ich rede nichts 赤い皇女は語らない

悠井すみれ

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ファシズムの足音

クーデターと独裁者たち

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 でも、その喜びも長くは続かなかった。一九三四年の七月二五日──オーストリアの歴史の岐路が立て続けに起きたのは、ゴルディが自由の身になってほんの数日後のことだった。ドルフスが、ナチスによって暗殺されたのよ。
 社会民主党と同様に、オーストリア・ナチス党もとうに非合法化されていた。二月蜂起の後、ドルフスはますます独裁体制を強化して、彼らへの警戒と、それに弾圧を怠っていなかったはず。でも、ヒトラーの援助と影響を受けたオーストリア・ナチスはオーストリア内でテロを繰り返し──クーデターの計画を練っていたのよ。

 七月二五日の、白昼堂々のできごとだったわ。首相官邸に政府軍の制服を着た兵士たちが押し入って、ドルフスに銃弾を浴びせたということだったわ。同時に放送局も占拠されて、ドルフスの「辞任」が発表された。私たちが最初に事件を知ったのはそのラジオだったから、最初は何がなんだか分からなかったものよ。でもすぐに号外が届いて、実際はクーデターで、ドルフスは襲撃の傷がもとで死亡したと分かったの。ラジオ放送は、全国に潜んだオーストリア・ナチス党員への暗号だったのよ。クーデター開始、蜂起せよ、という。二月の事件からまだ半年も経っていなかったというのに、オーストリアは再び国内で争うことになったのよ!

 クーデター自体は、すぐに鎮圧されたわ。政府軍も護国団も、時にはもと共和国防衛同盟のメンバーも加わって、ナチスにこの国を奪われないように戦ったの。犠牲者は二百数十名──決して、少なくはないけれど。ああ、オーストリアが今度こそ「一致協力して」ナチスの圧力に立ち向かったと断言できたらどんなに良かったでしょう。オーストリア・ナチスが勝手に暴走しただけだと、素知らぬ顔をしていたヒトラーを、私たちの手で悔しがらせることができたなら。でも、残念ながらそうではなかったわ。いえ、ヒトラーがオーストリアに介入する口実を失ったのは確かだったけれど、それにはクーデターの迅速な鎮圧よりも大きな理由があった。オーストリアの混乱を察知したイタリアのムッソリーニが、素早く軍をイタリアとオーストリアの国境のブレンナー峠に配備していたの。あからさまに牽制されてはヒトラーも動くことはできなかったというだけ──オーストリアは、結局、外国のファシストに首の皮一枚のところで救われたに過ぎなかったのよ。

 そして、ドルフスの後継者となったシュシュニックも前任者と同じ独裁者に過ぎなかったわ。ヒトラーから独立を守ろうという決意こそはあったけれど、それでもシュシュニック政権下では社会民主党は非合法扱いのまま、密かに活動しなければならないことには変わらなかった。党の中でも若い人や好戦的な人たちは革命を実現させようと武器を捨てず、潜伏を続けていた。でも、ゴルディはもう身体が弱ってしまっていた。私も、彼に危険を冒して欲しくはなかった。二月蜂起の後、行方も、生死さえ知れなかったことを思い出すと恐ろしくてならなかったから。ええ、このころになってやっと、私は怖いという感情を覚えたのかもしれないわね。親族から敵意を買っても世間から後ろ指をさされても構わない、なんて。本当の危険を知らないからできたことだったのよ。離婚裁判で子供たちを奪われそうになった時よりも、状況はなお悪かったわ。非合法で反政府的だと見なされた活動に関わってしまったら、そうして逮捕されて、収容所──敵対者を拘束して隔離したのはナチスに限ったことではなかったのよ──に送られたら、二度と会えるか分からないのだから。
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