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一章 雨の夜の出会い
2.唐織花魁
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信乃は、清吾よりふたつ年下の幼馴染だった。時が来れば所帯を持つものと、ふたりともが疑問なく信じていた。だからだろう、信乃は幼いうちから清吾の女房気取りの面があった。
『清吾、やっぱりここさいたぁ』
叱られただとか、喧嘩で負けただとか。面白くないことが起きて、拗ねて寝転ぶ清吾を探し出すのも、信乃は得意だった。隠れたつもりの彼をひょいと覗き込む、いたずらっぽい眼差し。気安く甘える声音。いずれも忘れようがない。
だから、意識を失う間際に浮かび上がったりもするのだろう。
* * *
目覚めがやけに温かく心地良いのを、清吾は不思議に思った。彼は、叩きのめされて泥に沈み、冷たい雨に打たれていたはずだ。
(極楽……? いや、まさか)
一瞬、あのまま息絶えたのか、と。埒もない考えが過ぎるのを、すぐに否定する。彼は極楽浄土には行けないだろう。だが、この温もりは地獄とも思えず、かといってこの世ならばなおあり得ない。この柔らかさに、肌で感じる清潔さ。これはいったい何ごとか、と思いながら目を開けると──
「あ、起きなんしたかえ?」
高く、少々舌足らずな声が、寝起きの清吾の耳に刺さった。その声の源の、意外な近さに驚きつつ目を向ければ、十になるかどうかの童女が、彼の額を拭おうとしてか、絞った布を片手に身を乗り出しているところだった。
「……ここは? 俺は、どうして──」
童女と頭をぶつける勢いで跳ね起きて、問おうとして──清吾は声を詰まらせた。このような子供に尋ねたところで答えは持たないだろうと直感したのだ。
だが、童女は物怖じすることなくすらすらと言葉を紡いだ。
「江戸町一丁目は、錦屋でござんす」
「錦屋……?」
言いながら、童女はひとまず布を置いていた。茶でも点てるような流れる所作で──無論、清吾が作法を知るはずもない、ただの喩えだ──枕元に置かれた水差しから茶碗に水を注いだ。
「花魁を呼んで参りいす。しばし、お待ちくださんし」
「……花魁?」
受け取った茶碗になみなみと注がれていたのは、ほど良い温さの湯冷ましだった。胃の腑に落ちると身体に染みわたる一方で、空腹であることを思い出させる。が、そのようなことはどうでも良い。言われた単語の意味が分からなくて、清吾は思わず聞き直した。すると、童女は呆れたような眼差しを彼に寄こした。
「錦屋の、唐織花魁でござんすよ」
どうして分からぬのか、と溜息さえ零しそうな表情で、童女はさっと立ち上がると部屋の外に消えていった。襖を閉める間際に、垂らした髪の瑞々しさと艶やかさがやけに目についた。
廓言葉を操る童女といえば、禿というやつか、と気付いたのは軽い足音が遠ざかって聞こえなくなってからのこと。将来の花魁となるべく、小さいころから仕込まれるとかいう。
ならば、ここは遊郭だ。
(江戸町一丁目といえば……大見世ばかりが軒を連ねる……?)
改めて見渡せば、塵ひとつなく清められた室内の様子からして見世の格式は知れる。清吾が寝かされているのも、彼の長屋のせんべい布団とは比べ物にならない。禿が残していった水差しと茶碗さえ、品のある色味の青磁のようだ。
居心地の悪さに布団の上で正座すると、その拍子に身体のあちこちが痛んだ。昨日のことは夢ではないようなのに、今のこの状況が現のこととは思えない。何より信じがたいのが──
「唐織、花魁」
禿の童女が言い残し、清吾が自ら口にした、その名だった。
錦屋の唐織花魁といえば、吉原でも当代一の誉れ高い名妓だ。大見世で御職を張るからには美貌に恵まれ才知に長けているのはもちろんのこと、観音様さながらの慈悲深さも、江戸市中では誰ひとり知らぬ者のいない評判だった。
例えば、こんな逸話がある。
ある夜、唐織花魁の道中を遮る者がいた。本来ならば見世の者に袋叩きにあってもおかしくない無作法である。が、その男の顔を見るなり、花魁は涙を流してその手を取った。実はその男は花魁の同郷の出身で、しかも、振袖新造時代の彼女が、姉花魁の名代として一夜を過ごしたことがある相手だったというのだ。
『あの夜、郷里の訛りを聞けて、どれだけ心強かったことか。わちきの今があるのも主さんのお陰──揚げ代なんぞいりいせん、どうぞどうぞ、礼をさせておくんなんし』
そうして、その田舎者は花魁の手厚い接待を受けた。しかも、帰り際には花魁は相当の金子を包んで持たせたのだという。自身のように売られる娘が出ぬように、村を盛り立てて欲しい、と言って。
(常陸だか、どこだったか──その村では、花魁の廟が立っただろうな)
それほどに慈悲深い女ならば、打ち捨てられたごろつきを助けるくらいの気まぐれは見せてもおかしくない、だろうか。そう思うと、少しだけ疑問が晴れたような、かえって畏れ多いような。だって──
(俺は、昨夜何て嘴った……?)
