ich rede nichts 赤い皇女は語らない

悠井すみれ

文字の大きさ
上 下
29 / 73
崩壊する世界

身近に迫る危機

しおりを挟む
 それでも、あのころの私にとって恐ろしかったのは、ロシアでの革命やアメリカの参戦、オーストリア国内でも高まる民衆の不満の声よりももっと身近なことだったわ。シェーナウの館に、頻繁に脅迫状が届くようになっていたの。下の子供たちはまだ十歳にもならない、か弱い女がやっと切り盛りする家だというのに!

 当時の夫のオットー・ヴィンデッシュ=グレーツの仕業だと分かっていたわ。祖父が亡くなって、名実ともに皇室を離れた私に、わざわざそんなことをする必要がある人はほかにいないもの。まだ戦争中で、あの男自身も前線にいたというのに、祖父の勘気を恐れる必要がなくなったと見て、素早く行動を起こしたのよ! 脅迫状の内容は、今でも口に出して言いたくないわ。ただ、この上なく不本意で侮辱的で恥知らずなものであった、とだけ。あの男は、オットーは、私のことをずっと監視させていて、しかもそれを私に仄めかせたのよ。
 警察も、新しい皇帝のカールも頼れなかった。あの時の私は、自分の身は自分で守らなければならない状況だった。だから、私は決意した。あらゆる方向から敗戦の気配が漂ってきた一九一七年の暮れのことよ。とうとうこれ以上は耐えきれないと思ったの。まだ戦い続けている兵にも民にも申し訳ないと、そんなことをしている場合ではないのは重々分かっていたけれど。でも、我慢の限界だった。私は、オットーに正式に離婚の申し入れをしたの。決着をつけなければならないと思ったのよ。私自身の自由のため、皇室から逃げ出すためとはいえ、オットーを結婚相手に選んだのは失敗だった。それを認めて、清算する時が来たのよ。

 だから──分かるでしょう? あれは、オットーのせいだったのよ。彼が時節も弁えずに私を追い詰めようとするから。だから私は、戦争中にもかかわらず、とても個人的な離婚裁判を始めなければならなくなったのよ。きっと、それさえも私の評判を貶めるための策だったのかもしれないわね。ロシアで起きた革命は、東側からじわじわと共産主義を伝えてきていたから。多くの臣民には、皇帝が始めた戦争で、皇帝に戦わせられているとも思えたのでしょう。貴族や、ハプスブルク家そのものへの逆風も強くなっていくころだったから。だから、鼻持ちならない皇族出身の女を懲らしめてやるという体を取れば、有利に離婚裁判を進められると踏んだのでしょう。
 男が強いあの時代に、しかも、もはや後ろ盾のいない私が相手だったというのに周到なこと! レルヒの戦死の後、私は子供たちのためにも戦時中は離婚はしないように頭を下げていたのよ。そして、財産分与案に同意してさえいたのに! 本当に……器の小さい、卑怯な男だったのよ。あんな男を、結婚するのに手ごろな相手だと見込んでしまった私は愚かで浅はかさだった。そう、認めなければならないでしょう。でも、だからといってあの男の仕打ちが許されるはずもない。だから貴方は私の泣き言なんて聞けないのよ。きっと残念なことなのでしょうけど。あのころも今も、私は後悔する暇があるなら怒りを燃え立たせるような女なのよ。

 少なくとも、クリスマスと新年を子供たちと過ごすことができたのだけが慰めだったわ。オットーと法廷で争ううちに一九一八年が明けて──そして、年明けすぐに発表されたのが、アメリカのウィルソン大統領の十四か条の平和原則だった。その中でももっとも有名なのが、民族自決の項目でしょうね。それぞれの民族にそれぞれの国家を! 
 そもそも帝国の各地で民族主義の熱が高まっていたところに、お墨付きが与えられたようなものだった。ロシア革命の余波もあって、帝国を構成していた諸民族も、いよいよ声高に独立を求めて叫ぶようになっていった。カール帝は、まだしも帝国の体裁を保った状態で終戦に持ち込もうとしていたようだけど。でも、そのために彼が選んだ方策は、決して手放しに認められるものではなかったわ。皇后ツィタの実家、ブルボン=パルマ家の伝手を頼って、官僚や民や同盟国ドイツの了承を得ないでの和平工作なんて。しかもその工作に失敗するなんて。彼がしたことは、結局、皇帝の権威を失墜させるだけだったのでしょうね。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

グータラ殿下の天征記

刃口 呑龍
ファンタジー
時は、中世ヨーロッパ。貧乏名家に生まれ育ったぐうたら殿下こと、グーテルハウゼン殿下。特に野望もなく、自分の国で友人や、街の人々と交流しつつのんびり生きていくはずだったのだが……。 だけど、何故か大帝國の皇帝に。 「なんでこうなったかな〜?」 ただの殿下が、大国の宰相にそして、世界一の大国マインハウス神聖国皇帝へと、それだけで終わらないのが、グータラ殿下の真骨頂。 色々言い訳しつつ、ダリア地方や、ランド王国にまで、グルメ旅。さて、最後に辿り着くのはどんな料理か? 神聖ローマ帝国のハプスブルク家の台頭の物語をモデルにしてますが、フィクションです。実際の年代とズレがありますが、物語が間延びしないようにするための行為です。ご了承ください。そして、名前も架空にしました。 中世ヨーロッパの料理にトマトやじゃがいもが出ててきますが、中世ヨーロッパに、トマトやじゃがいもはありません。大航海時代以降に原種が南米より中世ヨーロッパにやって来ます。 そして、スペイン人によってもってこられたようですが、それぞれプロイセン王国、イタリア諸都市で栽培が盛んになっていきます。 グータラ殿下の話は、フィクションです。そして、料理は、ほぼ現代です。なぜかというと中世ヨーロッパの料理をそのまま出すと、かなり酷いものになっちゃうのです。お酒も現代日本人のように冷やして、云々というのはないので、中世ヨーロッパの料理を調べて、これでは美味しく書けないと、現代風にしました。御容赦ください。

鬼を討つ〜徳川十六将・渡辺守綱記〜

八ケ代大輔
歴史・時代
徳川家康を天下に導いた十六人の家臣「徳川十六将」。そのうちの1人「槍の半蔵」と称され、服部半蔵と共に「両半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱の一代記。彼の祖先は酒天童子を倒した源頼光四天王の筆頭で鬼を斬ったとされる渡辺綱。徳川家康と同い歳の彼の人生は徳川家康と共に歩んだものでした。渡辺半蔵守綱の生涯を通して徳川家康が天下を取るまでの道のりを描く。表紙画像・すずき孔先生。

大江戸美人揃

沢藤南湘
歴史・時代
江戸三大美人の半生です。

処理中です...