ich rede nichts 赤い皇女は語らない

悠井すみれ

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ich rede nichts(私は語らない)

ich rede nichts

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 分かっているわ、私がどれほどあがいても、私はきっと良い物語の素材になってしまうのでしょう。父や祖父や祖母がそうだったように。さらに遡ればマリア・テレジアやマリー・アントワネット、ほかにも一族を彩る錚々たる名の人たちのように。祖母のように顔を隠し続けて逃げ続けても無駄なのよ。カメラを向けられて、咄嗟に扇を広げた祖母の写真は、それ自体があの方の性格──美への執着や老いへの恐怖、人目を避ける偏屈さ──を表す物語にされてしまっているでしょう。でも、扇は役に立たなくても、嘘なら真実を覆い隠すことはできるかもしれない。そうね、私が何より腹が立つのは、何も知らない人たちに知ったような口で論評されることなのでしょうね。好き勝手に話題にされるのが避けられないことなら、せめて作り事だということを弁えて欲しい、というところかしら。恋に溺れた直情的な女でも、君主制への反逆者でも、社会主義の信奉者でも何でも好きな私の像を作り上げれば良いのよ。ただ、それが真実の「私」だなんて言って欲しくない。私は誰にも真実なんて見せなかったし語らなかった──貴方には、その証人になって欲しかったのよ。

 どうせならより良い姿で語られるようにすれば良い、ですって? そう思うなら貴方はそうすれば良い。それはそれで悪いことではないし、貴方の物語なんだから。でも、私の気は変わらない。若いころから頑固で、こうと決めたことはやり通すすのだと、さんざん話して聞かせたでしょう? 年を取ったらなおのことよ、説得できるなんて思わないで。

 遺言を作るのにね、ずいぶん時間をかけて考え抜いて決めたのよ。今さら書き直すなんて面倒臭いわ。莫大なお金や貴重過ぎる品々の行く末について心配されるのは大きなお世話よ。そもそも心配する必要だってない。子供たちや友人に相応の財産を残すほかは、すべて国に寄付することにしたから。一応はハプスブルク家に生まれた以上はハプスブルク法に倣う──だなんて考えた訳でもないけれど。でも、そうね、帝国だの王侯貴族だのいう存在は、やっぱりもう要らないと思っているのかもしれないわね。シェーンブルンもホーフブルクも、毎日何万人もの観光客を受け入れているのでしょう。私の思い出の場所は、もう公共の場になってしまったの。そういう時代になってしまったの。私が生きている間はまだ借りさせてもらっているようなもので、本来はきっと、我が儘なことなのよ。
 そしてもちろん、今言ったのも本当ではないのかもしれないわね。私は単に、貴方を悔しがらせたいだけかもしれない。あるいは、最後の皇女の由来の品、だなんて語られるのが嫌なだけかもしれない。絵画や宝石、家具や食器、衣装や小物──親しい人に遺したりしたら、私がどう使っていたか、どんな思い出があったかを語られてしまうでしょう。そうして、その人から見た私の姿がまた出来上がってしまうでしょう。それもまた、私が望むことではないのかもしれないわね。

 貴方もやっと分かってきたようね。どちらが本当なのか、私は決して言わないわ。想像するのは好きにすれば良いけれど、正解が何かは誰にも分からないままにしないといけないの。だからもうお帰りなさいな。帰って、もう二度と来なければ良い。これ以上は話すことは何もないから。貴方の期待も叶わないから。次に貴方が私の名前に触れることがあるとしたら、きっと私の訃報でしょう。これだけ世の中が変わっても、まだ世間は私を忘れていてはくれないと思うから。何十年ぶりかに、私の名前が新聞の一面を賑わせるのかもしれないわね。

 早くその時が来て欲しいものね。もう、それほど待たなくても良いと思うのだけど。ずっと前から決めているのよ。私の墓碑銘には何も刻まないのだと。死んで初めて、私はやっと何ものでもない者になれるのでしょう。
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