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一章 雨の夜の出会い
5.取引
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口では頼む、と言いながら、唐織花魁は断られることなど考えてもいないようだった。
(いや、俺が何でも、と言ったからなんだが)
雨に打たれ野垂れ死んでもおかしくないところを救われた、その恩を返さなくては人の道に悖る。だから、蜘蛛の巣に絡め取られたような気分になるのは勝手が過ぎるというものだ。だから清吾は無様かつ慌ただしく頷き、唐織も当然のように笑みを深めた。
「何も難しいことではござんせん。主にも、きっと良い話になりんしょう」
満開の桜も霞む、蕩けるような笑みも、聞くだけで酔った心地になる艶のある声も、本来ならば客しか味わうことができないものだ。それも、千金を摘むだけではなくて、粋や気風で花魁の眼鏡にかなわなくてはならないのだとか。なのに、行きずりの野良犬のような彼を相手に、どうしてこうも大判振る舞いしてくれるのだろう。
「わちきの、情人を演じておくんなんし」
ただでさえおかしな夢を見ている心地なのに──唐織は、さらに信じがたいことを口にして、清吾の呼吸を乱れさせた。
「情人──を、演じる……?」
「あい。あくまでも演じるだけ、信乃への不貞にはなりいせん」
探している幼馴染への気兼ねなど、正直言って思いつくどころではなかった。
「それはまた……どうして」
問い直す声も、情けなく震えてしまう。清吾の腰が引けているのに気付いてか、花魁はす、と膝を進めて布団のほうへいざってきた。白粉の香が鼻先に漂って、女の身体がすぐ近くにあるのを嫌でも意識させられる。
「廓勤めは辛いものと言うでありんしょう? 御職の花魁だとて同じこと、わちきも、時には我が身を贖って骨休みしたい日がございんす」
女郎が見世にひと晩分の金を払って客を取らずに済ませる──身揚げ、というやり方があるのは知っていた。信乃の行方を捜すにあたって、清吾も廓の倣いはいくらか調べている。身揚げをすれば稼ぎは減って借金は増え、年季明けが遠のく訳で。並みの女郎は気軽に休むこともできぬとは聞くが──
「あんたなら、金には困っていないだろう。勝手も我が儘も、花魁の愛嬌のうちで」
花魁の気を惹くために身代傾ける客には不自由しないはず。それこそ清吾を拾った時の気まぐれのように、常とは違う振る舞いでさえ、さすが唐織ともてはやされるだろう。休むと言い出したとして、天の岩戸にこもった天照大神を誘い出す故事さながらに、貢物が山と積まれるのではないだろうか。
「それに、情人だって? どこにどう関係がある」
腑に落ちなくて問いかけると、唐織は嫣然と微笑んだ。花びらのような唇が、歌うように綻ぶように言葉を紡ぐ。あるいは、物分かりの悪い無粋者に言い聞かせるように。
「唐織花魁は、情人との逢瀬のために身揚げをするのでありんすよ。客が聞いたら、どう思うことでありんしょうなあ? 己らが大枚叩いてようやく座敷に上がるいっぽうで、わちきが誰とも知れぬ馬の骨に入れ上げているとしたら……?」
「客を嫉妬で煽ろうってことか。そうすりゃ、いっそうムキになってあんたのところに通うって寸法だ」
それは、身揚げの代金もすぐに元が取れることだろう。名うての花魁ともなると、休みを取るのにも計算を働かせるらしい。清吾がいっそ感心の声を上げると、唐織は笑顔で小首を傾げて彼の推測を肯定してみせた。
「かといって迂闊な男を選ぶわけにはいきいせん。つけあがって自儘に振る舞われては、わちきの名折れになりんすもの。大事な客を怒らせては、元も子もない……! したが、そこへいくと、主なら──」
含みのある流し目を寄せられて、清吾は続く言葉を察した。
「俺なら、あんたとは何にもならない。騒動を起こす心配もない。あんたは思う存分休める上に、客を手玉に取れる」
「そして主は、信乃を探せば良い。わちきや錦屋の名を出せば、口が軽くなる者もおりんしょう」
清吾は、唐織にとってだいぶ都合の良い存在らしい。そして確かに、彼にとっても願ってもない話だった。
(人探しの世話にもなる以上は、俺は勝手な真似をしないと読んだか。頭の回る女だ)
慈悲深い、という評判を裏切って、なかなか計算高い女でもあるようだが──構わない。渡りに船、というやつだ。
「そういう、ことなら」
「では、よろしゅう頼みいすよ?」
唐織の傾国の微笑をどうにか受け止めて、清吾もぎこちなく頬を笑ませた。これは、取引成立、の符丁だ。証文も何もない、口約束ではあるが、互いに益がある以上は反故にされることはないだろう。
(俺が、花魁の情人か。まさかこんなことになるとは──)
演技と言われても、どのように振る舞えば良いものか。いまだ気後れが拭えないまま、唐織の麗貌を盗み見るようにしていると──ふと、白魚の指が伸びて、清吾の鬢の辺りを撫でていく。
「な──っ」
「桜の、花びらが」
思わず後ずさると、唐織は何の気もなさそうに指先をはらう仕草をしている。昨晩、雨に散った桜が髪に貼り付いていたのかどうか──無論、清吾に知るすべはない。
「禿の世話が行き届かぬで、申し訳ござんせんなあ」
