ich rede nichts 赤い皇女は語らない

悠井すみれ

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ファシズムの足音

シュシュニックという男

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 ヒトラーに対してまともな抵抗をしなかったことへの言い訳? 貴方は本当に嫌なことばかり言うのね! 私たちは、当時のオーストリアにあっては弾圧される存在で、常に監視されていたのよ? 私たちがウィーン市街のカフェでカードゲームに興じていた──その振りで政治や国際情勢について語り合っていた──間も、ずっと制服の警官が貼りついていたのよ。長い付き合いの党の友人にも、指名手配されて身を隠さなければならなくなってしまった人たちもいた。そしてもちろん、困った人たちに手を差し伸べるのに、私たちが躊躇うことはなかったわ。この屋敷──庭の木々も見事でしょう? 通りからではちょっと見ただけでは人の出入りは分からないわ。だから、追い詰められた人を匿って、逃れるのに車を出してあげることもあった。その時にはお金も服も持たせてあげて、できるだけのことをしてあげたものよ。それだけのこと、と貴方は言うの? 命の危険を冒して何もかもをなげうつのでなければ勇気ある行為とは認めないの? ああ、貴方は私が行動した方向性が気に入らないのね。ナチスの牙がすぐ傍に迫っていたのに革命ごっこなんて、ということね? 国内で「一致協力」すべきだというなら、思想の違いを越えて、ヒトラーの野望に立ち向かうべきだったと言いたいのね? それならはっきりと教えてあげましょう、一致協力を拒んだのは政府の方よ。それは、社会民主主義者の方にも頑なな人たちはいたけれど、でも、同志を収容所に送られ、市井にいる人も監視され尾行され、犯罪者扱いしておいて──それで協力しろと言われてもできないのではないかしら。少なくともゴルディやレンナー──第一次と第二次、それぞれの大戦の後に首相になった偉大な人よ──は、シュシュニックに働きかけて協力を申し出ていたのよ。それをずっと無下にしてきたのはあちらの方だったのに!

 貴方がシュシュニックを高く評価しているのが不思議なくらいね。あの男自体を、というか、ヒトラーにさんざん脅されて、涙ながらに合邦アンシュルスを受け入れることになってしまった、という物語を好んでいるのかしら。頼みのムッソリーニは、スペイン内乱のどさくさに紛れてヒトラーと接近し、ドルフスに続いて首相暗殺計画も練られていたのも発覚した。ナチスの介入を理由にヒトラーを責めようとしても、ベルヒテスガーデンでの会談ではドイツとオーストリアの併合案を突き付けられるだけだった。国民投票でオーストリア国民に独立か合邦かを選ばせる案も、ついに国境へ軍を差し向けたヒトラーによって潰された。仕上げは、合邦を報じたあのラジオ放送よ! ドイツ軍の侵攻を防ぐためにはこれしかないと、無血でヒトラーを受け入れる決断をしたという演説。最後の言葉は──神よ、オーストリアを守り給え! 悲壮な決意、殉教者の祈りにも聞こえるのかしら。なんて感動的な。亡国の瞬間に立ち会わなければならなかった首相を、どうして助けてあげなかったのか、と言うことなの?

 いいえ、私はシュシュニックに対して恩があるとは思っていないわ。なぜだか貴方はよく知っているようだけど、確かに「うたかたの恋」とかいう映画が、少なくともこの国では制作されなかったのも、それに、父の女性関係にも赤裸々に触れた母の回想録の出版を差し止めることができたのも、シュシュニック政権下でのことだったわ。シュシュニックはそもそも保守派で、君主制にも理解と共感を持っていた。ナチスの圧力に対して、オーストリアが国として立ち向かう基盤──愛国心だとか国民としての意識だとか──はあまりにも弱かったから、それを過去の秩序に求めざるを得ないという事情もあった。だから、「旧き良き時代」の象徴として記憶されるハプスブルク家の名誉を傷つけるような本も映画も許さない、ということだったのね。そうね、私としては両親の醜聞を世間に広めたくないだけだったのだけど、そこだけは政府と利害が一致していたかもしれない。でも、だからといって感謝する気にはなれないわね。
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