲っておいて、唐織はすっと腰を上げた。若い衆を呼びに行く──彼に背を向ける構えだと察して、清吾は腹に力を込めた。
「花魁」
ひと言発すると、ようやく身体が言うことを聞いてくれた。額を叩きつける勢いで畳に擦りつけ、這いつくばるように平伏して、必死に訴える。
「いくら感謝してもし切れない。この恩は忘れない。金は、必ず返す。ほかに、俺にできることがあれば……!」
「主は、信乃についていてやらねばなりいせん。違うかえ?」
すでに立ち上がった唐織の声が、高みから降る。柔らかに微笑みながら、目は決して笑っていないのだろうと、見ずとも分かる声の冷たさだった。違う──声も、十分に優しく思い遣りに満ちている、とは聞こえる。そうと受け取ることができないのは、清吾の気の持ちようの問題だ。
信乃を選んでおいて。信乃のあの有り様で。唐織に何かしてやることなどできはしまい。口先だけの言葉だと、彼自身が誰よりよく分かっているのだ。
「情人云々のことなら、もう気になさんすな。此度のこと──確かに、世間の好む美談にはなりんしょう。客寄せに使えるなら、それで十分というもの」
唐織の声に投げやりさと捨て鉢さを感じたとしても、言えることなど何もないのだ。
「主は廓の倣いに暗いゆえ、致し方ないと姉さんは仰えすが! したが、分からぬはずはござんせん。五十両の値がどれほどのものか、御職の花魁でも、軽々に出せるものかどうか!」
「それは──」
「主は何も分かっておりいせん!」
分かっている、と言いかけた鼻先を、強い語勢でぴしゃりと叩かれて清吾は絶句した。その隙に、さらさは姉花魁を庇うように膝を進め、彼をさらに詰る。
「主が女を探すために上がり込むごと、姉さんは仕掛や簪を質に入れてなさんした! わちきも、何度使いに出たことか──客を取らぬ分、身揚げの金を工面するためでありんすよ!? 好いた情人ならともかくとして、主ていどに何ゆえこうも肩入れするか、わちきには皆目分かりいせんが! 唐織花魁にここまでさせておいて、どうして……っ」
少女の繊手が、畳を勢いよく叩いた。清吾自身が叩かれた訳でもないのに、情けなくもびくりと震えてしまう。鞭打たれたと思うほどに、浴びせられた言葉が彼に与えた衝撃は大きかった。
(花魁が、衣装を質入れした……?)
あの光輝く花魁道中を見て。錦屋の、大名屋敷顔負けの豪奢な造りを見て。金に困っているなどとはどうして思うだろう。だが、確かに花魁と一夜を共にするには莫大な金が求められるとは聞く。その値を贖うとなれば、五十両では済まないだろう。
思えば道理であったのに。今の今まで、清吾は気付かなかった。いや、鈍いだけより、なお悪い可能性が、ある。
(俺は、気付かない振りをしていたのか?)
思い至ってしまうと、真冬の吹雪にさらされたかのように、清吾の肌は粟立った。信乃を探すためには、唐織の申し出はたいそう都合が良かったから。彼女の仔細を深く考えてしまうと、甘え続ける訳にはいかなかっただろうから。我が身大事がゆえに、唐織の犠牲に目を瞑っていたのだとしたら、彼は──
「さらさ、口が過ぎいすな」
「でも、姉さん……!」
自身を罵る言葉を思いつく前に、妹分を窘める唐織の声が静かに響いた。嫋やかな容姿に相応しい、どこまでも柔らかくしっとりとした声音に、穏やかな口調。けれどどこか冷え切った風もあって、清吾の心をいっそう凍えさせる。
「誰もそこまで明かせとは頼んでおりいせん。お黙りなんし」
氷の刃のような眼差しと声で、さらさを黙らせておいて。唐織は、清吾に向けて軽く目を伏せた。
「さらさが聞き苦しいことで、申し訳もござんせんでしたなあ」
「花魁、あんたは──俺は、その」
どう考えても、詫びるべきは彼のほうだ。強請りごとについてよりもまず、これまでの彼女の犠牲について。それを顧みることさえしなかったことについて。だが、羞恥と動揺によって彼の舌は縺れ、まともな言葉が出てこない。彼の無様を余所に、唐織の言葉はどこまでも滑らかで、口を挟む隙を見せなかった。
「主の幼馴染が生きて見つかって、まっことようござんした、わちきからも祝儀を出さねばなりいせん。五十両くらいぽんと出せぬでは、唐織の名が廃るというもの」
「だが、今……」
「何も言いなさんすな。わちきがそうしたいのでありんすもの」
天女のような微笑みで、唐織は清吾の追及を封じた。面のような笑みでもあった。和泉屋への不満、姉花魁への憧れ、嘘を重ねることへの寂しさ──これまでに垣間見たと思った彼女の素顔が、すべてその面の裏に隠されていく。
「女郎のまことはみそかの月、などと世間では申しいすが──信乃は、主のまことを手に入れた様子。なんと珍しくめでたく羨ましいこと」
「みそかの、月……」
唐織は、顔ではにこやかに笑み、言葉では朗らかに寿いでではいたが、清吾としては真綿でじわじわと首を絞められる心地だった。
(俺に、まことなんて)
唐織を案じながらも信乃を救おうとし、しかもそのために唐織に金を無心する──そんな男がまことを云々するなどお笑い種だ。手練手管を駆使する女郎よりも、よほど不実な恩知らず。忘八とは彼のためにあるかのような蔑称ではないだろうか。
信乃のため、と。清吾が口にする綺麗ごとこそ、あり得ぬみそかの月なのだと、唐織はそう突き付けているのだ。そうとしか聞こえなかった。
「ささ、疾く万字屋へ遣いをやりんしょう。主が背負って大川を越える訳にもいきいせん。駕籠も呼ばねば──」
言葉でさんざん清吾を嬲っておいて、唐織はすっと腰を上げた。若い衆を呼びに行く──彼に背を向ける構えだと察して、清吾は腹に力を込めた。
「花魁」
ひと言発すると、ようやく身体が言うことを聞いてくれた。額を叩きつける勢いで畳に擦りつけ、這いつくばるように平伏して、必死に訴える。
「いくら感謝してもし切れない。この恩は忘れない。金は、必ず返す。ほかに、俺にできることがあれば……!」
「主は、信乃についていてやらねばなりいせん。違うかえ?」
すでに立ち上がった唐織の声が、高みから降る。柔らかに微笑みながら、目は決して笑っていないのだろうと、見ずとも分かる声の冷たさだった。違う──声も、十分に優しく思い遣りに満ちている、とは聞こえる。そうと受け取ることができないのは、清吾の気の持ちようの問題だ。
信乃を選んでおいて。信乃のあの有り様で。唐織に何かしてやることなどできはしまい。口先だけの言葉だと、彼自身が誰よりよく分かっているのだ。
「情人云々のことなら、もう気になさんすな。此度のこと──確かに、世間の好む美談にはなりんしょう。客寄せに使えるなら、それで十分というもの」
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