唐織の言葉に、相槌を打つ余裕も、ない。ただ、指先が掠めたところが、火箸を押し付けられたように熱かった。
(いや、俺が何でも、と言ったからなんだが)
雨に打たれ野垂れ死んでもおかしくないところを救われた、その恩を返さなくては人の道に悖る。だから、蜘蛛の巣に絡め取られたような気分になるのは勝手が過ぎるというものだ。だから清吾は無様かつ慌ただしく頷き、唐織も当然のように笑みを深めた。
「何も難しいことではござんせん。主にも、きっと良い話になりんしょう」
満開の桜も霞む、蕩けるような笑みも、聞くだけで酔った心地になる艶のある声も、本来ならば客しか味わうことができないものだ。それも、千金を摘むだけではなくて、粋や気風で花魁の眼鏡にかなわなくてはならないのだとか。なのに、行きずりの野良犬のような彼を相手に、どうしてこうも大判振る舞いしてくれるのだろう。
「わちきの、情人を演じておくんなんし」
ただでさえおかしな夢を見ている心地なのに──唐織は、さらに信じがたいことを口にして、清吾の呼吸を乱れさせた。
「情人──を、演じる……?」
「あい。あくまでも演じるだけ、信乃への不貞にはなりいせん」
探している幼馴染への気兼ねなど、正直言って思いつくどころではなかった。
「それはまた……どうして」
問い直す声も、情けなく震えてしまう。清吾の腰が引けているのに気付いてか、花魁はす、と膝を進めて布団のほうへいざってきた。白粉の香が鼻先に漂って、女の身体がすぐ近くにあるのを嫌でも意識させられる。
「廓勤めは辛いものと言うでありんしょう? 御職の花魁だとて同じこと、わちきも、時には我が身を贖って骨休みしたい日がございんす」
女郎が見世にひと晩分の金を払って客を取らずに済ませる──身揚げ、というやり方があるのは知っていた。信乃の行方を捜すにあたって、清吾も廓の倣いはいくらか調べている。身揚げをすれば稼ぎは減って借金は増え、年季明けが遠のく訳で。並みの女郎は気軽に休むこともできぬとは聞くが──
「あんたなら、金には困っていないだろう。勝手も我が儘も、花魁の愛嬌のうちで」
花魁の気を惹くために身代傾ける客には不自由しないはず。それこそ清吾を拾った時の気まぐれのように、常とは違う振る舞いでさえ、さすが唐織ともてはやされるだろう。休むと言い出したとして、天の岩戸にこもった天照大神を誘い出す故事さながらに、貢物が山と積まれるのではないだろうか。
「それに、情人だって? どこにどう関係がある」
腑に落ちなくて問いかけると、唐織は嫣然と微笑んだ。花びらのような唇が、歌うように綻ぶように言葉を紡ぐ。あるいは、物分かりの悪い無粋者に言い聞かせるように。
「唐織花魁は、情人との逢瀬のために身揚げをするのでありんすよ。客が聞いたら、どう思うことでありんしょうなあ? 己らが大枚叩いてようやく座敷に上がるいっぽうで、わちきが誰とも知れぬ馬の骨に入れ上げているとしたら……?」
「客を嫉妬で煽ろうってことか。そうすりゃ、いっそうムキになってあんたのところに通うって寸法だ」
それは、身揚げの代金もすぐに元が取れることだろう。名うての花魁ともなると、休みを取るのにも計算を働かせるらしい。清吾がいっそ感心の声を上げると、唐織は笑顔で小首を傾げて彼の推測を肯定してみせた。
「かといって迂闊な男を選ぶわけにはいきいせん。つけあがって自儘に振る舞われては、わちきの名折れになりんすもの。大事な客を怒らせては、元も子もない……! したが、そこへいくと、主なら──」
含みのある流し目を寄せられて、清吾は続く言葉を察した。
「俺なら、あんたとは何にもならない。騒動を起こす心配もない。あんたは思う存分休める上に、客を手玉に取れる」
「そして主は、信乃を探せば良い。わちきや錦屋の名を出せば、口が軽くなる者もおりんしょう」
清吾は、唐織にとってだいぶ都合の良い存在らしい。そして確かに、彼にとっても願ってもない話だった。
(人探しの世話にもなる以上は、俺は勝手な真似をしないと読んだか。頭の回る女だ)
慈悲深い、という評判を裏切って、なかなか計算高い女でもあるようだが──構わない。渡りに船、というやつだ。
「そういう、ことなら」
「では、よろしゅう頼みいすよ?」
唐織の傾国の微笑をどうにか受け止めて、清吾もぎこちなく頬を笑ませた。これは、取引成立、の符丁だ。証文も何もない、口約束ではあるが、互いに益がある以上は反故にされることはないだろう。
(俺が、花魁の情人か。まさかこんなことになるとは──)
演技と言われても、どのように振る舞えば良いものか。いまだ気後れが拭えないまま、唐織の麗貌を盗み見るようにしていると──ふと、白魚の指が伸びて、清吾の鬢の辺りを撫でていく。
「な──っ」
「桜の、花びらが」
思わず後ずさると、唐織は何の気もなさそうに指先をはらう仕草をしている。昨晩、雨に散った桜が髪に貼り付いていたのかどうか──無論、清吾に知るすべはない。
「禿の世話が行き届かぬで、申し訳ござんせんなあ」
唐織の言葉に、相槌を打つ余裕も、ない。ただ、指先が掠めたところが、火箸を押し付けられたように熱かった。
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