上 下
51 / 73
ファシズムの足音

緑色のファシズム

しおりを挟む
 とにかく──だから、ここからの話は、私がこの屋敷から見聞きして、感じて、考えたことよ。もう三〇年も前のこと、私とゴルディはこの屋敷で色々な報せを受け取り、慌ただしく飛び出したり、息を潜めて事態の経緯を見守ったり、党の同志と密やかに語り合ったりしたの。そう思うと、遠い昔の別の世界のことでもないと思えるのではないかしら。

 一九二七年の暴動に関する社会民主党の対応は、今となってはきっと間違いだったのでしょう。党の主導部は、内乱に発展することを恐れてストライキを抑制し、事後には軍事組織である共和国防衛同盟を強化することをしなかった。すべて、オーストリア人同士で争うのを避けようとしてのことよ。オーストリア人──そんな自覚がある人は、あのころはまだとても少なかった。オーストリアは、祖父の帝国から諸民族が次々と離れていった、その残りの部分でしかなかったのだもの。オーストリアという国、その国民であるという意識が薄かったのよ。だからドイツとの合邦を望む声が絶えなかった。チェコスロヴァキアやハンガリーのように、念願の自分たちの国を手に入れた民族たち、意気揚々と、自らの国を発展させようという理想に燃えていた彼らとは訳が違ったの。

 だから国内で争っている場合ではないはずだった。……でも、党の姿勢は労働者からは弱腰と見られたし、右派は増長するばかりだった。ゴルディは、社会民主党も軍備を整えるべきだと強く訴えていたわ。私は……そして党の指導者の多くも、戦争が怖かったのでしょうね。だって、第一次世界大戦が終わって、やっと十年が経ったかどうかのところだったのよ。またあんな不安な日々を送るなんて、誰も望んでいなかったの。でも、あの時に勇気をもって立ち上がっていれば未来は──現在は、変わったのかしら。もしも、を考え始めたら止まらなくなってしまうわね。でも、当時を知らない貴方が社民党の態度を批判するのは耐え難いわ。私たちは決して、国難に際して手をこまねいていた訳でもないし、楽観的過ぎた訳でもない。私自身の話よりもよほど、そこのところを話しておきたいものね。

 今になって振り返れば、オーストリアにファシズムが忍び寄り始めた契機は一九三二年になるのでしょうね。その年に首相に就任したエンゲルベルト・ドルフスはオーストリアで勢力を伸ばそうとするナチスに対して、国の独立性を守るべく奮闘した、と言われているのかしら。こう言うとまるで立派な人物のようね。でも、ドルフスは同時にオーストリアの民主政治を殺した独裁者よ。ヒトラーほど邪悪ではなかったとしても、その事実は変わらないわ。ドルフスが敵意を向けたのはオーストリア・ナチスだけではなかった。共産党も社会民主党も、キリスト教社会党以外の政党から発言を封じ、急速に中央集権体制の確立を進めていったのですもの。社会民主党が率いるウィーン市の財源は取り上げられ、共和国防衛同盟の活動は禁止された。ついには議会を閉鎖して武力を背景に国を牛耳ったのよ。ドルフスがイタリアのムッソリーニからも支援を受けていたのはさっきも言ったわね。そもそもは各地の自警団としてはじまったはずの郷土防衛運動も、権力者の私兵として再編されて護国団と呼ばれるようになった。武力を振りかざして反対勢力を弾圧する──それはもはや、立派なファシズムではないのかしら。ナチスの褐色の制服ではなく、オーストリアの民族衣装にちなんだ緑色の制服を纏ってはいても、それはほんのささいな違いでしかないのではないかしら。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

和ませ屋仇討ち始末

志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。 門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。 久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。 父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。 「目に焼き付けてください」 久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。 新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。 「江戸に向かいます」 同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。 父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。 他サイトでも掲載しています 表紙は写真ACより引用しています R15は保険です

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

女奉行 伊吹千寿

大澤伝兵衛
歴史・時代
 八代将軍徳川吉宗の治世において、女奉行所が設置される事になった。  享保の改革の一環として吉宗が大奥の人員を削減しようとした際、それに協力する代わりとして大奥を去る美女を中心として結成されたのだ。  どうせ何も出来ないだろうとたかをくくられていたのだが、逆に大した議論がされずに奉行が設置されることになった結果、女性の保護の任務に関しては他の奉行を圧倒する凄まじい権限が与えられる事になった。  そして奉行を務める美女、伊吹千寿の下には、〝熊殺しの女傑〟江沢せん、〝今板額〟城之内美湖、〝うらなり軍学者〟赤尾陣内等の一癖も二癖もある配下が集う。  権限こそあれど予算も人も乏しい彼女らであったが、江戸の町で女たちの生活を守るため、南北町奉行と時には反目、時には協力しながら事件に挑んでいくのであった。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

出撃!特殊戦略潜水艦隊

ノデミチ
歴史・時代
海の狩人、潜水艦。 大国アメリカと短期決戦を挑む為に、連合艦隊司令山本五十六の肝入りで創設された秘匿潜水艦。 戦略潜水戦艦 伊号第500型潜水艦〜2隻。 潜水空母   伊号第400型潜水艦〜4隻。 広大な太平洋を舞台に大暴れする連合艦隊の秘密兵器。 一度書いてみたかったIF戦記物。 この機会に挑戦してみます。

【18禁】「巨根と牝馬と人妻」 ~ 古典とエロのコラボ ~

糺ノ杜 胡瓜堂
歴史・時代
 古典×エロ小説という無謀な試み。  「耳嚢」や「甲子夜話」、「兎園小説」等、江戸時代の随筆をご紹介している連載中のエッセイ「雲母虫漫筆」  実は江戸時代に書かれた随筆を読んでいると、面白いとは思いながら一般向けの方ではちょっと書けないような18禁ネタもけっこう存在します。  そんな面白い江戸時代の「エロ奇談」を小説風に翻案してみました。    下級旗本(町人という説も)から驚異の出世を遂げ、勘定奉行、南町奉行にまで昇り詰めた根岸鎮衛(1737~1815)が30年余にわたって書き記した随筆「耳嚢」  世の中の怪談・奇談から噂話等々、色んな話が掲載されている「耳嚢」にも、けっこう下ネタがあったりします。  その中で特に目を引くのが「巨根」モノ・・・根岸鎮衛さんの趣味なのか。  巨根の男性が妻となってくれる人を探して遊女屋を訪れ、自分を受け入れてくれる女性と巡り合い、晴れて夫婦となる・・・というストーリーは、ほぼ同内容のものが数話見られます。  鎮衛さんも30年も書き続けて、前に書いたネタを忘れてしまったのかもしれませんが・・・。  また、本作の原話「大陰の人因の事」などは、けっこう長い話で、「名奉行」の根岸鎮衛さんがノリノリで書いていたと思うと、ちょっと微笑ましい気がします。  起承転結もしっかりしていて読み応えがあり、まさに「奇談」という言葉がふさわしいお話だと思いました。  二部構成、計六千字程度の気軽に読める短編です。  

大江戸怪物合戦 ~禽獣人譜~

七倉イルカ
歴史・時代
文化14年(1817年)の江戸の町を恐怖に陥れた、犬神憑き、ヌエ、麒麟、死人歩き……。 事件に巻き込まれた、若い町医の戸田研水は、師である杉田玄白の助言を得て、事件解決へと協力することになるが……。 以前、途中で断念した物語です。 話はできているので、今度こそ最終話までできれば… もしかして、ジャンルはSFが正しいのかも?

処理中です...