清吾と信乃の郷里は、常陸ではない。ならば、幼馴染の面影を重ねたのは、朦朧とした意識が見せた幻に過ぎないのだろう。田舎娘と名高い花魁を見間違えるとは、無礼もはなはだしいことであった。
清吾の額から冷や汗が伝った、ちょうどその時──襖が再び開いた。次いで、軽やかな笑い声が朝の静寂をほんのわずか乱した。
「ああ、思いのほかにすっきりとした顔色で──まっこと、良うござんした」
十分に明るいはずの室内に、一段と眩い光が満ちた、と思った。端座した清吾の前に現れたのは、月のように輝くばかりの美貌の女だった。
『清吾、やっぱりここさいたぁ』
叱られただとか、喧嘩で負けただとか。面白くないことが起きて、拗ねて寝転ぶ清吾を探し出すのも、信乃は得意だった。隠れたつもりの彼をひょいと覗き込む、いたずらっぽい眼差し。気安く甘える声音。いずれも忘れようがない。
だから、意識を失う間際に浮かび上がったりもするのだろう。
* * *
目覚めがやけに温かく心地良いのを、清吾は不思議に思った。彼は、叩きのめされて泥に沈み、冷たい雨に打たれていたはずだ。
(極楽……? いや、まさか)
一瞬、あのまま息絶えたのか、と。埒もない考えが過ぎるのを、すぐに否定する。彼は極楽浄土には行けないだろう。だが、この温もりは地獄とも思えず、かといってこの世ならばなおあり得ない。この柔らかさに、肌で感じる清潔さ。これはいったい何ごとか、と思いながら目を開けると──
「あ、起きなんしたかえ?」
高く、少々舌足らずな声が、寝起きの清吾の耳に刺さった。その声の源の、意外な近さに驚きつつ目を向ければ、十になるかどうかの童女が、彼の額を拭おうとしてか、絞った布を片手に身を乗り出しているところだった。
「……ここは? 俺は、どうして──」
童女と頭をぶつける勢いで跳ね起きて、問おうとして──清吾は声を詰まらせた。このような子供に尋ねたところで答えは持たないだろうと直感したのだ。
だが、童女は物怖じすることなくすらすらと言葉を紡いだ。
「江戸町一丁目は、錦屋でござんす」
「錦屋……?」
言いながら、童女はひとまず布を置いていた。茶でも点てるような流れる所作で──無論、清吾が作法を知るはずもない、ただの喩えだ──枕元に置かれた水差しから茶碗に水を注いだ。
「花魁を呼んで参りいす。しばし、お待ちくださんし」
「……花魁?」
受け取った茶碗になみなみと注がれていたのは、ほど良い温さの湯冷ましだった。胃の腑に落ちると身体に染みわたる一方で、空腹であることを思い出させる。が、そのようなことはどうでも良い。言われた単語の意味が分からなくて、清吾は思わず聞き直した。すると、童女は呆れたような眼差しを彼に寄こした。
「錦屋の、唐織花魁でござんすよ」
どうして分からぬのか、と溜息さえ零しそうな表情で、童女はさっと立ち上がると部屋の外に消えていった。襖を閉める間際に、垂らした髪の瑞々しさと艶やかさがやけに目についた。
廓言葉を操る童女といえば、禿というやつか、と気付いたのは軽い足音が遠ざかって聞こえなくなってからのこと。将来の花魁となるべく、小さいころから仕込まれるとかいう。
ならば、ここは遊郭だ。
(江戸町一丁目といえば……大見世ばかりが軒を連ねる……?)
改めて見渡せば、塵ひとつなく清められた室内の様子からして見世の格式は知れる。清吾が寝かされているのも、彼の長屋のせんべい布団とは比べ物にならない。禿が残していった水差しと茶碗さえ、品のある色味の青磁のようだ。
居心地の悪さに布団の上で正座すると、その拍子に身体のあちこちが痛んだ。昨日のことは夢ではないようなのに、今のこの状況が現のこととは思えない。何より信じがたいのが──
「唐織、花魁」
禿の童女が言い残し、清吾が自ら口にした、その名だった。
錦屋の唐織花魁といえば、吉原でも当代一の誉れ高い名妓だ。大見世で御職を張るからには美貌に恵まれ才知に長けているのはもちろんのこと、観音様さながらの慈悲深さも、江戸市中では誰ひとり知らぬ者のいない評判だった。
例えば、こんな逸話がある。
ある夜、唐織花魁の道中を遮る者がいた。本来ならば見世の者に袋叩きにあってもおかしくない無作法である。が、その男の顔を見るなり、花魁は涙を流してその手を取った。実はその男は花魁の同郷の出身で、しかも、振袖新造時代の彼女が、姉花魁の名代として一夜を過ごしたことがある相手だったというのだ。
『あの夜、郷里の訛りを聞けて、どれだけ心強かったことか。わちきの今があるのも主さんのお陰──揚げ代なんぞいりいせん、どうぞどうぞ、礼をさせておくんなんし』
そうして、その田舎者は花魁の手厚い接待を受けた。しかも、帰り際には花魁は相当の金子を包んで持たせたのだという。自身のように売られる娘が出ぬように、村を盛り立てて欲しい、と言って。
(常陸だか、どこだったか──その村では、花魁の廟が立っただろうな)
それほどに慈悲深い女ならば、打ち捨てられたごろつきを助けるくらいの気まぐれは見せてもおかしくない、だろうか。そう思うと、少しだけ疑問が晴れたような、かえって畏れ多いような。だって──
(俺は、昨夜何て嘴った……?)
清吾と信乃の郷里は、常陸ではない。ならば、幼馴染の面影を重ねたのは、朦朧とした意識が見せた幻に過ぎないのだろう。田舎娘と名高い花魁を見間違えるとは、無礼もはなはだしいことであった。
清吾の額から冷や汗が伝った、ちょうどその時──襖が再び開いた。次いで、軽やかな笑い声が朝の静寂をほんのわずか乱した。
「ああ、思いのほかにすっきりとした顔色で──まっこと、良うござんした」
十分に明るいはずの室内に、一段と眩い光が満ちた、と思った。端座した清吾の前に現れたのは、月のように輝くばかりの美貌の女だった。
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